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永遠のローラ 第Ⅲ部 (8)

(まったく俺はなんという失態を演じてしまったんだろう!それもよりによって、ローラさんの前で!)

 セシルは右手で帽子を押さえ、左脇にステッキを抱えたまま、村の大通りを引き返し、マックルーア夫人のオンボロ宿の前まできたところで、はたとラッセルを連れてくるのを忘れたことに気づいた。くるりと後ろを振り返り、金の毛並みの大型犬が自分のことを追いかけてきてはいないかと思ったが、茶色い道には自分の革靴の足跡しか残ってはいない。

 もう一度歩いていくのが面倒だったセシルは、赤のロードスターに飛び乗ると、エンジンをかけ、スミス雑貨店の前までラッセルのことを迎えにいった。

「え?ローラさんと一緒に帰った?なんでまた……」

 店のカウンターのところで、店番をしていたシンディは、セシルのことをいかにも嬉しげに見やりながら説明した。彼女は直感的に、きっとセシルはローラのことが好きなのだろうと見抜いていたのだ。

「本当はね、うちのポーチのところに繋いでおいて、ええと……マグワイアさん?マグワイアさんが迎えにくるのを待つことにしようと思ったんだけど、ローラが馬車に乗っていってしまうと、ラッセルが猛烈な勢いで追いかけようとしたの。そんで棒杭に繋いだ紐ごと一目散に走っていって、ローラが馬車を止めると、荷台のところに飛び乗ったのよ」

 その話を聞いて、思わずセシルはがっくりと肩を落とした。自分の主人のことは追いかけず、美しい未亡人のあとについていった馬鹿な犬……そんなふうにシンディやスミス夫人に思われているような気がしてならなかった。

 そして娘と同じく、シンシアもまたそこはかとなくロマンスの香りを感じて、カウンターの上でわざわざローズ邸までの地図を手早く紙の上に書き記していた。

「マグワイアさん。これがローズ邸までの地図ですわ。もしローラが夕食を勧めたら、断ったりなさらずに、遠慮なくご馳走になるとよろしいんじゃないかしら。じゃないとマックルーア夫人の美味しくてどうしていいかわからないディナーと朝食だけで、明日のお昼まで過ごさなくちゃなりませんもの」

「はあ……」

 火のないストーブのまわりでたむろっていた数人の作業服姿の男たちが忍び笑いを洩らしているところを見ると、おそらく自分はスミス夫人の言うとおりにしたほうがいいのだろう……セシルはそんな気がした。

「どうも、すみません」

 セシルは小さく会釈してシンシアから地図を受けとると、帽子をかぶり直してステッキをつきながらスミス雑貨店をあとにした。

 達磨ストーブのまわりで世間話をしていた男たち――マイケル・クレイマーやサイレス・チェスター、ロバート・ヒューイット、ショーン・ミルズらは、セシルが鈴の音とともに店をでていくのを見届けると、早速とばかりカウンターのシンシアにあの洒落男は一体ローラのなんなのかと問いただした。

「あの方はマクガイアさんと言って……」と、シンシアが少し得意気に間をもたせていると、一番美味しい部分は娘のシンディがさらっていってしまった。

「タリス陸軍の大佐でいらっしゃるのよ」

 三人の男たちは驚き、互いに顔を見合わせている。だが陸軍の大佐とローラの存在がどうしてもイコールで繋がらなかったらしく、男のくせにやたら詮索好きのマイケルはスミス夫人に重ねて聞いた。

「それで、その陸軍の大佐殿とローラは、一体どういう知りあいなんだい?」

 するとシンシアもシンディも母子で気のあうところを見せつけるように、

「それはまだヒ・ミ・ツ」

 と声を合わせて言った。そして「ねーっ」と顔を見合わせながら、仲よく手を打ち合わせていたのであった。


(ええと、イチョウ並木を通りすぎて、教会を野原の右手に見たあと、グリーンリバーにかかる赤い錆びた橋を渡って、あとは丘の上まで一直線に曲がりくねった道を……)

