永遠のローラ 第Ⅲ部 (7)
セシルがマグワイア邸に戻ってくると、まず彼がしなければならなかったのは、なんとも皮肉なことに自分の快気祝いのためのパーティに出席する、ということであった。
もはや身体の震えや引きつけといったものをセシルは恐れなくてよいはずであったが――不思議なことに、ひとつの症状が消えるごとに、また新たな恐怖がセシルのことを襲うようであった。彼は今度は女性恐怖症になり、女性が自分のことをどう思うのか、彼女たちの視線が怖くて仕方なくなったのである。
たとえば、体臭が臭っていないか、口臭は大丈夫かということからはじまって、彼女たちに不愉快な印象を自分が与えていないかどうかなど――視線、表情、服装、立ち居振る舞いなど、セシルはその当時、女性のいない世界があったらどんなに幸せだろうとさえ思ったものである。
それでもこの地獄には少なくとも終わりがあると考えて、セシルはそのことを慰めにしようと思った。ティムが大学さえ卒業してくれたら――ロカルノンホテルの経営権をはじめとする、マグワイア家の全財産を彼に譲り、自分は晴れて陸軍に復帰することができる!そのことをセシルは心の支えにし、マグワイア家の当主として事業の利益を拡大するために、オーナーとしてできる限りのことをしようと思った。
ちょうどその年の春、ロカルノンホテルの株主総会で、ロチェスターという村に新しくホテルを建てるという計画が持ち上がっていた。他にも幾つか候補地はあったのだが、近くにウィングスリング港があって四季を通じて新鮮な魚介類を宿泊客に提供できること、またあたりは見渡す限りの農村地帯なので、食材には事欠かないことなど、避暑地として海からも山からも近く、立地条件が最適であることなどが上げられた。
そこでオーナーのセシル自らが、まずは視察をしにいくということになった。支配人の話では、夏にはクリケットやテニス、乗馬などが楽しめるようにし、冬は橇遊びやスケート、カーリングなどができるようにしてはどうかということだった。
セシルは話としてはそれは悪くないのではないかと思い、まずはひとりで自動車に乗って、ロチェスターまで小旅行をしようと決めた。ロカルノンのマグワイア邸にいて何が悪いということもないのだが、なんとなくふとひとりになりたくなったのだ。
ティムとサラ、それに義母のミランダまでがセシルのその短い旅行に反対したが――弟のティムなどは、自分も一緒に連れていけといって聞かなかった――ボールドウィン博士がセシルのひとり旅を許すようにと言ったので、セシルは十日ほどの予定で旅仕度をして出かけることにした。
ほんの短い間とはいえ、ひとりになれると思うとセシルは嬉しかった。もちろん弟のティムのことも、義母のミランダのことも、今では家族として愛していたし、メイド頭のサラだって家族同然のようなものだった。だがその十日の間、マグワイア家の当主として両肩にかかる重荷とプレッシャーから完全に解放されることができるのだと思うと――セシルは嬉しくてたまらなかったのである。
セシルは地図を見ながらクイーンローズタウンを目指し、ほとんど線路沿いの道を赤のロードスターを運転していった。助手席には愛犬のラッセル、後部席には彼の荷物を詰めこんだボストンバッグがふたつあった。
見事な黄金色の毛並みのアフガン=ハウンドのラッセルは、風よけのゴーグルで目を守り、大人しく助手席に寝そべるようにして座っていた。
セシルはよく晴れた春の空の下、線路沿いの道路をあたりのどこまでも広がる緑の野や、遠くに垣間見える紺碧の海原などを飽きることなく五時間以上も眺めながら、時速約六十キロでゆっくりと進んでいった。途中でサラの作ってくれたサンドイッチをラッセルと分けあって食べた以外は一度もエンジンを切ることなく、クイーンローズタウンに辿り着いたのは午後の一時を少し過ぎた頃だった。
そしてパン屋や薬局、鍛冶屋、写真屋、宝石店、帽子屋、仕立屋、肉屋……などの並ぶ町の大通りを素通りして――そのままさらに先のロチェスター村をセシルは目指したわけだが、村には一軒しか宿屋がなく、そのマックルーア家のしみったれた今にも倒れそうな汚い家といったら――セシルはクイーンローズタウンに引き返して、そちらに宿泊しようかとさえ思ったくらいである。
