永遠のローラ 第Ⅲ部 (9)
翌日、セシルは子供の世話で半気違いのようになっているマックルーア夫人を見て、ベッドに南京虫が……などと言ってその忙しい手を煩わせることはとてもできないと思った。それによくよく見ると、三人の小さな子供たちもまた、足やら腕やらをしきりにぼりぼりかいており――ああ、そうなのだと、セシルとしては納得するより他はなかった。
(これがもし、ダンゴ虫とか蜘蛛とかだったら、俺も我慢ができたろうに……しかし、あいつの存在だけは断じて許すことはできない。こうなったら、マックルーア夫人には申し訳ないが、クイーンローズタウンの小綺麗な宿に移るしかないだろう)
その日の朝食は、こんがり焼けたトーストに落とし卵、オートミールにチキンパイと、さして悪いメニューではなかったはずなのだが――いかんせん、きのうローズ邸でディナーをご馳走になったのがいけなかったのだろうか、それとも隣で小さな子供たちが、ひとり豪華な食事をしているセシルのことを、羨ましげに見つめるその視線が痛いせいか、セシルは食欲があまりないと言って、トースト以外のものを三人の痩せた子供たちに譲るしかなかった。
今年七つのロディと五つのシディ、四つのヨナタンは、まるで戦争でも始まったかというように、セシルの残したものを食べ、マックルーア夫人は出掛けてきます、と言った彼の後を追うと、「あのう……」とためらいがちに声をかけてきた。
「何か不都合があったら、すぐに言ってくださいましね。うちには少々死んだ夫の残した借金がありまして、あなたさまに十日も滞在していただけると、非常に助かるのです。ですから……」
「いや、何ひとつ申し分ないよ」と、セシルは咳払いをひとつしてから、しみだらけのエプロンを着たマックルーア夫人に言った。彼女の斜視にじっと見つめられると、真実を告げることは、セシルにはとてもできなかったのである。そして「それより」と言って、胸元のポケットから財布をとりだすと、宿の十日分の宿泊料の払いを先に済ませてしまおうと思った。これで今日の夕方には、クイーンローズタウンの小綺麗な宿に移って、そこからマックルーア夫人にこう連絡すればいいわけだ――「クイーンローズに仕事上の用があるのでこちらに移るが、十日分の宿賃を返す必要はない」と。
セシルが気前よく宿泊料を先に支払ってくれたので、マックルーア夫人は恋する乙女のように上気した顔つきで、赤のロードスターが砂煙を巻き上げながら去っていくのを見送り、今夜はこのお金でマクガイア氏が満足のいく食事を用意しなくてはと考えた。なにしろ彼は大都市ロカルノンの名士なのだ。もしかしたらこの宿に出資して、改装費用などを負担してくれるという可能性が、まったくないとも言いきれないではないか。
斜視のマックルーア夫人はルンルン気分で鼻歌を歌いながら家の中へ戻り、意地汚い子供たちが食卓を汚しているのを叱ると、すでに荷物が何もない二階へ上がり、時々胸元の札束の感触を確かめながら、部屋の掃除をした――もう二度と、セシルが戻ってこないだろうなどとは、鈍い彼女には少しも気づくことができなかった。
それにしてもしかし、と、セシルは春の陽光を浴びながら、のろのろ運転でロチェスターの大通りを進みながら考えた。クイーンローズタウンに宿泊するとなると、ローラの家からは大分遠くなる。まあ、毎日通えばいいわけだが、やはりラッセルを引きとって、クイーンローズへいくのが、礼儀というものなのだろうな……そう考えるとセシルは、暗く落ちこんで溜息を着きたくなった。
(それとも、ローラのあの笑顔のために、このままマックルーア夫人のしみったれた宿に泊まり、南京虫の出没に怯えながら休暇を過ごすか……)
きのう別れ際にローラと話したところによると、スミス雑貨店のオープンカフェは、十一時開店ということであった。雑貨店のほうは、八時からやっているらしいが……セシルは縞模様のスーツの胸元から、金の懐中時計をとりだすと、時刻を確認した――十時三十五分。