 いや、曲がりくねった道を一直線などというのはおかしいな、と思いつつ、セシルはゆっくり車を走行させていった。松林に囲まれた茶色い家の上にはフラナガンさんの家と矢印つきで書いてあり、丸木橋を渡って桜並木を抜けたところにあるのがローズ邸だということだった――シンシアの可愛らしい色鉛筆で描かれた地図によれば。

「ここか」

 セシルはポーチの脇に自動車を停めると、白い麻のスーツの襟元を両手で整え、ゴホンと咳払いをひとつしてから、ローズ邸の真鍮のノッカーを叩いた。

 春の花が美しく咲き誇る庭をきょろきょろ見回してみても、ラッセルの姿はない。五分ほど待っても人のでてくる気配がないのをみて、セシルはもう一度、先ほどよりも少し強くノッカーを二度叩いた。

「あのう……ローラさん?うちのラッセルがお邪魔しているかと思うんですが……」

 そう大きな声でセシルが問いかけると、玄関の奥のほうからバタバタと人が走ってくる音と犬の足音とが重なるように響いてきた。

 ドアのすぐ内側のほうで、犬ががりがりと爪を立てているのがわかる。セシルがぱっとドアを開くと、ラッセルは泥だらけの足をセシルの上着の上に勢いよく乗っけてきた。

「まあ、すみません、マグワイアさん」

 かく言うローラも、髪をふり乱し、犬の足跡模様の黒い服を着ていた――道は途中きのう降った雨のためにあちこちぬかるんでいたのだ。おそらくラッセルはローラの馬車を追いかける途中で、相当水たまりの泥の中へ突入したのだろう。

「いえ、これは俺の犬の不始末なので……こちらこそ申し訳ありません、ローラさん」

 ラッセルはセシルが少し身をかがめると、怒らないでというように、大きな舌でべろりとセシルの頬をなめている。

「あの、今……ワンちゃんの足を浴室で洗おうとしたんですけど、一目散に逃げられてしまって……」

「ああ、こいつは風呂が嫌いなんです。俺と同じで」

 と言ったところで、セシルは褐色の肌を赤銅色に染めた。婦人の前で風呂の話をするだなんて、失礼にあたるかもしれないと思ったのだ。

「とりあえず、お上がりになりません?」

 ローラはドナやシンシアと同じように笑いたくなったが、微笑みを含んだ瞳でセシルを見返すだけに留めておいた。

「いやあ、しかし……こいつの泥だらけの足じゃあ……」

「構いませんわ。だってもう居間と廊下が泥だらけですもの」

 ローラが踵を返したので、セシルは玄関のドアを閉めると、しきりに尻尾を振って許しを乞おうとするかのような愛犬とともに、初めてローズ邸の中に足を踏み入れた。


 なるほど、確かに居間は縦横無尽に犬の足跡だらけで、何をいまさらと言われても仕方のないような状態であった。浴室から飛びだしてくると、後を追うローラの手から逃れるため、おそらくラッセルは死にもの狂いで逃げまわったのであろう。そしてそこへ、御主人さまのお懐かしい声が玄関の外でしたというわけだ。

「すみません、ローラさん。こんな……」

 セシルが四つん這いになって床を雑巾で拭いているのを見ると、ローラはとうとうこらえきれなくなって、やはりシンシアやドナと同じようにくすくす笑いだしてしまった。

「マグワイアさん、なんだか今日はずっとあやまりどおしですね。べつに何か悪いことをしたというわけでもないのに……」

 セシルはとりあえず、ローラが怒るでもなく笑っているのを見てほっとした。足の裏の泥を落としたラッセルは、一足先にハムや鶏肉の御馳走にありついている。

「あの、覚えていてくれたんですね、俺のこと……」

 ローラはバケツの中で雑巾をしぼると、そりゃあそうですわというように、セシルに向かって微笑みかけた。

「同じ療養施設で過ごした仲じゃありませんか。わたしたちは同病の友みたいなものですわ。もっとも、精神的に大雑把な意味で、ということですけど……」

「この間、フィリップとメイベルさんの結婚式へいってきましたよ。とても盛大で、本当にふたりとも幸せそうでした。ローラさんの亡くなられた旦那さんのご友人だったんでしょう?フィリップは……」