もしこの村にホテルを建設するとしたら――まったく話にならないとはいえ――一応この村に一軒しかない宿屋はライバル店ということになるのだ。もしかしたら見た目とは違って内装は素晴らしいとか、だす料理は最高に美味しいとか、何か美点のようなものがあるかもしれないではないか。そう思ってとりあえず今夜はここに宿泊することにしようとセシルは決めた。
しかし、マックルーア家の二階にある二部屋だけの旅の宿は、外見と同じく内装もまたしみったれており――セシルは剥がれかかった壁紙や、どことなく黴くさい空気、ワラを詰めたいまひとつ眠り心地の悪そうなベッドなどを見て、ここに十日も滞在するのは不可能だと感じた。一応役員会で報告するため、料理の味のほうも見ておかなくてはと思ったが、一階の散らかった台所で斜視のマックルーア夫人が小さな子供たちを叱りつつ、鍋をかき回しているのを見ると――もはや何も期待できないと、セシルは首を振るのみだった。
セシルは斜視で、鼻の下に大きなほくろのある、黄色い髪に黄色い肌をしたマックルーア夫人に少し出掛けてくると告げると、犬のラッセルを連れてロチェスターの村を少し散歩しようと思った。ロカルノンの郊外もまた、ロチェスターと同じように農家の畑がえんえんと続いていたが、やはり田舎の空気のほうが美味しいように感じるのは自分の気のせいだろうかと、セシルは肺いっぱいに吸いこんだ澄んだ空気とともに、心のほうまで綺麗になっていくのを自然と感じた。
何もロカルノンの街の空気が、とりたてて汚いということではないのだが――それでも北区にある工業地帯には石炭工場や紡績工場、製鉄工場などが立ち並び、そちらの方角はいつも灰色に薄曇って見えるのだった。この分だと、今日の夜は満天の星空に違いないとセシルは思い、今夜は宿屋の小さな窓から星を見ながら眠りにつこうと考えた――天体観測は、セシルにとって唯一の趣味らしい趣味であった。
ロチェスター村の大通りは、クイーンローズタウンの町の大通りを縮小したような感じで、同じように雑貨店や鍛冶屋、製材所、床屋などが並んではいたが――どこもあまり店という感じがしないのがその特徴であった。どの店もその裏手に畑や家畜小屋などを持っており、本業は農家で、鍛冶や製材、床屋などは副業でやっているといったような印象を受けるのだ。
セシルはこういうところものどかで悪くないと思いながら、心の中で歌を歌いつつ、村の役場を通り過ぎ、郵便局の隣のスミス雑貨店の前でふと足をとめた。
(なんだか、ここはまるでロカルノンの一番通りにある『サヴァナ・ムーン』に似ているな)とそう思ったのである。
サヴァナ・ムーンというのは、ロカルノン一番通りにあるレストランの名前で、晴れた日には外で客たちは食事をしているのだが、そこに置かれたテーブルや椅子、日除けのパラソルの形などが、まるきりそっくりなのであった。
実はこれはスミス雑貨店の嫁であるシンシアが、ジェシカやステイシーと一緒に『サヴァナ・ムーン』でランチをとっていた時――彼女の頭に閃いたことであった。そこでシンシアは優柔不断の夫、ベンジャミン・スミスに働きかけ、また姑のジュリアの猛反対を押しきり、唯一味方をしてくれた舅のロバートの賛成だけを旗印に、誰の助けも借りず自分だけで小さな事業を始めることにした。
シンシア自身も料理の腕前にはなかなか自信があったが、客を呼ぶためにはもっと斬新なメニューをまず考えつかなくては、とシンシアは家中の料理の本を片っ端からめくっていった。
そしてじゃがいものグラタンの作り方のページを開いている時に――ふとローラの顔が思い浮かんだのである。スープを作らせるならジョスリン・フラナガン、ミンスパイを作らせるならレイチェル・チェスターといったように、じゃがいも料理にかけてはロチェスター村ではローラ・リー・ローズの右にでる者はいなかった。
シンシアはメインとなるじゃがいも料理だけでなく、サラダやデザートなどもローラに作ってもらおうと考えていた。農作業や家畜の世話などは、雇い人のマーシーが使用人を何人か使ってやっているという話だったし、村人の中には何人も、ローラの料理の熱烈なファンがいるので、彼女もきっとやりがいを感じてくれるのではないだろうか。
最初、ローラはシンシアの誘いを断り続けていたが、それならせめて店でだすメニューだけでも一緒に考えてほしいとシンシアに縋るように頼まれ――一緒に献立を作っているうちに、だんだんローラ自身もその仕事に面白味を感じるようになり、最後には結局スミス家の台所でフライパンを握るようになっていたのである。
