永遠のローラ 第Ⅲ部 (10)
ローズ邸に着いてみると、正面玄関の鍵を開けるやいなや、ラッセルが押し倒さんばかりの勢いでセシルに襲いかかってきた。彼は小さな頃から広い屋敷で育てられたので、完全にひとり(一匹)きりという状態になったことが生まれてから一度もなかった。それで、ローラが出掛けてしまってからは、随分寂しい思いをして、セシルはどこへいったのだろう、もしかして自分は二度と彼に会えないのではないだろうかと、小さな脳味噌を悩ませていたのであった。
べろべろべろと顔中――耳の穴の中まで――犬になめつくされながら、セシルはローズ邸の居間へいき、そしてしつこく縋りついてくるラッセルの相手を適当にしながら、そっと台所のほうをのぞきこんだ――何か、手紙のようなものが置いてある。
<アップルパイとジンジャークッキーを用意しておきました。紅茶と一緒に食べてください。
ローラ>
セシルはごくりと生唾を飲みこむと、居間に引き返して、椅子おおいのかかった馬巣織りのソファの上へ倒れるように横になった。その上にラッセルが前脚をかけて、大きな図体を尻尾を振りながら重くのしかけてくる。
「俺は……一体どうしたらいいんだ、ラッセル?まるで、気が狂いそうだ――それともこれが普通なんだろうか?彼女を自分のものにしたい――だけど、これがもし少しばかり度の過ぎる親切心だったとしたら……俺は彼女に嫌な思いをさせてしまうだろう。なあ、ラツセル、きのうはどうだった?俺がもしおまえと同じ犬なら、なんの遠慮もなくこの家に泊まれるんだがなあ」
「あのう……」と、控え目な声が玄関の戸口のほうからすると、セシルはぎくりとしてソファの上に起き上がった――いや、滑稽にも、のみのようにぴょんと跳び上がったといったほうが正しかったかもしれない。
「ローラ姉さんのお客さんですか?するとローラ姉さんは今日、店にでていないのかな」
「ああ、いや俺はその……」
頭から帽子をとり、作業着の胸のあたりに当てている青年は、つい先頃、ダラス家の四女、エミリアと結婚したばかりの、マーシー・マコーマックであった。マーシーは嫁のエミリアにけしかけられ、ジョン・ウェブスターがやたら<この画期的で便利な>と吹聴して歩いている農薬のことで、実はローラに話をしにきたのであった。
しかしマーシーは、セシルの悩ましげな告白を盗み聴いてしまうと、生来の悪戯小僧の精神が頭をもたげてきて、エミリアがやたらカンカンになってローラのことを責め立てるのを、すっかり忘れ去ってしまった。
「ロロ、ローラはスミスさんのお店にでているよ。お、俺はその……この犬をこの村にいる間、預かってもらう約束を彼女としていて……」
「そうなんですか」と、マーシーは何も聞こえなかったというように、人好きのする笑顔でにっこり笑った。「それで、ローラとお兄さんは、一体どういう知りあいなんです?あ、申し遅れましたが俺はマーシー・マコーマックと言います。ローズ家の農場の管理をしてるってえか、ようするに雇い人ですね。そんでお兄さんは?」
セシルはおじさんといっていい年齢ではあったが、弟のティムの選んだ若向きの格好をしていたせいか、お兄さんといえないこともない容貌に見えた。
「ええっと、お兄さんはね……」などと、セシルも混乱の極みにいたため、自分の話している言葉が、きちんと自分の耳に届いていないような状態であった。「ローラの知りあいで、ロカルノンから旅行でやってきたんだ。そしたら偶然スミスさんのお店でローラとばったり会って……」
「ふうん、そっか。偶然かあ」と、マーシーはまるですべてお見通し、といったようなしたり顔で、腕組みをして頷いている。「まあいいや、そういうことでも。そんでお兄さん、ローラ姉さんに求婚するの?」
普通、社会常識的に考えれば、このようにズバリとすぐ核心に迫れるものではないだろう。マーシーはセシルが黙りこむと、悪戯っぽそうな笑みを顔いっぱいに浮かべた。
「まるで、気が狂いそうだ……彼女を自分のものにしたい……」マーシーは突然演劇っぽく、熱を帯びた口調になってセシルがつい先ほど言った科白を真似た。「あはは、お兄さん、そんな顔しなさんなって。少なくとも俺はお兄さんの味方だぜ――あんないい女がいつまでも、こんな広い屋敷にひとり住まいってのはよくないもんな。俺でよかったら喜んで協力するよ。なんかお兄さん、感じのいい人のオーラがでてるし」
「え……えっとその、そうかな?」セシルはソファの背もたれごしに、マーシーのことを振り返った。会ってすぐにいい人だなどと言われたのは、セシルは生まれて初めてであった。大抵の人間は――特に小さな頃は――セシルがやぶ睨みのせいか、第一印象は「恐い人」と思われることが圧倒的に多かったのだ。