「ええ。同じ美術学校の出身ですの」

 それきりぴたりとローラが口を閉ざしたのを見て、セシルはきっと自分は悪いことを聞いたのだと思った。もしかしたら最初の旦那さんを戦争で亡くしたことと、ボールドウィン博士の元で治療を受けていたこととは、心の傷という意味で深い繋がりがあるのかもしれない。

「どうもありがとう、マクガイアさん。もしよかったら……前の主人の服に着替えられませんか?その格好じゃあ、あんまり……」

「え、ええと、そうですね。じゃあ御好意に甘えて……」

 セシルは頭の隅のほうで、これは礼に適っていることなのか、それとも断るのが礼儀なのかと考えたが、人の好意を無下に断るべきではないという結論に達して、ローラの言うとおり頷いた。とにかく相手がローラなら、多少礼に失したことを言ったりしたりしても、優しく見逃してくれるだろうという気がしたのだ。

 ローラはバケツの中の泥水を外に捨てにいくと、二階からトミーの濃紺のスーツを持ってきた。身長はふたりとも大体同じくらいのようだったから、たぶん大丈夫だろうという気がした。そしてローラも二階で黒繻子の服を脱ぎながら、アンソニーが死んでから初めて、この日黒以外の服を着ようと思った――モスグリーンの、地味なドレスだ。これならそんなに派手ではないし、型のほうも流行遅れだから、アンソニーも許してくれるだろうと思ったのだ。

 セシルはロンシュタットの療養施設で過ごす間、ローラが黒以外の服を着ているのを見たことがなかった。セシルとローラは、一年近くの療養生活で直接口を聞いたことはあまり――というよりほとんどなかった。ただ共通の友人であるフィリップを介して間接的に話したことは何度かあった。もっとも、ローラが自分と同じようにフィリップに相手のことをさりげなく聞いていたかどうか、セシルにはわからなかったが……。

 セシルがフィリップから聞いていたのは大体、大まかにいって次のようなことだった。結婚してからすぐ、最初のご主人を戦争で亡くし、その後再婚したふたり目の旦那さんのことも二年ほどで交通事故で亡くされたとか……その心の傷が原因で、彼女はこの保養所にいるのではないだろうかと、フィリップはそう推測していた。

 ローラもまた、フィリップからマグワイア氏がどういう人なのかということをさりげなく聞きだしていた――ロカルノンホテルを経営するマグワイア家の当主で、陸軍の大佐。捕虜収容所から釈放されてから、戦争神経症になりボールドウィン博士に診察してもらっているということ……ローラは何故か、施設内の隅のほうにセシルがいるというだけで、ほっと安心するものをいつも感じていた。

 セシルも言葉など特に何も交わさなくても――ローラのことを時々庭や森の中や湖などで見かけるだけで――空虚で暗黒な心の部分が、微かに優しい気持ちで満たされるのを感じていたのだった。

「ローラさん、あなたはとても……」

 綺麗だ、と言いかけてセシルは、そこでぐっと喉を詰まらせた。黒以外の服を着てくれたのは俺ためですか、とも女性に内気なセシルにはとても訊くことがてきない。そう尋ねるより先に、黒い服が汚れたので仕方なく……という返事が、頭の奥のほうで聞こえたのだから仕方ないといえば仕方なかったのかもしれないが。

 ローラは台所で夕食の仕度をしながら、セシルと色々な話をした――彼がロチェスター村にホテルを建てるための視察にやってきたことや、フィリップとメイベルの結婚式の様子、ローラがシンシアの店を手伝うことになった経緯についてなど……セシルはローラが手際よくパイ生地を練ったり、ステーキを焼いたり、サラダを作ったりしている間、紅茶にピーナツクッキーというおやつを食べながら、不思議な気持ちでローラが料理するところを眺めていた。

 セシルの家では常に使用人が三食の料理を担当しているので、彼は母親の味というものをまるで知らずに育った。それに一番近いものといえば、時々サラの作るおやつやサンドイッチだっただろうか。

 セシルは自分の目の前に銀の食器が置かれ、次から次へとパンの篭や熱々のスープ、グレイヴィソースの添えられた肉汁のしたたるステーキ、人参のグラッセ、マッシュポテト……などが並べられていくのを、まるで魔法を見るような気持ちで驚きとともに眺めていた。

