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幕間~エメリン・ゴールディの死~【1】

 ジョン・ウェブスターとルーシー・デリラ・ウェブスターの間に、ついに念願の男の子が誕生した。ふたりはともに二十歳の時に結婚して今年で十年になるが、その間に授かった子供は六人とも女の子ばかりで、そのうちのふたりは双子であった。

 ロチェスターのウェブスター家といえば、親戚がやたら多いことで有名であったが、あの憎っくき帽子山の魔女、エメリン・ゴールディに呪いをかけられてからというもの、今年で十年。どこの家でも女の子しか生まれなくなっていたのである。

 それが、とうとう――あの恐ろしい魔女の呪いを打ち破って、ルーシーは可愛い男児を出産したのである!ジョンもルーシーも敬虔なクリスチャンで、魔女の呪い云々などというのは馬鹿馬鹿しい迷信に他ならないと信じて疑いもしなかったのだが――六人も女の子が続いたあとでは、きっと七人目もそうに違いないとほとんど半ば諦めかけてさえいたのである。

 ルーシーは七人目の子供ということもあって、お産にはもう慣れっこだと自分では思っていたが、初産の時よりもひどい難産に苦しめられ――ようやく死ぬ思いで産み落とした愛しい子が、ウェブスター家の長男ジェラルドであった。

 ロチェスター村の人間はみな、帽子山に住む魔女のエメリンを心から恐れ、またある者は心の底から憎んでもいた。彼女はハットン家のダニエル坊やが井戸に落ちていると白痴のノエル・ガードナーを通じて村人に知らせはしたものの、結局ダニエルは救出された二日後には肺炎で亡くなってしまったし、マイケルとエノラのクレイマー夫妻の間には喧嘩が絶えないだろうと彼女が予言したとおり、確かにふたりの間には喧嘩の種が絶えなかった。またこれに類する話があまりにも多くあるため、村人の中には逆に、自分の子供や親兄弟が病気になったりした時、彼女の煎じ薬や祈祷に頼ったりした者が何人となくいたようである。もっとも、エメリンに自分の子供の命を救われたなどと、大きな声で公に語るような人間は、その中にひとりもいはしなかったが。

 エメリン・ゴールディが若い時、どんな女だったかを知る人間は、今では村にそう多くはいない――現在六十五歳のマイク・マコーマックは、エメリンの若かりし頃を知る数少ない老人のひとりであったが、彼は村人たちからエメリンの子供を養育し、またその孫の面倒まで見ているとして、白眼視されていた。

 マイクがエメリンと初めて出会ったのは、まだほんの十歳になるかならないかの頃であった。今でもそうだが、帽子山には全部で十の橋があると言われ、ロチェスターで育った子供であれば誰しも、その十の橋の奥には何があるのか、どんな景色がその橋と溶けあっているのかを見てみたいものだと憧れたものであった。だがせいぜい今のところ、大の大人でも第七の橋までいって帰ってくるのがせいぜいといったところであった。

 幼い頃のマイクは、ロチェスター一のわんぱくガキ大将で、なんとかして帽子山の十の橋までいってみたいものだと夢見ていた――第五の橋を越えたあたりからはヒグマが出没するし、おじさんやおばさんからは第三の橋より向こうへいってはいけないと言われている。だがマイクは、とうとう――孤児院から自分を養子として引きとってくれたマコーマック夫妻のつらい仕打ちに耐えかねて、家出をしてしまった。ふたりはただ単に一生無料で働いてくれるような、健康な農作業の働き手が欲しかっただけなのである。

 マイクはこう考えた――帽子山には自然の恵みがたくさんある。そこになんとか自力で掘っ立て小屋のようなものを建て、畑を耕し、魚を釣ったり鹿を追ったりして、どうにかこうにかひとりで暮らしていけないものかと。この計画はマイクがロチェスターへやってきてからというもの、頭から離れない魅惑的かつ現実逃避的な考えであったが、この時は突然現実可能な夢のように、マイクには俄然思えてきた。

 そこで彼は、リュックに身のまわりの物を詰められるだけ詰め、スミス雑貨店でなけなしのお金をはたいて、ずっと食べたいと思っていたチョコレートバーやキャンデーなんかを買えるだけ買った。ほんのちょっぴりの小遣いを、そんなくだらないことに使ったと知ったら、マコーマック夫人の頭からは鬼のような角が生えただろうが、もうあんな冷血ババアのことなんか知るもんか――そう思いながらマイクは、生まれて初めて食べるチョコレートバーをかじりながら、一路帽子山へと足を向けた。

