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家庭菜園――といっても、勝手に作った教会裏の森の小さな畑だ。
さすが豊穣の女神様の加護か、前世で家庭科部に強制入部させられて得た知識しかない私でも、野菜は立派に育っている。
裁縫や園芸、自炊――そんな小さな日常が、今の私の生活を支えてくれている。感謝しかない。
「ららら、ららら~♪」
前世で覚えた子守唄を口ずさみながら作業をしていると、ふと背後に気配を感じた。
振り返った瞬間、思わず息をのむ。
そこに立っていたのは、信じられないほど美しく凛々しい女性。
白いローブに身を包んだ聖騎士の姿。ブリギッド聖国は女性が政治や軍事の中心で働いていると聞いていたけれど、現実を見るのは初めてだ。
陽光が彼女を照らし、ホワイトブロンドの髪は淡くきらめき、澄んだ碧い瞳は深く、前世の海を思い出させるほど。
「……お名前を、伺ってもよろしいでしょうか?」
――えっ!?
心臓が跳ねる。怪しまれてる……?!
「わ、私はただのリリです……平凡な孤児で…」
言葉を詰まらせながら裾をぎゅっと握る。人とまともに会話するなんて、何年ぶりだろう。
「……なるほど、リリ様ですか。良いお名前ですね」
名前を呼ばれると、不意に心が温かくなった。思わず笑みがこぼれる。
「私はユーリシアと申します。どうぞよろしくお願いいたします、リリ様」
差し出された手を取ると、しっかりと握り返される。その温もりに胸がどくんと鳴った。
「……リリ様は、私がずっとお会いしたかった方に、あまりにもよく似ておいでです」
「そ、そう……ですか?」
――聖女見習いのことを言っているのかも。救護服とマスクで姿も声も変わったはずだけど、どうして……?
「リリ様、どうか気楽にお話しください。私に敬語は不要です」
「えっ、えっと……」
敬語をやめろと言われても、緊張で言葉が出ない。けれど、もう会うこともないだろうし――
「……もしよろしければ、また会いに来ても?」
思わず固まる。心を読まれたみたいで、胸がぎゅっとなる。
「……不都合ですか?」
「い、いや、そんなことは……」
ユーリは膝を折り、見上げて懇願する。その真剣な瞳の美しさに、胸がざわついた。
「……わかりました」
「リリ様、どうか気楽に。そして、私のことはユーリとお呼びください」
「う、うん……わかった」
「ユーリ、です」
「ユ、ユーリ……さん」
その瞬間、瞳がエメラルドのように輝いた。私だけを見つめる目に、胸が熱くなる。
「リリ様……あなたのためなら、どんなことも喜んで受け入れます」
「いや、そこまでしなくても……」
「……どうか、もう二度と私の前から消えないでください」
宝物のように手を握られ、心がぎゅっとなる。
「いや、二度もなにも、今日が初めてだし」
「えぇ、ではこれからは何度もお会いしましょう。お帰りの際は送ります」
「いやいや、そんな……」
「ユーリ、です」
「わかったよ、ユーリ!じゃあ、私も“様”付けやめるね」
「……わかりました、リリ……」
少し苦しそうに名前を呼ばれるのが、なんだか切なくて、胸がじんわり温かくなる。
「ユーリはどうしてここに?」
「……声が聞こえたので」
「声?」
――歌声!?
「はい。忘れられない、二度と聞けないと思っていた美しい声でした」
恥ずかしくて、穴があったら入りたい。
「作業は終わったの?」
「もう少し雑草を抜きたいかな。だから先に帰ってもいいよ?」
ユーリの瞳が陰る。
「あっ、じゃあ……待つ?」
すぐに輝きが戻る。
「ありがとうございます。もしよろしければ、お手伝いしても?」
「え?でも騎士服が汚れるよ?」
「リリのお役に立てるなら、本望です」
思わず笑ってしまう。雑草抜きで汚れるのが本望なんて、ちょっと可愛い。
「じゃあ、水やりをお願い。川から汲んできてくれる?」
「リリの側を離れたくはありませんが……お望みなら喜んで」
「いや、大げさだな……」
思わずツッコミを入れると、ユーリは小さく笑った。
……なんだか、楽しそう。
「いってらっしゃい」
「はい、行ってまいります」
桶を持つ背中が少し不格好で、それでもなんだか凛々しく見える。
その姿を見送りながら、私は急いで雑草を抜いた。
いつもの作業なのに、今日は少しだけ特別な気がする。
誰かと過ごすって、こんな気持ちなんだ。
触ればシャボン玉のようにはじけそうで、なんだかすごく懐かしい感覚。
――これが、平凡な私に訪れた、少し特別な日常の始まりだった。