「さあ、どうぞ召しあがれ」

 ローラは糊のきいた白いエプロンを脱ぐと、セシルの向かい側の席に腰をおろした。マーシーはエミリア・ダラスと結婚してから、当然ローラの家ではほんのたまにしか食事をしなくなっていたので――ディナーを一緒にできる相手がいるというのは、ローラにとってとても嬉しいことだった。

「もしよかったら……ロチェスターに滞在する間、うちで夕食をご一緒しませんか?」

 セシルは思わずごくりと大きなステーキの肉片を喉に詰まらせそうになった。それで、何度も握り拳で胸のあたりをどんどん叩き、最後にはやや涙目となりつつ、水の入ったグラスを手にとろうとしたのだが――グラスは倒れてテーブルの上に転がり、その下にいたラッセルの頭をびしゃりと濡らした。ラッセルは何ごとかと驚いたように、ぷるるる、と頭を振っている。

「すみません、ローラさん。俺はこんな……」

 ローラが布巾でテーブルの上を拭いていると、セシルは俯きながらまごついてあやまった。

「いいえ、どうか気になさらないで」と、ローラは新しいグラスに水差しから水を注ぎながら言った。「ただ、その……マックルーアさんのお宿は料理に関してあまりいい噂を聞かないものですから……でもあの方も本当に大変なんです。小さな子供を三人も抱えた未亡人なんですもの。わたしはできれば、その……マグワイアさんがロチェスターにいい印象をお持ちになってロカルノンに帰ってくださったらいいなって、そう思って……」

「セシルで結構ですよ」と、彼はナプキンで口許についたグレイヴィソースを拭った。「ただ俺は……俺みたいな者がただの十日の間でも、この近辺をうろついたとしたら、あなたのご迷惑になるんじゃないかと危惧しているだけです。未亡人というのは何かと噂を立てられやすいですからね。殊にローラさん、あなたのように若くて美しい女性ならなおのこと……」

「ローラで、結構ですわ」

 そう言ったきり、ローラは暫くの間俯いて、セシルと同じように静かに食事を続けた。ローラは今二十七歳だったが、この時代、田舎の農村地帯ではまあ一般にいって、娘時代の盛りを過ぎた、おばさんと呼ばれてもおかしくない年齢である。

 ローラはセシルの言葉にはどこか、魔術的な響きがあるように感じていた――この人がもし美しいというのなら、それは本当に美しく、もし醜いというならそれは本当に度し難いほど醜いのだ、というような真実の響きを。

 そしてローラがしばしの間、その真実の響きに若い娘の魂を高揚させていると――頭上でブウウウゥゥン、と何か鈍い音が通りすぎていった。それはジョン・ウェブスターの運転する、農薬散布のためのセスナ機であった。

 ローラはうちは結構です、とジョンに断ってあったのだが、まさか親切心からうちにまで便利な農薬とやらをばらまきにきたんじゃないかしらと思い、ナプキンで口許を拭うと、フォークを置いて椅子から立ち上がった。

「ちょっと失礼します」

 ローラが勝手口からでて陽の沈みゆこうとする薔薇色に輝く空を見上げると、ゴーグルをして首に白いスカーフを巻いた茶色い髭面の男が、親指を立ててローズ農場のそばを通り過ぎてゆくところであった――ウェブスター家は昔からローズ家と張り合っているようなところがあり、ジョンの家では今、最新式の牛の搾乳器やらクリーム製造機、脱穀機やら刈入結束機、その他芝刈り機に至るまで、なんでも最新式のものが勢揃いしていた。それに比べてローズ農場はといえば、いまだに昔ながらのやり方に拘っており、畑地の面積も農作物の収穫量も何もかも、すべてをウェブスター家にだし抜かれてしまっている。

(ジョン・ウェブスターのお父さんとエリザベスおばさんは、昔から物凄く仲が悪かったのよね……だからといって、こんなふうにあてつけがましく、うちにまで農薬散布のセスナ機に乗ってこなくてもいいでしょうに)

 とりあえずジョンがうちにまで農薬をばらまきにこなかったのならそれでいいわ、そう納得したローラは風に煽られて乱れた髪を軽く直すと、再び家の中へ戻ったのであるが――セシルがダマスク織りのテーブルクロスを引き倒して、椅子から転がり落ちているのに心底驚いてしまった!