「モチのロンさ」と、マーシーはシンディから移された口癖で、ウィンクしながら請けあった。「お兄さんはローラ姉さんのことが本気で好きなんだろ?そんでローラ姉さんは自分の留守にお兄さんのことをこの家に入れた……ようするにそれは脈ありってことさ。ローラ姉さんはほとんど滅多に村の男には心を開かないからね――それで逆に嫌な噂をたてられたりもしてるけど、そんなのはみんなただのやっかみさ」
「……嫌な噂って?」思わず気になって、セシルは聞いた。
「まあ、ようするに……あ、ちょっと待ってね、お兄さん」
マーシーは開いたドアから台所のほうへいくと、やっぱりな、というしたり顔になって、アップルパイとジンジャークッキー、それとティーセットを両手に持って居間の大理石のテーブルに置いた。そしてセシルの隣に腰かけると、ティーポットからぬるくなった紅茶を二客のカップに注いだ。
「ローラ姉さんのアップルパイは美味しいからなあ。それに比べてうちのエミーときたら……まあその話はいいや。そんで、どこまで話したっけ?」
「ローラについての、嫌な噂」と、小さな声で呟きながら、セシルも紅茶を一口飲んだ。
「うん、だからようするに……お兄さん、お兄さんはローラ姉さんがあの若さですでに二回結婚してるって知ってるよね?」
「ああ、まあ一応……」
マーシーに勧められるまま、アップルパイを食べたセシルは、思わず片手で口許をおおってしまった。マグワイア家の菓子職人が作るパイよりも、よほど美味しいではないか!
「な、美味いだろ?」マーシーは六つに切り分けてあるパイのうちの一切れを、ぺろりと平らげながら言った。「……もぐもぐ。そんでさあ、今も村にはローラ姉さんにさえその気があれば結婚したいって男が一ダースもいるわけ。だけどローラ姉さんが歯牙にもかけないっていう冷たい態度だから、そういう連中は女々しく陰でこういうんだよ。『まだ二十代で二回も結婚してる身持ちの悪い女』とか、『最初の夫が死んでから、一年なるかならないかで再婚した、ふしだらな女』とか」
「ふしだら……」と、セシルは、ローラとおよそ結びつかない単語を口にして、そのあと赤面した。
「だけど、俺はちゃんと知ってるぜ――ローラはトミーのことを本当に心から愛してたし、そのあとトミーに似た人が現れたらさあ、やっぱ結婚しちゃうだろ?その人がそんな悪くない人だったらさあ。で、その人も交通事故で亡くなっちまって、今三人目の夫候補として現れたのがお兄さんってわけ……ところでさ、お兄さん。お兄さんはいつまでここにいるわけ?」
「えっと、そうだな。一応十日くらいの予定で……」
「ふうん。そんで最後の日あたりでプロポーズするんだ?」
(何故わかったのだろう?)と、セシルは思わずぎくっとして、自分より遥かに年下であろうマーシーのことを見返した。
「そりゃ、わかるさ」マーシーはジンジャークッキーをぼりぼり食べながら笑った。「俺だってこれでも一応男だもん。それに、ローラ姉さんが結婚するとなるとさ、この家の主がどんな人かによって俺っち雇い人の境遇も決まってくるってわけ。ところでお兄さんはさあ、何やってる人なわけ?そんな洒落た格好してるってことは、農家の人じゃないよね」
「えっと、お兄さんは……」と、セシルはなんとなく言葉に詰まった。自分が果たして事業家なのか軍人なのか、今ではよくわからなくなっていた。けれどもまあ、ここロチェスターへは新しくホテルを建設するための視察にやってきたのであり……。
「ええとその、元は軍人だったのだが、今は家の都合でね、ホテルなんかを経営してるんだ――といってもあくまでも代理だけどね。弟が大学を卒業するまではその仕事をして、そのあとまた軍人に戻ろうかとは思ってるんだが……」
「へえ。じゃあもしかしてお兄さんってお金持ちなの?そんでもって軍人さんかあ。なんか格好いいなあ」
セシルは生まれて初めて、面と向かって格好いいなどと言われて照れた。
「でもさあ、そうなるとどうなんだろ……ローラ姉さんは絶対ここから離れないだろうしな。もしかしてお兄さん、結婚したらローラ姉さんにロカルノンにきて欲しいの?」
セシルは襟のカラーのあたりに手をやると、しばし考えた。すっかり恋の熱情に駆り立てられてしまっていて、そんなことにまで頭がまわっていなかった。
「……わからない。マグワイア家の財産を譲るとなると、ロカルノンにある屋敷も、弟のものということになるし、いずれ弟も結婚してその妻があの家で暮らすとなると、俺はでていくことになるだろう。だけど、陸軍省は……」