セシルがスミス雑貨店を訪れたその日も、オープンカフェは大盛況だった。ローラとドナが額に汗しながら作ったハンバーガーやホットドックは鍛冶屋や製材所の雇い人、また村役場の独身の事務員やホールデン生命の保険外交員、郵便局の受付係、その他アーヴィング村長やガートラー巡査などに次から次へと売れていった。そしてランチの時間が過ぎると今度は、村の料理にうるさい婦人たちがパフェを食べにやってくる。こちらのほうも毎日だせる数量が限られているというせいもあって、ほとんど連日完売といったような状態が続いていた。
そのようなわけで、午後の四時を過ぎたその時間帯、白いパラソルの下の白塗りのテーブルの前でいくらメニューを開いていても、誰も注文を聞きになどこないのだが――何も知らないセシルはマックルーア夫人の料理にはまるで期待できないと思い、そこで軽く食事をするつもりであった。
ところがローラとドナとシンシア、それとシンシアの娘のシンディが、五つあるテーブルやパラソルなどを片付けに表にでてみると、これまで村で見たこともないような身なりのいい男が、メニューをやぶ睨みの目で眺めているではないか。そしてその足元では見事な金の毛並みの犬が尻尾を振っていて――三人の女とひとりの娘は互いに顔を見合わせると、どうしたものかと視線を交わしあった。
「もうだせる料理は何もないもの。今日はもう閉店しましたって言って、帰ってもらうしかないわよ」
店の責任者であるシンシアはそう言ったが、木のだんだんを下りて断りの文句を述べにいこうとした彼女のことを、ローラが引きとめた。
「待って。だってあの人、ここらへんの人じゃないのよ。きっと旅行か何かでわざわざこんな田舎までやってきたんだから、無下に追い帰しちゃ悪いような気がするわ」
「そうねえ……でもそれじゃあ、どうするつもり?」
トミーとローラが結婚した時、まだ十二歳だったシンシアの娘のシンディは、今では十七歳になり、愛敬のある可愛らしい娘に成長していた。好奇心旺盛なシンディは、村以外の場所からやってきた人間がとても珍しかったので、母たちの困惑を解決してあげようと、スカートの裾をぱっとひるがえし、男の元へと駆け寄っていった。
「あっ、シンディ!」と、ドナが小さな声で叫んだが、その声はシンディの耳には全然届かなかった。
「お・じ・さ・ん!」と言いながらシンディは、ひょいとセシルの顔をのぞきこんだ。シンディは決して美人とはいえなかったかもしれないが、そのクリーム色の肌に浮かんだそばかすや、琥珀色の瞳にはどこか、人を惹きつけてやまない魅力があった。
「うちはもう閉店なんだけど、もしおじさんがお腹空いてるなら、何か食わしてやってもいいってうちの母さんたちが言ってるけど、どうする?」
店にやってきた客に対して「何か食わしてやってもいい」というのも凄い科白だが、セシルはそのことをむしろ面白いと感じて、思わずにやりと笑った。
「じゃあこうやってメニューと睨めっこをしているだけ無駄だということだね?」
「うーん、まあそうねえ。だってハンバーガーもホットドッグもみんな売れてしまったもの。でもあるものでいいならレイノルズ夫人がとっても美味しいものを作ってくれると思うわよ」
シンディはちょこんと座りこむと、ラッセルの見事な黄金色の毛並みを撫でている。ラッセルはぴょこんと腰を上げると、シンディのそばかすの多い顔をべろべろなめた。
「おじさん。この犬名前なんていうの?」シンディはセシルのことを見上げながら聞いた。
「ラッセルっていうんだよ」
セシルはシンディに対してはまるで女性恐怖を感じなかったが、彼女の母のシンシアに対しては別であった。彼はスミス夫人が背後から声をかけると、のみのようにぴょんと跳ねるようにして椅子から立ち上がっていた。
「すみませんけど、うちはもう閉店なんです。でももしよろしかったら……何かありあわせのもので調理いたしますけども?」
シンシアは娘が口悪く「何か食わしてやってもいい」と言ったので、まるで娘の育ちの悪さを隠すように、いつも以上に丁寧な言葉使いで客にそう聞いた。
「いや、あの、そのう……べつにいいんです、ないならないで。宿屋に戻っておかみさんに何か作っていただこうと思いますから」