「……セシル!」

 慌ててローラは彼のそばに膝をかがめたが、セシルはテーブルクロスの端をぎゅっと握りしめたまま、何ごとかをぶつぶつ呟き、身悶えるばかりであった。

 くうん、とラッセルが切なげに鳴いて、セシルの顔をなめるも、一向に彼が正気をとり戻す様子がないのを見て、ローラはローランド医師に連絡しようと思った。

「大丈夫、セシル!?今、お医者さんを……」

 そう言ったローラの腕を、セシルはひねりあげんばかりの物凄い力で押し留めた。

「……いや、いいんだ。治る……こんなのはすぐに治るんだ……」

 セシルは暫くの間呻いたあとで、最後に荒い呼吸を繰り返すと、額の汗を拭って上体をなんとか持ちあげた。そして恐ろしい力でローラの腕を握りしめていることに気づいて、顔を赤らめつつ、ぱっとその手を離した。

「すみません、ローラ。とんだ失態を演じてしまったみたいだ」

 発作が過ぎ去ったあとのセシルは、誰より健康で正気そのものといったように見えたが、ローラは驚いて目を見張るばかりだった。

「あの、まだご病気が完全にはよくなっておられないのじゃありませんか?とりあえずソファの上にでも、横になられたほうが……」

「いや、結構。それよりもせっかくの豊かな食卓を、台無しにしてしまって申し訳ない」

 食事のほうはあらかた終わってはいたものの、陶製のパイ皿が割れるやら、グラスにひびが入るやらして、ダイニングキッチンは目茶苦茶であった。ラッセルが床に落ちた残りものを美味しそうに尻尾を振りながら食べていたが、セシルはそんな犬のことを厳しく叱って殴りつけた。

「駄目じゃないか、ラッセル!俺はおまえをそんなふうにしつけた覚えはないぞ!」

 途端に犬のほうはきゅうんと鳴いてしゅんとし、尻尾を垂れたまま逃げるように台所をでていった。

「いや、いいんです。犬を甘やかせるのはよくない。本当は、この家の居間を泥だらけにした時にでも、すぐ叱ればよかったんだが……優しいあなたの前で嫌なところを見せたくなかったんです。浅ましいことだ」

 そう言いながらセシルは、床の上に膝をついて、割れた皿やひびの入ったグラスなどを黙ったまま片付けた。そしてローラがお客さまにそんなことをさせるわけには……と、控えめに断りの文句を述べても、これは自分の責任だからと言って床の上を雑巾で拭くのをやめなかった。

 駄目になった食器を片付け、それ以外の皿などを洗い終えると、ローラは居間のほうにセシルのことを招いた。そして戸棚の中から救急箱をとりだすと、ソファに腰かけているセシルの隣に彼女は座った。

「さっき、割れたガラスの皿を拾っている時に、破片で指を切ったんじゃありませんか?消毒して、薬を塗っておいたほうがいいと思います。破傷風とかになったら大変ですし」

 ローラはそうとでも言わなければセシルが傷の手あてをさせないのではないかと思い、少し大袈裟な言い方をした。セシルは黙ったまま頷き、ローラの女らしい柔らかい指が自分の武骨で皮の厚い、褐色の手を持ちあげるのを黙って眺め――その色の違い、形や大きさの違いを比較して、奇妙な気持ちになっていた。そしてローラの伏せ目がちな瞳や、長い睫毛、広い額にかかる前髪や、細くて意志の強そうな眉、白い肌やふっくらとしたさくらんぼ色の唇などを眺めて――彼女が自分のものになったらどんな感じのするものなのだろうと、現実の世界をしばし離れて夢想した。

「……どうもありがとう」

 右手の人差し指に巻かれた包帯を見て、こんなのは蚊に刺されたようなものなのにと、セシルは笑いだしたくなったが、ローラがあまりに真剣な面差しで手あてをしてくれたので、喉の奥にその笑いを引っこめることにした。