とここまで言いかけてセシルは、はっとアシモフ・モールヴィの皺の多い、黒い猿のような顔を思いだした。あの男を見捨てることだけは、自分にはどうしてもできない。
「よくわかんないけどさ」マーシーはセシルの深刻な表情を読みとりかねたが、彼の頭の中にあるのはとりあえず、この感じのいい洒落男がロチェスターにいる間、ローラと楽しく過ごすということであった。「なんにしても、お兄さん今暇なんだろ?もし嫌じゃなかったら畑の植えつけでもやんないかい?そしたらローラ姉さんはきっと、『まあ、お客さまになんてことを!』とか言いながら、泥で汚れたお兄さんのことを、優しく世話してくれると思うぜ」
そのあとマーシーは、勝手知ったるなんとやらで、ローズ家の二階へ上がっていくと、かつてトミーが着、またアンソニーが着た繋ぎの作業服を箪笥の中から探しだしてきて、セシルに着るように言った。
「流石にその洒落たスーツを泥で汚すってわけにいかないもんな」
それからさらに靴箱の中から、アンソニーの黒い長靴とフレデリックの革靴をとりだしてくると、どちらかサイズの合うほうを履くようにと言った――こうしてセシルは黒い長靴をはいて田舎の農夫スタイルになると、ローズ家の畑地でとうもろこしの種を蒔いたり、玉葱の苗を植えたりして、その日の午後遅くまで立ち働いた。
そしてスミス雑貨店のオープンカフェで一日中忙しく働いて、午後の四時近くに帰ってきたローラは――畑でマーシーやサム・デイヴィッド、その他の雇い人たちに混じって泥だらけになっているセシルを見て、マーシーの言ったとおり「まあ、お客さまになんてことを!」と、顔色を失ったのだった。
「マーシー!」きっとこれは彼がセシルに何か言ったために違いないと思ったローラは、黒繻子のドレスを軽く持ちあげると、整然と並ぶ畝づたいに走っていった。「どういうことなの?セシルのことを働かせるだなんて、こんな――あの方はね、タリス陸軍の大佐でいらっしゃる方なのよ!」
マーシーはセシルが大佐、と聞いて驚きはしたが、むしろそれより――滅多に怒ったり声を荒げたりしないローラが、感情をあらわにしているのを見て、ますますこれは脈ありに違いないと踏んだ。
「セシル兄さんがさ、自分から是非ともやりたいって言うもんだから、無理に止めることもできなくってさ」と、マーシーはこちらに背中を向けたまま、熱心にじゃがいもの苗を植えているセシルのことを振り返った。「まあ、そう怒んないでよ。俺はセシルさんが大佐だなんて知らなかったんだから――ただ、農薬のことでエミーがローラ姉さんに話をしにいけってうるさくてさ、それで家のほうにいったらピカピカの格好いい車が停まってたから、もしかしてお客さんかなーと思って見てみたら、セシルさんがいたってわけ」
「農薬?」きのう、セスナ機に乗ってやってきたジョン・ウェブスターのしたり顔を思いだして、ローラはなんとなく嫌な気持ちになった。「あんたはジョン・ウェブスターのいう、<とても便利で画期的な>あれを使いたいっていうの?ジョンの話じゃあ、去年使ってみて大変よかったっていうことだったけど――あたしはもう少し様子を見てみるべきだと思ってるわ。もちろん、ここの畑地の管理者はわたしじゃなくてマーシーだし、あんたがもしどうしてもっていうなら……」
「いや、いいよ。わかったよ、ローラ姉さん」と、鍬で黒い土を耕しながら、マーシーは言った。ローラの賛成もなく自分の勝手にした場合、その責任はすべてマーシー自身の肩にそっくりそのまま乗っかってくることになるからだ。「べつに俺、ジョン・ウェブスターの言うとおりだなんてまるまる信じてるわけじゃないんだ。病虫駆除に効果があるのは確からしいけど――じっちゃんに聞いたらさ、結局のところ楽をしたら、その分だけどっかで埋め合わせをすることになるのは変わりないとか言ってたし……俺もうまい話にのって、これまでいい目を見たことなんか、いっぺんもないもんな」
マーシーは肩にまわしたタオルで額の汗を拭うと、まめのできた手で、鍬を握り直した。
「たださ、エミーがそんないいものがあるのになんで使わないのかって、始終がなりたてるもんだから――一応もう一回、ローラ姉さんに聞いておこうと思って。ローラ姉さんがやっぱり駄目だって言ったっていえば、あいつも納得するだろ」
「マーシー……」
ローラは常緑樹に囲まれた、新しいマーシーの新婚家庭のある家のほうを遠く眺めやった。レンガの煙突から煙がでているところを見ると、夕食の支度をしているところなのだろう。ローラは表面上はどうあれ、自分がエミリアにあまり好かれていないのを知っていた――そしてそのことで時々、マーシーが嫁と姑の間に挟まれた夫のように、苦しい立場に立たされることがあるらしいということも。