 だが現実はそう甘くはない――自分がした折檻のせいでマイクが家出したことを知ったマコーマック夫人は、夫にも頼んで村中マイクを探してまわった。夜も十時を過ぎる頃になると、村中の大人がランタンや松明を掲げて帽子山の第三の橋あたりまでを捜索したのだが――というのも、マイクが学校の友人によく、帽子山脱出計画なるものを話していたので――結局マイクは翌朝になっても発見されなかった。

 マコーマック夫人は自分のせいだと言って泣きむせび、マコーマック氏にしてもブタに餌をやらなかったくらいでベルトで打ったのはよくなかったと反省した。こうなると、もしかしたら人さらいにさらわれたかもしれないとか、中には神隠しにあったのかもしれないと言いだす者までいたが、一週間捜索を続けてもマイクの消息を知る手がかりが何も見つからないとなると――打つ手なし、として村人の多くはマコーマック夫妻を気の毒に思いながらも、自分たちの日常の生活へと戻っていった。

(これだけ探しても見つからないんだから、仕様がないじゃないか。それにもともとあの子は孤児なんだし)というわけである。

 一方、当のマイクはといえば、第三の橋を過ぎたところで、今日はこのあたりで野宿しようと心に決め、黒々とした樹木の間の野原でひとり横になっていた――夏の暑い夜の日のことで、満天の星がとても美しく、マイクはその夜空を眺めながら、秋になるまでになんとか、雨露をしのげる自分だけの小屋――秘密基地を作らなくちゃとわくわくしながら考えた。と、そんな時である。赤い鬼火のようなものがいくつも、下の谷間を縫うようにやってくるのが目に入ったのは。

(チッ、村の人間が義理でオイラのことを探しにやってきやがった。なんて迷惑なことだろう)

 もしかしたら悲しいことなのかもしれないが、その赤く燃える炎は、マイクにはそれこそ鬼火のように、青くて不気味なものにしか見えなかった。ロチェスター村にはマクドナルド先生をはじめ、わくぱく小僧の彼をそう憎からず思い、できることならマコーマック夫妻の冷たい仕打ちから守ってやりたいと思う優しい婦人さえいたのだが――その人たちは彼がとうとう家出したと聞いて、心底心配していた――だがこの時マイクはその赤々とした炎を不気味だと感じ、とても暖かみある人間らしい心の象徴である、というようにはまるで感じられなかったのだ。

(おじさんときたら、ブタに餌をやり忘れたってだけで、ベルトで打つんだものな。こんなことをしでかしたあとでとっ捕まった日には――今度は鋲つきのベルトで折檻されるんじゃなかろうか)

 マイクは疲れた足を元気づけるようにして、再び重いリュックを背負って歩きはじめた。有り難いことに今夜は月明かりがある――第四の橋まではなんとかいけるさ。

 そして追っ手がどうやら第三の橋あたりで諦めたらしいということがわかると、マイクは第四の橋の手前でリュックを枕がわりにしてその夜はぐっすり眠ったのだった。


 次の日、マイクはマコーマック家の食料貯蔵室からくすねてきたハムやパンやチーズなどを食べて腹ごしらえすると、あとは休み休みひたすら歩いて、第十の橋を目指した――といっても、マイクとて、その日のうちに十番目の橋までなんとか到達しようなどと考えていたわけではない。とりあえずいけるところまでいって、あとはその時考えようというくらいの軽い気持ちであった。

 そして日暮れ時に第八の橋までようやく到達しようという頃には、流石にマイクも足が痛くなってきていた。だがその第八の橋は、ここまで苦労して歩いてきた甲斐のあるもので――それは巨大な吊り橋だった。下は目もくらむような谷間で、マイクは足が疲労のためばかりではなく震えるのを感じたが、不意に右に目をやると、崖の間を滝が流れているのに気づいた――しかもその上には虹がかかっているではないか!

(これはきっと、吉兆だ!)