「どういたしまして。それよりマグワ……じゃなくてセシル、気分のほうは本当に大丈夫なの?もしよろしかったら、客間のひとつにベッドを用意しますわ。マックルーアさんには電話で、今夜はうちに泊まるとお知らせすればいいだけのことですもの」

「そんな……それはよくありません。変な評判がたって、あなたの名誉に傷がつきます。俺のことなら大丈夫ですよ。なに、戦争中に塹壕の中で眠っていたことを思えば……マックルーアさんのしみったれた宿も、俺にとっては天国みたいなものだ」

 ローラがくすくす笑ったので、セシルもまた久しぶりに陽気な気分で、大きな声で笑った。居間の隅で小さくなっていたラッセルもまた、その愉快な二重奏のような笑い声の響きを聞いて、御主人さまが機嫌を直したと思ったのだろう、ふたりの間に割りこむように、ぴょんとソファの真ん中に飛びのってきた。

「ローラ、あなたは優しい人だ。療養所で顔見知りになったという程度の男に、美味しいディナーを用意してくれ、しかもあんな失態を演じたあとで、こんなかすり傷に手あてまでしてくれるなんて……この村にはきっと、あなたとこの家の主になりたいという男が、二ダース半ばかりもいることでしょうね」

 ローラは答えなかった。ただ少しばかり悲しみを帯びた、翳りのある眼差しで、マントルピースの上の幾つかの写真立てを見上げている。セシルはローラの視線を追って、小さく火の燃えている暖炉の上のほうを眺め、そしてタリス軍のカーキ色の軍服を着た、背が高いというよりもひょろ長い感じのする男の白黒写真に目を留めた。

「……最初のご主人は、ついこの間の戦争で……?」

 聞いてはいけないことかもしれなかったが、セシルにしてみれば聞かずにはいられなかった。自分の直属の部下ではないにせよ、タリス軍に属する兵隊はみな、彼にとっては同胞であり、命綱で繋がれた友のようなものであった。たとえ別の部隊に所属し、顔さえ合わせたことがなかったとしても。

「ええ。トミーが……夫が出征したのは、もう戦争も終わるかという、最後の頃でしたわ。だからわたし……トミーが兵舎病院でコレラになって亡くなったって聞いた時、皮肉で残酷な神さまをひどく呪いました。もう数か月早く戦争が終わってさえいてくれたら、夫は死なずにすんだのにって……それと、その報せを聞いた時のショックで、お腹にいた子供は死産でした。それからトミーが亡くなって半年もしないうちに……ふたり目の夫になるアンソニーと知りあいました。彼はロカルノンに本社のある、ホールデン生命の外交員で……うちに初めてきた時、本当にびっくりしたんです。だって、亡くなった夫に背格好や顔が、そっくりだったんですもの」

 ローラはラッセルの頭を撫でながらそう語り、ソファから立ち上がると、軍服姿のトミーの写真と、アンソニーと結婚した時の写真とを持ってきた。

 セシルはそれを見て、なるほど、確かに似ていると思った。双子のようにびっくりするほどそっくりというわけではなかったが――顔の輪郭の線や、額の形、瞳の大きさや鼻梁の通ったところなど、もしかしたら写真の印象よりも実物のほうがもっとよく似ていたかもしれないとさえ、セシルには思われた。

「それで、わたし……わたしとアンソニーは、世間の常識というものも考えて、喪の明ける一年後にすぐ、結婚したんです。その頃は何かと村の噂になりましたけど――夫はよく耐えてくれました。不慣れな農作業にも、田舎の村の面倒な人づきあいにも、根気よく正面から立ち向かって……うちの村では初めて車を持ったのがアンソニーだったんですけど、それはあの人がした唯一の贅沢みたいなものですわ。都会の暮らしに比べたら、こんな田舎の村にはなんの楽しみもありませんし……でもその車に乗ってひとりで運転している時に、事故に遭ったんです」

 話とともに、次第にローラの両腕がわなわなと震えだすのを見て、セシルは彼女の手をぎゅっと握りしめたい衝動に駆られたものの、それはやはり礼儀に反することだと思い、彼は膝の上で自分の拳を力いっぱい握りしめた。