「悪かったわ、マーシー。もしそのことでエミリアがこれからもあんたのことをせっつくんなら……畑の一部で実験的に農薬を使ってみることにしてもいいわ。それで何も問題ないようなら、少しずつ農薬を使う面積を広げていったらどうかしら」
「いいんだよ、ローラ姉さん」と、仕事を続けながらマーシーは言った。「俺はべつに楽して働きたいとは全然思わないからね――あんな立派な家まで建ててもらって、ローラ姉さんには本当に感謝してる。エミーの奴もそういう気持ちでいてくれりゃあいいんだけど、女って奴はどうしてこう……いや、ローラ姉さんは別だけどさ――面倒くさいんだろうな」
不思議なことに、ローラの目にはマーシーがエミリアのことを愛しているように見えたことが、これまで一度もなかった。エステルが亡くなり、失意のどん底にいた彼のことを慰めたのがエミリアだったわけだが――そのエミリアにしても、何故かあまり夫のことを敬っているようには見えないのだった。
「ローラ姉さん。農薬のことなんかもうどうでもいいからさ、セシルさんのとこにいってあげてよ。あの人、とうもろこしが種からできるってことも知らなかったんだぜ――びっくりだろ。でもその割にはなかなか筋がいいよ。金持ちの俺がなんでこんなことをとか、そんな態度でもまるでないしさ。結婚したら、きっと真面目な働き者になるんじゃないかな」
「まったくもう」と、ローラは呆れたようでいながら、明るい、楽しげな笑顔で笑った。
「きっとあの方には、都会のほうにいい人がいらっしゃるわよ、きっと」
「へえ、そうかな」と笑いながら呟いたマーシーの肩を軽く叩くと、ローラは畝の間を縫うようにして、じゃがいもの苗を植えることに熱中している、セシルの元まで歩いていった。
「ごめんなさいね、セシル」
そうローラが声をかけると、セシルは立ち上がって、両手にこびりついた黒い土をほろった。
「一体なにがだい?ローラ」と、セシルは涼しくなってきた風に、笑顔をほころばせながら言った。「それよりも、農作業っていうのはなかなか楽しいものだね。もちろん、都会からひょいとやってきて、暇つぶしにやっているからそう感じるのかもしれないけど――なかなか貴重な体験だったよ」
「それなら、いいけれど……」
ローラは今は亡き夫の作業服に、黒い長靴を履いているセシルのことを、しげしげと見つめた。春の風の香りと土の匂いに包まれていると、何故だか不意に懐かしい記憶が呼び覚まされた。
夕暮れに近い時刻、ローズ邸の煙突からは夕げの煙がたなびき、男たちは彼女の用意した食卓のことを考えながら、畑から戻って来……ああ、あの日々はもう二度と戻ってはこないのかしら?そう思うとローラは、何故か突然悲しくなった。
「どうかした、ローラ?」
もしかして自分が亡くなった旦那の服や長靴を履いているのが気に入らなかったのだろうかと、セシルは心配になっていた。だがローラの瞳に悲しみの影が浮かんでいるのを見てとると、そうではなく亡くなった夫のことを思いだしたのかもしれないと思い、セシルは胸が切なく締めつけられるのを感じた。
「……これから、夕食の用意をするので、家のほうに戻りませんか?慣れない畑仕事で、お疲れになったでしょう?」
「いや、このくらいなんてことも」と、セシルは思ったままを正直に言った。だが、捕虜収容所で一日十六時間以上も働かされていたことを思えば――とは、口にだして言うことはできなかった。
「俺のことは本当に気にしないでください。それより、ここの列の植えつけをきちんと終えてから、家のほうには戻りますから」
「まあ、なんだか本当に申し訳ありませんわ。お客さまにこんなこと……」
ローラはいかにも申し訳なさそうに瞳を伏せていたが、セシルのほうはといえば、本当にマーシーの言ったとおりだと思い、声にだして笑いたくなるのを堪えねばならなかった。
「じゃあ、なるべく早く仕事を終えて戻ってきてくださいね」
最後にそう言ってローラがローズ邸のほうへ去っていくと、セシルは思わずにやにやしながらじゃがいもの苗を植え続けた。『なるべく早く仕事を終えて戻ってきてくださいね』――か。なんだかまるで、新婚の妻が夫にかける言葉みたいじゃないか!
そのあとセシルは、じゃがいもの苗植えを終えても日が完全にとっぷりと暮れるまでマーシーたちを手伝って働き続け、ローズ邸に戻ったのは結局、太陽の支配が濃紺の闇と月と星の輝きに移り変わる頃合だった。