 マイクはその壮麗な景色にすっかり勇気づけられ、一気に足の痛みも疲れも吹きとんでいくのを感じた。リュックの紐をぎゅっと引きしぼって自分に(よし!)と気合いを入れると、不気味にギィと風に鳴る板を一歩一歩踏みしめた。そして橋の半ばほどまできた時――彼は突然自分がとてつもなく恐ろしいことをしているのではないかという恐怖感に襲われ、そこで立ち止まってしまった。

「あわわ……」

 しかも不幸なことに、その時強い風が西の方向から吹いてきて、吊り橋はギィギィ軋んだ音を立てた――第一、ここまでくる人間などそう滅多にはいないのであろう、足元の板はところどころ抜け落ちていたし、その下の景色をちらと垣間見る時の恐怖といったら――マイクは突風にすっかり勇気をさらわれてしまったかのように、そこに立ち竦んだ。できることなら座りこんでしまいたいくらいだったがそれは許されない。何故なら――一度そうしてしまったが最後、もう立ち上がる勇気も気力も、すっかり萎えてしまうのではないかという予感がしたからだ。

 マイクはごくりと唾を飲みこむと、なるべく下を流れる川を見ないようにしながら、体の均整を保って、真っすぐ前にゆっくり進んでいこうとした――が、またしても強い風が――それもさっきのよりもさらに強烈なのが吹きつけてきた。マイクは必死に吊り橋に捕まり、風が吹きすぎてゆくのを待ったが、なんと!その時肩からリュックがずり落ちて、真逆様に下の川へと飲みこまれていった!

「なんてこった……」

 マイクは絶望のあまり、へなへなとその場に座りこんだ。この今の吊り橋の状況はまるきり、自分の精神状態を現しているみたいじゃないか、そう彼は思った。戻ることも進むこともできず、また進んでいったとしても、再びこの恐ろしい橋を渡ってあの冷血夫婦の元へ頭を下げて戻らねばならないかもしれないだなんて……いいや、それだけは絶対嫌だ!

 マイクはマコーマック氏の気難しい、いかにも不親切そうな顔と、マコーマック夫人の下品な赤ら顔を思いだして、何度も顔を横に振った。

(――あの家へ戻るくらいなら、この吊り橋から落ちて死んだほうがまだましだ!)

 マイクは最後の勇気を振りしぼって、なんとか立ち上がったが、そこまでであった。足元の床が突然割れたかと思うと、彼の体は真っ逆さまにそこを突き抜けていた。かろうじて、両手で吊り橋の太い綱に捕まることが許されたとはいうものの、下へ落ちるのは時間の問題であった。

「くそっ!オイラもここまでかっ!」

 額の脂汗を、冷たい風が嘲笑うように吹いて冷やした。その時、マイクはぎゅっと閉じた目蓋をもう一度上げて、信じられないものをそこに見出した――マイクの頭の上には、彼がこれまで見たこともないような、美しい少女の顔があった。

「助けてあげよっか?」

 格子縞のキャラコの服を着たその赤い髪の女の子は笑った――マイクの綱を握りしめる手は、そろそろ限界にきている。助けてくれ!とマイクは心の底から願ったが、こんな少女に一体なにができるだろうと思うと、絶望のあまり、何も言葉を発することができなかった。

「どきなさい、エメリン」

 すると彼女の背後から、陽に焼けた褐色の肌の、黒い口髭と顎髭を持つ筋骨逞しい男が現われて、あれよあれよという間に、マイクのことを軽々と引き上げてしまったではないか!

 マイクはその男の、ヒグマさえも絞め殺すのではないかと思われる腕力に惚れぼれするとともに、その男の中に自分の理想とする男性像のようなものを即座に見出していた。腰を抜かしながらも、橋の向こうにどうにかこうにか辿り着いてマイクが一心地つくと、そのどこか深遠な青い瞳をした男は、背中に薪をのせたしょいこを担いで、娘と連れだっていこうとした。

「君も、一緒にくるかね?」

 不意にくるりと振り向くと、そういえば忘れていたというように、その男はマイクのことをじっと見つめた。

「はい!もちろん!」

 マイクは元気よく答えると、エメリンという女の子と、その父親とおぼしき男の後ろを急いで追っていった――足のほうはもう疲れのピークをとっくに通り越しているような感じだったが、人間、ある種の極限状態に到達すると、そのあとはもう何も感じなくなってしまうものらしい。

 ジェイク・ゴールディとその娘の住む丸太小屋は、マイク憧れの第十の橋を渡りきったところにあった。ジェイクの話では、彼がここに住みはじめてからというもの、十年間、第十の橋を渡ってここまでやってきた村の人間はひとりもいないということだった。