「その、フィリップから少しばかりあなたのことを聞いていたのですが……やはりそれがボールドウィン博士の保養所にいた理由ですか?」

「ええ」とローラは答え、木綿のハンカチで軽く目頭を押さえた。「もしかしたら、セシルさんも御存じかもしれませんけど……うちで雇っていた雇い人のシオン人が……妹のように可愛がっていた娘を、銃で撃ってしまったんです。それは殺人ではなくて事故のようなものだったんですけど……その子は自責の念から青酸カリで自殺してしまったんです。それにアンソニーの親友が同時期に急死したりと、家で葬式を立て続けに四つもだしたもので、少し神経が参ってしまって……」

「そうだったんですか」

 セシルは頭の中でロカルノン・ジャーナルの一年ほど前の記事を、頭の中に甦らせた。それは保養所の図書室でフィリップが見せてくれた、新聞のバックナンバーだった。

「きっと、おつらかったでしょうね。あなたは愛情の深い人だから……いや、俺なんかに何がわかると言われてしまえばそれまでですが、その……アンソニーさんが亡くなってからは、こちらにはずっとおひとりで……?」

「ええ、ずっと独りです」と、ローラはどこか毅然とした態度で、きっぱりと言った。「不用心といえば不用心なんでしょうけど、ずっとうちで働いてくれている雇い人の男の子が……マーシーっていうんですけど、ついこの間結婚したんですね。それで、うちの地所とフラナガンさんちの地所の間に新しく家を建てることにしたんです。だから今は何かあったらすぐ、彼の家へ駆けこめばいいというか……」

「もう、ご結婚するおつもりはないんですか?」

 セシルは特に深い考えもなしに、ずばり核心を突くことを口にした。そして「あ、いやその……」といつもの調子で口ごもった。今自分はとてつもなく大変なことを聞いてしまったのではないかと、彼は体温が二度ほど急激に上がるのを感じた。

「結婚、ですか」と、ローラはセシルの狼狽ぶりに、くすくす笑わずにはいられなかった。ローラにはセシルの言わんとするところがよくわかっていた――だが彼は、そこに深い意味を汲みとられたらどうしようと赤面しているのだ。

「そうですね。マグワイアさんのような紳士の方が求婚してくだすったら、わたしも考えようと思いますわ」

 ローラはくすくす笑いながらそう言葉を続けたが、ローラと違ってセシルは、その言葉を軽いものとしてではなく、重い、厳粛なものとして受けとめていた――途端、自分たち以外人の気配のまるでない屋敷の全体が、しんとした沈黙の中心のように感じられ、もし間にラッセルがいなかったとしたら――セシルは今この瞬間にも、ローラにプロポーズしていたかもしれなかった。

「ラッセルは、いい犬ですね」

 セシルの顔に浮かんだ、考えあぐねるような真剣な表情を読みかねたローラは、自分の膝の上に頭を乗せているラッセルの喉や鼻面のあたりを、繰り返し優しく撫でながら笑った。そしてセシルのほうでもやたら犬の胴のあたりを撫で――とうとうラッセルはふたりの人間にやたらいじられることに飽きたのであろう、ぴょんとソファから飛びおりると、ブルルルッと体を震わせ、炉辺の敷物の端に、体を丸くして眠りこんでいた。

「あの犬は本当は、弟の犬なんですが、旅行にでかけようという時、何故か車の助手席に先に乗ってましてね――おかしな奴だと思って、一緒に連れてくることにしたんです。マックルーアのおかみさんは犬が嫌いなようなので、宿へ帰ったら車の脇に棒杭でも突き刺して、そこに繋いでおこうと思ってるんですが……」

「まあ」と、ローラはまるで、そんなことをしてはラッセルがあまりに惨めで気の毒だといったような顔をした。「もし……あの、もしよかったら――ラッセルだけでもうちでお預かりしますわ。じゃないとまた、棒杭ごと、どこかに逃げだしてしまうかもしれないでしょう?」