今日こそは、オープンカフェで美味しい昼食にありつけるといいのだが……セシルはそう思いながら、片手でハンドルを握り、片手で腹の虫の空腹の訴えを静めるように、お腹の上に手をやった。
きのう、セシルはスミス夫人に壊してしまったパラソルの弁償費用を支払おうとしたのだが、夫人は何故か頑として受けとろうとはしなかった――店にもう一本予備があるので、気にしないでほしいと言うのである。だがセシルとしては、そんなふうに言われると逆に気を遣うしで、せめてスミス雑貨店の売上にでも貢献しようかと、この日食事の前に店の中へ足を踏み入れることにしたのである。
「いらっしゃいま――あーら、マクガイアさんとこのセシルさん」と、店番をしていたシンディはおどけたように笑った。彼女は今年から学校へ通わずに、店の手伝いをするようになったのである。
今は畑の植えつけなどでちょうど忙しい時期なので、午前中の平日、店の中にいるのは婦人が三人ばかりだった――サイレス・チェスター夫人はダチョウの羽飾りのついた帽子を被りながら鏡を見ていたし、ロバータ・ウォルシュはアヒルの卵を売りに、ミス=コートニーは新しくドレスを作るのに、どの生地がいいかと、反物やレースなどをジュリア・スミスに見せてもらっている。
しかし、三人の客とスミス夫人の目は、セシルが店に入ってくるやいなや、彼のほうにほとんど釘づけになった。リンネルの上質のワイシャツに、縞模様の揃いのスーツ――そして手には純銀でできた鷲が頭についた、樫材のステッキを持っている。このへんで見ない顔だというだけでも、こんな田舎では十分注目に値するのに、セシルはそれだけでなく、どこか人が一度見たら忘れられない顔立ちをしていた。それは目がやぶ睨みだからとか、そういうことではなく――身に纏いついた高貴な雰囲気や誇り高さ、また人生において辛酸をなめ尽くした経験深い眼差しなどが見る人にそういった印象を与えるのであったが、大抵の人は、この男は一体どういう男なのかということが一目ではわからず、思わずじっと彼のことを観察してしまうのが常であった。
(あらまあ、村一番の洒落男を自認するビリーもびっくりの、洒落た身なりの殿方だこと。たぶん、間違いなく都会のほうからやってきたに違いないわ)
そう考えたチェスター夫人は、えんじ色のビロードの帽子をおくと、長年の親友、ジュリア・スミスのほうへそっと歩いていった――そしてミス=コートニーと三人で、ひそひそ話をしていると、卵を売った代金で紅茶やコーヒーの豆を買おうとしていたウォルシュ夫人もまた、この三人の輪に自然と加わった。
「あの男は、いったい何者なの?」と、村一番のやかまし屋として有名なチェスター夫人は、扇で顔を隠すようにしながらスミス夫人に聞いた。興味津々といった顔つきで、カウンターのシンディとセシルを見守るミス=コートニーとロバータ・ウォルシュ。
「あの男はね」と、ジュリア・スミスはいかにも得意げに三人の婦人に告げた。「セシル・マグワイアさんと言って、ロカルノンの金持ちらしいですよ。なんでも、ローラとは知りあいで、きのうあのふたりは夕食を一緒にしたそうですよ――ローズ邸でね。それもたったのふたりっきりで」
正確にはもう一匹犬がいたのであるが、そんなことはスミス夫人にはどうでもいいことであった。
「まあ!」と、ほとんどオールドミスになりかけの、ミス=コートニーは長手袋をはめた手で、口許を覆っている。「じゃあローラはまた再婚するつもりなの?二番目の夫のアンソニーをあんな形で亡くしてから、まだ一年とちょっとしか経ってないっていうのに……それじゃなくても、前の時だって、トミーが亡くなって一年過ぎるか過ぎないかで再婚してるでしょう?」
「ローラにはどこか、男心を惹きつけるところがあるようだからね」と、チェスター夫人は値踏みするように、都会の洒落男、マクガイア氏のことをちらと眺めやった。
「だけど今度はどうだろうね――相手がロカルノンの大金持ちじゃあ、ローラが向こうへ引っ越すしかないわけだし……よもやあんな洒落っ気のある男が鍬を持ってローズ家の畑地を耕すようなことはないだろうしね」