 暖炉の前には熊の敷物が敷いてあり、暖炉棚にはリスやイタチなどの剥製や、ジェイク自身が作ったらしい熊や狐の木彫りの置物などが置いてあった。たったの一間しかない、狭い作りの部屋ではあるが、マイクは天井の垂木からぶら下がる、薬草やハムなどを見てまわりながら、これこそ自分の心のユートピアだと感じて興奮することしきりだった。

 不思議なことに、ジェイクもエメリンも、マイクがどうしてあんなところで吊り橋にぶら下がっていたのかとは聞かなかった。ジェイクはもともと寡黙なほうらしく、どちらかといえば娘のエメリンのほうが――父親以外の人間が珍しいのか、何かとマイクに構ってもらいたい様子だった。

「……君、ママはいないの?」

 自分に何も聞かずにここへ置いてくれているジェイクのことを思えば、そんなことは口にすべきことではなかったかもしれないが、マイクは好奇心に勝つことがどうしてもできずに、エメリンにそう聞いていた。ここへきて、十日目のことである。

「ママはエメリンがちっちゃな頃に死んじゃったんだって。でもエメリン知ってるの。ママはまだ生きてるって――でも一緒に違う男の人がいるのよ。その人との間に子供もいるのが見えるわ」

「見えるって……どういうこと?」

「んっとね、エメリンわかるのよ。人が嘘をついたりすると――それが嘘だって」

 マイクはエメリンの言うことがよくわからなかった。つまり、自分も嘘をついたりしたとしたら――彼女に見抜かれてしまうのだろうか?

「じゃあさ、オイラのこともわかる?なんでオイラが第八の橋とこでぶら下がってたのかとか、そういうこと」

「そりゃあ、わかるわよ。だってあの時マイクの強い思念波が飛んでこなかったら――今ごろあなた、どうなっていたと思って?」

 マイクは腕組みをすると考えこんだ――思念波?彼は今、学校で習った読み書きの勉強を、九歳のエメリンに教えているところであったが、彼女はとても物覚えが早かった。もし彼女が、人の心を読めるのだとしたら……。

「マイクのことは、最初にきた日の夜に、お父さんに全部話しちゃった。孤児院から引きとられて、ロチェスターの村へやってきたことや、そこの人たちがあんまりひどい仕打ちをするので、逃げだしてきたことなんか……あら、心配することないわ、マイク。好きなだけここにいたらいいのよ。あたしも遊び相手がいて、とても楽しいし」

 ジェイクは今、山へ狩猟をしにいっているが、マイクは彼が帰ってきたら、これがどういうことなのかを聞いてみることにしようと思った。この時マイクはエメリンが自分の過去をズバリ言い当てても――それほど気味が悪いとは不思議と感じなかった。それはもしかしたら彼がまだ十歳という幼い、またまだ何ものにも染まりきらぬ、純粋な年齢であったせいかもしれない。


「エメリンがそんなことを?」

 解体した鹿の肉を背負ってジェイクは戻ってくると、それを地下の食料貯蔵庫へと置きにいった。そして血抜きをして一日ワインにつけておいた鴨の肉を手にして戻ってくると、小さな子供たちの小さな胃袋を満たすため、夕食の支度をはじめた。

 丸太小屋の裏手には畑があり、そこには小麦やじゃがいも、玉葱、かぼちゃなどが栽培されている。そして畑からとれたものと狩猟でとった肉が、大抵の場合、ゴールディ家の食卓を飾ることになるのであった。

「うん。っていうことはつまりさ、今オイラが考えていることも、エメリンにはわかっちまうのかなあと思って」

 ジェイクはさも面白いことを聞いたというように、髭面の口許をにやりとゆがめたが、鴨肉のシチューができあがったところで、そのまま口を閉ざしてしまった。エメリンは格子模様のテーブルクロスの上に粗末なブリキの食器を並べ、畑から摘んできた野菜のサラダを盛りつけている。パンと野菜と鴨肉のシチュー……これが今晩のゴールディ家の夕食のメニューであった。