「いや、そんなご迷惑をあなたにおかけするわけには……」

 だが言葉ではそう言っていながらも、ふたりの間ですでに事は決まっていた。セシルはそうすれば犬をだしにしてローズ邸を訪れる口実ができるし、ローラのほうでは――珍しく他人に対して強い好奇心を持つのと同時に、セシルのことをもっと知りたいという気持ちが高まっていた。彼女にとっては本当に、こういう気持ちになるのはまず滅多にないことなのである。

「じゃあ、本当にいいですか?」是非そうしてくださいというローラの眼差しを見つめながら、セシルは言った。「こいつもローラに懐いているし、マックルーアさんのところじゃあ、ろくな餌にありつけないとも思うので、あなたが預かってくださるのは、こちらとしては願ったりなんですが……もし昼間のようなことをしでかすようでしたら、遠慮なく叱ってやってください」

「ええ、そうしますわ」と、ローラはにっこり微笑みながら請けあったが、セシルはラッセルがもう一度居間を泥だらけにしたとしても――ローラは諦めたように溜息を着くだけで、人様の飼い犬に手を上げるような真似をすることはないだろうとわかっていた。

「じゃあな、ラッセル。お行儀よくしてるんだぞ」

 眠りながらうっすら白目をむき、鼻をぴくぴくさせているラッセルの頭を撫でると、セシルはローラに暇を告げ――本当に今日は美味しいディナーをどうもありがとうと礼を言ってから、ローズ邸をあとにした。そして赤のロードスターに乗って走る帰り道、セシルは何度もローラの言った言葉やその微笑み、笑った時に浮かぶえくぼのことなどを繰り返ししつこいくらい反芻し、宿屋のしみったれた自分の部屋でも、陶然としたままローラのことを考え続けていた。

『マックルーアさんには電話で、今夜はうちに泊まると連絡すればいいだけのことですもの』

『マグワイアさんのような紳士の方が、求婚してくだすったら、わたしも考えようと思いますわ』

 ……普通、軽い気持ちで何かの話のついでのように、婦人がそんなことを言えるものだろうか?もしかしたら俺は、少しは彼女に好かれていると、自惚れてもいいのじゃないだろうか……セシルは茶色いしみのついた枕カバーに頭をのせると、奇妙に寝心地の悪い藁のベッドの上で、断られてもいいからローラに求婚したいと考えた。だがそれはあくまでも休暇の最後の日でなくてはならない。何故なら十中八九自分は断られるだろうから――その間、互いに気まずい思いで過ごしたくはない、セシルはそう考えた。

 そしてもう一度、ローラがモスグリーンのドレスを着て二階から下りてきた時のことを思いだし――何故自分は彼女に一言「綺麗だ」と言えなかったのかと、後悔の思いに苛まれた。

 セシルはこれまで、大抵の場合において、女性に一人前扱いされたことがなかった。今よりずっと若い時分は、緊張のあまりダンスのステップを間違え、相手の足を踏んでは「失礼」と言ってばかりいたし――ようやく一人前になったように思われる昨今では、今この瞬間にも発作が起きたらどうしようという不安と緊張に苛まれ、またさらに女性恐怖の症状とが加わって――セシルは自分のことを客観視することができなくなっていた。もっとも、周囲の人間は誰も、セシルのことを「申し分のない紳士」と評価してはいたのだが。

 そしてセシルが自分がラッセルのようにローラの膝の上で寝転んだとしたらどんな感じであろうかと夢想していると――彼が昆虫の中でもっとも嫌いな虫のひとつが、薄く目を明けた視界を横ぎっていった。

 セシルは、ほとんど反射的にがばりとすぐ上体を起こし、そのこの世でもっとも憎むべき宿敵――南京虫のことを、拳を振り上げてぺしゃんこに潰した。そしてこいつが一匹いるということは、他にも多くの伏兵がいるはずだと考え、すぐに転げ落ちるようにして、ベッドから下りた。本当なら、藁を包んだシーツをすぐにも引き裂いて敵の所在を確かめたいくらいだったが、とにかくセシルはベッドからなるべく離れた床に寝ることにしようとその夜は決め、枕や掛け布団を入念にチェックしてから、堅い床の上で、朝方にはガタガタ震えながら目を覚ましたのだった。






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