「そりゃそうよね」と、比較的良識的な見解を持つ、さほど噂好きというわけでもないウォルシュ夫人は頷いた。「それに、都会の男の人はとかく遊び好きだっていうでしょう?ローラも、都会の男の人の口車にうまく乗せられて、騙されたりしなければいいけれど……」
「あらあらまあ!」突然スミス夫人が叫びだしたので、他の三人は「しーっ!」と右の人差し指を口許へ持っていった。
「だってみなさん!あれをごらんなさいな!」ジュリア・スミスは、今度は声をひそめて言った。「あの男が選んでいるのは既製服ですよ――あっ、白いのをとりだしたわ。あれ、襞飾りが多くて結構するのよ……まあ、一体どういうことなのかしら。大の男がこんな時間に婦人の既製服を選んでいるだなんて」
「きっとローラにプレゼントするんじゃないかしら」と、どことなく悔しげにミス=コートニーが言う。
「それ以外考えられないものね」と、ウォルシュ夫人。「もしかしてあの方、ローラにプロポーズするために、わざわざこんな田舎の村までやってきたんじゃないかしら?そしてこう言うのよ。『俺のために黒い服を脱いで、この白い服を着てくれないか』……キャーッ、なんてロマンチックなんでしょう!」
どうでもいいことかもしれないが、ウォルシュ夫人は昔から、婦人雑誌の若い女性向けのロマンス小説が大好きであった。
「あっ!ローラがでてきたわ!」
スミス夫人がそう言うと、三人の婦人たちは各々、帽子の置いてあるコーナーや、色とりどりのレースが置いてある棚、その他食料品の並んだコーナーなどにささっと散っていった――まるで野生の鳥さながらの身軽さで。しかし、ふたりが「おはよう、セシル」、「おはよう、ローラ」とファーストネームで気軽に呼びあっているのを聞くと、四人の婦人たちは即座に眼差しだけでこう会話していたのである。
『あらまあ、ずいぶん親しげじゃないの!』
「きのうはよく眠れて?マックルーアさんのお宿はその……なかなか寝心地がいいことで評判なものだから」
セシルは笑いだしたいのをこらえながらも、婦人の前で南京虫の話をするのもどうかと思い、「なかなか悪くなかったよ」とだけ、意味ありげに含み笑いをして言った。
「ところで、そろそろ開店なのかい?もし俺でよければ何か手伝おうか?」
「いえ、いいの」と、ローラはちらと店の隅に再びかたまりつつあった、四人の人影に視線を走らせながら言った。「それより、ランチを食べにいらっしゃったのでしょう?今日こそはお腹いっぱいご馳走できると思うわ。朝は……ええとその、たくさん食べていらした?」
「ああ、まあ」と、セシルは今度は目だけでなく、口許にも微笑を浮かべた。「うっすらバターを塗ったトーストを一枚ね」
「じゃあ、さぞお腹がすいてらっしゃるんじゃなくて?さあさあ、シンディ。そろそろ開店の準備をしましょうか。ドナとシンシアは今、料理の仕上げに大わらわだから――テーブルと椅子とパラソルをまずは外にださなくちゃね」
シンディはローラとセシルのことを交互に見やると、とても嬉しそうににこにこ笑った。なんてお似合いのふたりなんだろう――これぞまさしく紳士と淑女の鏡という人物が、今自分の目の前で恋に落ちようとしているだなんて。
シンディはまるで自分がたった今恋でもしているみたいに、ロマンチックな気持ちになっていた。そしてローラとセシルが互いを気遣いあいながらテーブルや椅子やパラソルをセッティングしていくのを見て――ますます微笑ましい気持ちになっていた。
「ねえねえセシル」と、テーブルの上を拭きながら、シンディはローラに聞こえぬよう、小さな声で彼の耳元に囁きかけた。「さっきのドレス、きっとローラに似合うと思うよ。あとで綺麗にラッピングして、車の助手席のところにでもおいておいてあげる……お金はあとからでいいからさ。それよかきっと、あのドレスは絶対ローラに似合うと思うんだ。もったいないよねえ、あんな美人がさ、一年以上も黒以外の服を着ないだなんて……セシルならきっと、ローラに黒以外の服を着せることができるって、あたしは本当にそう思うな」