「エメリン、エメリンには今お父さんの考えていることがわかるかい?」

「え?なあに?」パンをシチューにつけて食べていたエメリンが、無邪気に碧い瞳を輝かせて笑う。

「マイクがね、エメリンには読心術の心得があるんじゃないかと言うものだからね」

「んー……エメリン、お父さんのことは実はあんまりよくわからないの。たとえて言うなら、暗く閉ざされた洞窟みたいな感じ……でもマイクは、嘘をついたらそれがすぐ顔にでるから、エメリンわかるの」

 ジェイクがマイクに向かって軽くウィンクしてみせたので、マイクは軟らかい鴨肉に舌鼓を打ちながら、自分の考えすぎを心の中で笑った。よく考えてみたら、孤児院をでて引きとられた先が、冷たい養父母の元だった……なんていう話は、ちょっと想像力のある子供なら、誰にでも思いつけるような、単純なストーリーだと思ったのだ。

 だがそれが決して自分の思い過ごしでないとマイクがはっきり気づいたのは、ジェイク・ゴールディがその十年後に亡くなった時のことであった。マイクはゴールディ父娘と十年の間ともに暮らし、ジェイクからは山奥で暮らす秘訣のようなものを、彼の知るかぎりのすべてのことを伝授してもらっていた。毎年山菜のなる場所や、鹿がよくやってくる谷間、また鹿の鳴き声を真似ておびきよせる方法、熊と鉢合わせた時の対処法などなど、その他バターやチーズ、ヨーグルトの美味しい作り方なども教わったし、年に何回かは山を下りて――鹿の皮や熊の皮、また彼の作った木彫りの像やバターやチーズなどを、クイーンローズタウンのナサニエル・ハートの店にまで売りにいった。そうして得た貨幣で、生活に必要なものや、あるいは家畜などを町で購入するのであった。

 だがジェイクは決して、ロチェスターの村へは近づかなかった――それがどうしてなのかは、おそらくエメリンの母親が関係していることなのだろうと、十二、三歳になる頃には、マイクはある程度見当をつけていた。そして初めてひとりで山を下りて、ジェイクの使いとしてハートの店でナサニエルと商談している時に――その時彼は十五歳であった――マイクは真実を知った。

「ジェイクの奥さんはね、ロチェスター村一のべっぴんとして知られていたんだが――結婚後まもなく、別の愛人と浮気して、ロカルノンへ逃げていったのさ。あのエメリンとかいう子供も、ジェイクとの間にできた子ではなくて、その浮気相手との間にできた子供だって話だよ。あの子のあの赤毛は、どう考えたって、浮気相手の父親譲りなんだから」

 マイクはその話を聞いた時、男のくせにおしゃべりの、ハート店の店主、ナサニエルのことを心底軽蔑した。人間、知らないほうがいいことだって、随分あるものだ――このことでマイクの、ジェイクに対する尊敬は薄まるどころか、むしろ強まったといってよい。彼はナサニエルのような軽薄でおしゃべりな俗人との関係を断つために――あんなふうに娘とふたり、山にこもっているのだろう。それも、その娘とは血の繋がりなんてないにも関わらず――あんなにも大切にして可愛がっている!

 マイクはそのことを思うと、たまらなく切なくなったが、寡黙なジェイクの真似をするかの如く、何も知らないふりをして、それから約五年の間、ジェイクとエメリン父娘と暮らした。その後のマイクの生涯を振り返ってみても、マイクにとってその十年はまさに黄金時代といってよく、もしエメリンさえ自分と結婚する気があったなら――マイクはその生活を一生続けていたことであろう。

 マイクはジェイクの正確な年齢を知らなかったが、それでも彼が死んだ時、おそらくまだ四十そこそこだったに違いないと、その死に顔を見て思った。ジェイクは狩りの途中で熊に襲われ、重傷を負ったのであった。マイクは命からがら、ジェイクの重い体を担いで丸太小屋まで戻ってきたのであるが、その十日後に、ジェイクは腹部に負った傷が元で、そのまま亡くなった。

 マイクは彼を畑のそばに葬ったが、その間エメリンが悲しむでもなく、むしろ怒りをその美しい碧玉の瞳に浮かべているのを見て、訝しく思った。ジェイクの死に際の、マイクに対する最期の言葉は「エメリンのことを、どうかよろしく頼む」というものであったが、彼はそれを決して結婚とは結びつけて考えなかった――何故ならその頃にはエメリンにはすでに、クイーンローズタウンに想い人がいたからである。