「まあ。もしかしてあのしみっ……じゃなくて、マックルーアさんの宿にいらっしゃるんですか。お気の毒に……ああ、いいえあのそのね、それならばなおのこと、何かお作りいたしますわ。ローラ、今からだと何が作れるかしら?」
シンシアが振り返るのと同時に、セシルもまたスミス夫人の視線を追うように、ローラのほうを見た。そして互いの唇が「あ」と開かれると、シンシアもドナも、ふたりの視線の中に何か親密なものを認めて、見つめあうふたりのことを何度も交互に振り返った。
「あら、ねえもしかして知りあいなの、ローラ?」
ローラが木のだんだんを下りて近づいてくると、セシルは思わず後ずさった。そして白いペンキ塗りの木製の椅子に足をとられて引っくり返り、さらにテーブルを倒した上、パラソルの柄の部分をへし折った。
「まあ、大丈夫ですか、マグワイアさん?」
地面に頭をしたたか打ちつけ、目蓋に星を一瞬見たあと目を開けると、ローラがセシルの頭と肩を抱きあげているところであった。
「すみません。俺は本当に……こんなところでお会いするなんて、俺は……」
ぶつぶつ譫言を呟くようにセシルはそう口を動かした。
「ローラ、きっとお腹も空いていらっしゃる上に、軽い脳震盪でも起こされたんじゃないかしら?ポーチの上のソファにでも横になったほうがいいかもしれないわね」
ドナはローラの反対側にまわると、彼女と同じようにセシルのことを抱き上げようとしてきたので、流石に彼はもう耐えきれなくなって、一息にすぐ自力で立ち上がった。
「すみません、御迷惑をおかけしましたが、俺はもうこれで……」
セシルはステッキと帽子を手にとると、そそくさとその場をあとにしようとした。そしてへし折れたパラソルの脇を通りすぎる時に、
「必ずこの傘は弁償いたします」と、一礼してから一目散に逃げるようにマックルーア家まで走っていった。
「まあ、どうしましょう、あの方。犬を忘れていってしまったみたい」
ドナはくすくす笑いながら、尻尾を振っているラッセルの柔らかな毛並みをシンディと一緒に撫でた。
「ところでローラ、あの人……マグワイアさん?一体どういうお知りあいの方なの?」
「え?ええとその……」と、ローラは椅子やテーブルをシンシアと一緒にポーチの上まで運びながら、思わず口ごもった。
(ロンシュタットの保養地で顔見知りになっただなんて言ったら、きっとマグワイアさんのご迷惑になるわ。ここは適当にごまかしておかなくちゃ……)
「ロカルノンの街に暮らしていた時、パーティで一度お会いしたことがあるの。マグワイアさんは軍人でいらっしゃるのよ」
「ああ、なるほどね」と、それでシンシアは何か合点がいったようであった。「なんだか口ごもってばかりいらしたから、どうしたのかと思ったの。軍隊って男ばかりですものね、きっとローラとドナがあの方のことを抱き上げようとしたので、困惑なすったんじゃないかしら」
シンシアもまたドナと同じようにくすくす笑っていたが、ローラはセシルのことを笑うなんてとてもできなかった。かといって戦争神経症などと、セシルの病名を勝手に明かしてしまうのも気が引けるような気がするし……。
「シンシア、あの方は陸軍の大佐でいらっしゃるのよ」
ローラが真面目な顔つきで極控えめにそう告げると、ローラの意図したとおり、シンシアのくすくす笑いはとまった。
「ええーっ、本当に!?でもそれじゃあなんでまたその大佐殿が、こんなど田舎にいらっしゃったのかしら?まさかとは思うけど……」
シンシアはいかにも意味ありげにローラのことをちらと見たが、ローラはその視線の意味するところをわざと無視した。
「きっと、休暇か何かでいらっしゃったんじゃないかしら。それなのにそのせっかくの休暇を……」
ローラが言おうとしたあとの言葉を、シンシアが引きとった。
「マックルーア夫人のしみったれた宿屋で過ごすんじゃあ、ご愁傷さまだわ。あ、でもそれじゃあローラ、こうしてはどうかしら?あの方……マクガイアさんとおっしゃったかしら?あの方にランチと夕食をうちであがっていただくようにしたら、ロチェスター村の旅の印象が少しは明るくなるんじゃなくて?」
「そうね。それはいい考えだわ」
シンシアとローラとドナは、パラソルをたたみ、テーブルや椅子などをポーチの脇のほうに片付けると、セシルのために特別の献立を用意する相談をして、その日は解散することにした。