「……本当に?」と、自分より十五歳も年下の女の子の瞳の中に、セシルは縋るように真実の光を探した。
「モチのロンよ」と、シンディは敬愛するジェシカ伯母の口癖を真似てウィンクした。そして、ポニーテールに結った髪を左右に揺らしながら、別のテーブルへ早速とばかりやってきた客の注文を伺いにいった。
「いらっしゃいませー、何に致しますか?」
セシルは難しい顔をしながらメニューを開き、ハンバーガーとホットドック、それに野菜サラダを注文した。野菜サラダを頼んだのは、ハンバーガーとホットドッグだけでは栄養が偏るわ、とローラに注意されたためだった。もっとも彼女はおまけとして持ってきてあげる、と伝票を書きながら言ったのだったが――セシルはきちんとお代をつけてくれとローラに頼んでおいた。
セシルはハンバーガーにかじりつきながら、なるほどこれは美味いと思った。ロカルノンの街角やパン屋で売られているどの味とも違うし――こんな田舎でなく、ロカルノンの一番通りか中央通りあたりででも売れば、必ず長蛇の列ができるだろう。だがこれで商売をするとしたら、ここから運ぶ輸送手段が……などとセシルが考えているうちに、オープンカフェには次から次へと客が引っきりなしにやって来、セシルの席もまた別の村人のカップルと相席ということになった。その間も、このあたりで見ない顔だということで、セシルはくる村人、くる村人にじろじろ不躾けな視線を投げつけられ、なんとはなしに小さくなっていた。そして彼が食事を終えてシンディにお金を払い――さきほどの白い麻のドレスの代金も含めて――赤のロードスターに乗ろうとしていると、忙しさのあまり額に汗したローラが追いかけてきて、何かの鍵をセシルの手に握らせた。
「これ、うちの鍵なの。きっとラッセルがひとりで寂しい思いをしていると思うから、暇があったらいってあげて。わたしはたぶん……三時か四時くらいまで戻れないと思うけれど……それからでよかったら、ディナーをご馳走するわ」
セシルはああともうんともいいえとも言わず、また暇があるともないとも答えることなく、ただ呆然として、すぐにオープンカフェのほうへ引き返していったローラの後ろ姿を見送った。
そして顔を車と同じ色にしながら、ぼうっと立ち尽くしているセシルのことを見かけたアリシアは――彼女は交換手の仕事のお昼休み、いつもスミス雑貨店のオープンカフェへやってくるのであった――野性的な直感によって、セシルとローラがただの親しい仲以上の関係に違いないとぴんときた。
(まあ、ローラったらいやらしい。昼間から男の人の手をあんなふうにぎゅっと握りしめちゃったりなんかして……あらあら。ここらじゃ見かけない顔だけど、あの人の顔、真っ赤っかだわ。ところであれは何かしら?今キラっと光った銀色っぽいもの……もしかして鍵?ローラに限ってまさかとは思うけれど……)
アリシアは他の交換手仲間に先にいっててと声をかけると、そっと名前も知らない、縞模様の洒落たスーツを着た男のそばへと近寄っていった。
(あらまあやっぱり!じゃあこの男はもしかして、ローラの内縁の夫とかっていうんじゃないでしょうね!?)
セシルはまるで、自分の手相をじっと凝視するかのように手のひらにのった銀色の鍵を見つめていたので――アリシアの視線にはまるで気づかなかった。それでもふと後ろを振り返った時、彼女と目と目が合ったのだが、さして不審に思うこともなかった。
「あ、あらあら……おほほ。なんて素晴らしいお車なんでしょう。値段も素敵なんでしょうね、きっと」
アリシアは思わず後退りながら、適当な社交辞令でごまかした。セシルはそんな彼女に対して、婦人に対する敬意の気持ちから、軽く会釈をして車で走り去った。そうしてあとに残されたアリシアの青い瞳は――新しい噂の種をばらまける喜びに、陰険に輝いていた。