「……お父さんは、死ぬまでわたしのことを騙していたんだわ!そしてマイク、あんたも本当はあたしがあの人の娘でないってこと、知ってたのね!」

 このエメリンの、突然の問いかけに、マイクは不意打ちを食らったように狼狽した。死ぬ間際、ジェイクの意識は朦朧としており、エメリンには一言も言葉を残すことなく、ただ自分にだけ彼女のことをよろしく頼むと言っただけだったから――最期に遺言としてジェイクが娘に真実を告白したとは、マイクにはとても思えなかった。

「……どうしてそれを?」

 マイクは暖炉のそばの椅子に座ると、いつものように猟銃の手入れをしながら、エメリンとは背を向けたままで話をしようと思った。マイクはエメリンを愛していたが、エメリンは彼のことをただの兄以上には感じていない――そのことを思うとマイクは、時々エメリンに対して激しい欲望を感じ、自分を抑えるのが難しくなるのであった。

「あんたがあたしに惚れてるって、わたしが知らないとでも思ってるの?できることならマイク、あんたがあたしをどうしたいと思ってるか、これでもわたし、よく知ってるつもりよ――今のあなたは父の死のショックで、心のガードががらすきですもの」

「……なん、だって!?」

 マイクは猟銃を壁に立てかけると、美しく成長したエメリンのことを振り返った。彼女はギンガムのワンピースに白いエプロンといういつもの格好で、腰のところに手を当てている。

「つまりこういうことよ――父の考えていることはわたし、昔からよくわからなかったの。それとマイク、あんたも父さんと一緒に山へ入ってるうちに、父さんとまったく似た感じの心の持ち主になってしまった……でも時々町へいくと、あそこの軽薄な連中の心はわたし、すらすら本でも読むみたいに読めるのよ。それと父さんも、流石にあんな重傷を負ったあとでは、心がすっかり弱くなっていて、彼が最期に心の中でどんな遺言を残したか――ここまで言えばマイク、あなたにだってわかるでしょう?」

「……確かに、君は父さんの実の子ではなかったかもしれない。俺がそのことを知ったのは、十五の時、ナサニエル・ハートの店にひとりでいった時だ。でも君にもジェイクにもそのことは黙っていたよ。何故だかわかるかい?何故なら父さんは君のことを心から愛していたし……」

「もうやめて!」エメリンはそんな言葉は聞きたくない、あるいは聞かなくてもよくわかっている、というように両手で両耳を閉じていた。「あんたには事の重大さってものがまるでわかってないのよ。あんたも父さんと同じ――世間に背を向けて逃げている、ただの負け犬よ!あたしがこんな山奥で、父さんとあんたのたったの三人っぽっちで暮らしていて、本当に幸せだったと思って?あたしは――あたしは本当は、アレンと同じように、普通に学校に通ったり、本当にそういう普通の生活が送りたかったわ!だのに父さんはあたしをここに閉じこめて、年に何度か山から下りる以外は、あんた以外の人間とは遊ばせなかったのよ!それだって――それだってね、父さんと血が繋がっていると思えばこそ耐えられたのよ!血の繋がった自分の父を見捨てられないと思えばこそ、料理の支度やら掃除洗濯やら、あんたの靴下を繕ってやったりだとか、我慢してやってこれたのよ!あんたはこれからたったのひとりぼっちで、この山小屋に残るがいい――わたしは町へ下りていって、アレンとふたりで暮らすわ」

 呆然としているマイクをよそに、エメリンは山羊革のトランクに自分の数少ない身のまわりのものを詰めはじめた。マイクにとって唯一の救いは、彼女が涙を流しているということだけであった。愛した父の死とともに真実を知らされ、少し精神が錯乱しているのであろうと――そうマイクは思いたかった。

「エメリン、君の町へいくという計画に水を差すわけではないけれど……アレンと君は何も、婚約をかわした仲というわけでもないし――突然押しかけられては、彼も彼の家族も、迷惑なんじゃないかな?それより、一度よく話しあってから……」

「そんな悠長なこと、言ってられるもんですか」エメリンはエプロンをはずすと、それもまた乱暴にトランクに突っこんでいる。「今日からあんたとふたりで暮らすだなんて、想像しただけでもあたしは嫌よ。夜になったら一体なにをされるか、わかったものじゃないわ、いやらしい」

 マイクは自分の、紳士ぶった仮面の下の本心をエメリンに見破られていることについて――顔を朱に染めながらも、それほど恥かしいことだとは思っていなかった。むしろそこまでわかっているのなら――どうしても彼女に、自分のものになって欲しかった。

「エメリン、本当にいくのかい?」

 毛皮のコートに身を包んでいる彼女が本気だということがわかると、マイクもまた、エメリンについていかざるをえなかった。何故なら――彼女の父、ジェイクの最期の遺言は、実の娘に等しいエメリンのことをよろしく頼む、というものであったから……。


 マイクはその日、なんとかエメリンを説き伏せて、出発するのは明日の朝一番ということにしようと言った。長く留守にするということになると、家の中もある程度片付けていかなくてはならないし――マイク自身も、身のまわりのものをリュックに詰めたりしなくてはならなかったからだ。

 そしてふたりは夜、しんと静まり返った、暖炉の薪が火に爆ぜる音のする暖かな室内で――男と女の愛を交わした。それは兄と妹の抱擁の延長線上にあるような交わりではなく――ただ発情期にある雄と雌が互いを貪りあうような、激しい性交であった。

 だが次の朝、目覚めてみるとエメリンはいつもの居丈高な彼女であり、マイクに対する異性の愛のようなものは、その碧玉の瞳の中についぞ見出すことはできなかった。

「何をぐずぐすしてるのよ、さっさとしないと置いていくわよ」

 今ではマイクは、身も心もすべて、エメリンのものであった。第八の吊り橋のところで彼女に助けられてから――考えてみれば、あの時から自分の命ですら、彼女のものだったに違いないと、マイクはエメリンの後ろについて歩きながらそう考えた。彼女はきのうの夜にあったことなど、まるでなかったような涼しい顔をしているけれど――マイクはアレンとエメリンがうまくいかないであろうことは、とっくに承知していたので、彼女が彼との愛に破れて、自分の元へ帰ってきてくれたらいいとそのことにだけ、強い望みをかけていた。


「いいこと?あたしとあんたは兄と妹だっていうことにするのよ――わかったわね?」

 山を下りる途中でエメリンは、マイクの鼻先に人差し指を突きつけてそう命令した。だがマイクには、ひとつだけ不安材料があったので、それは少し難しいだろうと彼女に話したのだ。

「どういうことよ?」と、エメリンは弓型の片方の眉をつりあげている――彼女は怒った時などに、左側の眉だけがそうなるのであった。

「つまりさ、俺は孤児院からマコーマックさんのとこに引きとられたわけで――あれから十年たって確かに容貌は多少変わったかもしれないけど、わかる奴にはわかると思うんだ。ロチェスターからクイーンローズタウンまではたったの八マイル。これまでにも何度か、山を下りてきた時に顔を合わせた奴だっているし――いくら俺がマイク・ゴールディだと名乗ったとしても、いずれは……」

「そんなのあたしの知ったことじゃないわね」

 エメリンは勇ましくずんずん先を進んでいきながら言った。その季節は秋で、帽子山の紅葉は、目を見張るばかりに美しかった。

「あたしはアレンのところへ真っすぐいくけど――マイクは自分の好きにしたらいいのよ。これからあたしとあんたは赤の他人。兄妹だっていえないなら、町のどこかで顔を合わせたとしても、あたしには一声だってかけないでちょうだい。わたしも知らない人のふりをするから」

「エメリン。それはあんまり……」

 マイクはきのうの今日でこのようなことをきっぱり言われて、内心では深く心が傷ついていたが、それでも彼女とアレンは絶対にうまくいかないという望みを糧に、言いたい言葉を喉の奥にぐっと押しこんだ。

 そして山の霊気ともいえる、澄みきった美しい空気を肺いっぱいに吸っては深い溜息をつきながら――そのことが何故彼女にわからないのだろうと不思議だった。もしエメリンに本当に人の心を読む能力があるというのなら――なおのこと、そのことがマイクには不思議でならなかった。


 クイーンローズタウンのハート雑貨店のひとり息子、アレン・ハートは、エメリンがやってきた夕暮れ時、カウンターの内側で店番をしていた。十月も終わりに近いその日はぐっと冷えこんでいたので――達磨ストーブのまわりには、暖をとっている客の何人かが、噂話に興じあっていた。そのほとんどは田舎の町に相応しい、他愛のない話ばかりであったが……そこに、これからこの町にもロチェスターの村にも何かと噂の種をばらまくことになる、エメリン・ゴールディがやってきたのである。

「ああ、アレン!会いたかったわ!」

 読書家のアレンは、ルバイヤートの詩集から顔を上げると、そこに頬を真っ赤に染め、白い息をついている赤毛の少女をカウンターの前に見出して――正直ぎょっとした。ぼろぼろの麦藁帽子と、鹿革の手袋や古びた靴なんかはまあいい。でも彼女の熊の皮のコートときたら――ちょっとした見物だったと言っていい。

「……あの、お客さま。何か御用で?」

 達磨ストーブを囲っていた六人の客たちが、それぞれにやにや笑いを浮かべているのを気にしながら、アレンはあくまでも他人行儀に言った――この間、エメリンが山を下りてきた時、出来心でついキスをしてしまったが、あれからもう三か月はゆうに過ぎている。彼としてみれば、それはもうすでに時効といってもよい時間の経過であった。

「やあねえ、何を他人行儀になってるの、アレンったら。わたしたちこの間、キスしたばかりじゃないの。まさかそれをすっかり忘れてしまったのじゃないでしょうね?」

 達磨ストーブの観衆から、ヒュウ、と口笛の音が上がる。アレンは真っ赤になって弁解しようとした――確かにそれは事実かもしれないが、よりにもよってなんでこんな時にこんな場所で、というのがアレンの本音であった。

「いいからエメリン、ちょっとこっちへきてくれないか」

 アレンがカウンターの内側にある部屋――小麦の袋や砂糖など、その他店の在庫がおいてあるバックヤードにエメリンのことを連れこむと、戸の閉まった外では、やんややんやの喝采が上がっている。

「困るよ、こんな……それに一体その格好はなんだい?まさかとは思うけど、君……」

 アレンはエメリンが、奇妙な山羊革の大きなトランクを持っていることに、なんとなくぎくっとした。彼女の父親がかなり風変わりなことは承知していたけれど、やはり蛙の子は蛙なのだとさえ思った。そもそも彼女は学校というものにさえ、一度も通ったことのない女の子なのだ。

「そのとおりよ、アレン」と、エメリンは恋する少女の眼差しで、彼女が恋人だと思いこんでいる青年の顔を見上げた。「わたし、あなたのために家出してきたの。実はつい先日父が亡くなってね、わたしもう、どうしていいか……」

 エメリンはここぞとばかり、どさっと鞄を床に落として、アレンの胸の中へ飛びこんだ。

「ああ、アレン。どうか助けてちょうだい。わたしもうひとりぼっちなの。あなたしか頼れる人はいないのよ」

「えっと、その……」

 最初は流石に面くらったが、アレン青年は非常に優柔不断な性格をしていたので――自分の腕の中にいる美しい少女を一度抱きしめてしまうと、不思議となんでも彼女の言いなりになってもいいような気がしてきた。

 エメリンはひたすらさめざめと、彼の胸の中に顔をうずめてすすり泣いている。

「その……父さんと母さんに、聞いてみるよ。君をここに置いてもいいかどうか……」

「本当に!?」

 エメリンの碧色をした、魔性の瞳が輝いた。そして彼女は店の手伝いをなんでもするという条件で――ナサニエル・ハートの家に一緒に住むことが決まったのであった。


 一方、可哀想な置いてけぼりのマイクは、店の外の窓からそっと中を覗きこみながら――エメリンが傷ついてしょんぼりと外にでてくるのを半時ほども寒い中を突っ立って待っていた。

 ところがいくらしてもエメリンはでてこない。マイクは手をすりあわせたり、白い吐息をはあっと吐きかけたりしながら、再びそっと店内の様子をのぞきこんだ――するとそこには、カウンターの内側で、にこにこと微笑むハート老夫妻と、顔を真っ赤にしているアレン、それと幸福に瞳を輝かせているエメリンの姿とがあった。

(……うまくいったんだな。それじゃあ、俺の役目はおしまいだ……とりあえず、今日のところは)

 マイクは鼻水をすすると、古びたコートの前をかきあわせて、小さな荷物を片手に歩きだした。とりあえず今日は安宿にでも泊まって――明日のことは明日考えようと思った。この先どうしたらいいかについてなど――心理的ショックのあまりに大きい今のマイクの頭では、到底考えられもしなかったからである。






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