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日常。  作者: 海凪 悠晴
8/11

また変化した「日常」

 食事とその後の服薬以外、とくに何もしない日が半月かそこら続いた。四月の半ばになって、大部屋に移ることになった。さらば、五〇三号室。俺は「前原さん」という名前を取り戻した。


 同時に作業療法に参加することになる。裁縫だとか、刺繍だとか、革細工だとか。単純だけども手先の器用さを要求される作業である。平日は毎日、昼食後の一時間三十分の作業時間。それは俺にとって退屈な時間でしかなかった。

 ただ、一日も早く既に社会人となっているはずの彼女に再会したい、そして、できれば大学に復学して学生生活をやり直したい。そういう思いは俺の中でまだ燃えていた。だが、作業療法への欠席が目立つような間はそう簡単に退院できないであろう。そう考えるといくら死ぬほど退屈であろうとなんでも、毎日作業療法に出席せざるを得ない。工賃がもらえるわけでもないのに、とむしゃくしゃしつつも、作業療法士の指示や注意に従って「退屈な仕事」を日々なんとか乗り切っていた。言い方は悪いけれど「シャバ」にいる彼女のことを思ってなんとか耐えていた。毎日たったの一時間半の作業療法。その間、作業療法室の時計の針はイラつくくらいゆっくりと進んでいた。


 「シャバ」にいる彼女とひとことでもいいからことばを交わしたい、そんなおもいを抱きながらの入院生活が続く。

 あの太っちょ主治医をはじめとする医療スタッフには最初からせめて彼女とたまには電話くらいさせてほしいと要求してきたが拒否される旨以外の返事はなかった。電話どころか手紙のやり取りさえ許可されなかった。もちろん電子メールなんてものはパソコンどころか携帯電話さえ持ち込みが厳禁とされているこの病棟内では送ることも、たとえ届いても読むこともできない。ここは閉鎖病棟。面会すら親族以外原則禁止、親族でも回数と時間などに制限があるくらいだ。今は、「結婚しよっ!」と彼女の名前で結ばれているひとひらの預かり文だけが彼女を思い起こさせてくれる心の支えである。



 作業療法をも含む単調な入院生活という「日常」が過ぎていく。


 いつのまにかもう七月になっていた。意識を取り戻してからもう三ヶ月のときが経っていた。梅雨明けの予感がする頃になってきた。本格的な夏がこれからやってくる。

 七月七日の七夕を前に、医療スタッフの企画により集会が行われ、病棟のみんながそれぞれのせめてもの願いを七夕さまに願った。

 「早く退院して、彼女と結婚したい」と書かれた俺の短冊。皮肉にも七夕当日の夜、まるで我が「織姫」の号泣の涙であるようなその時期特有の豪雨に曝され、笹から地面に落ちてぐしゃぐしゃになっていたという。


 七夕を過ぎれば、もうすぐ愛する彼女の誕生日である。カレンダーに丸を付けてこの日までには退院したい、そこまではいかなくても、せめて彼女に連絡をとれるようになっていたい、と思っていた。

 そのカレンダーを見た看護師が「この日は何の日ですか」と聞いてくる。俺が「愛する彼女の誕生日なんです」と答えると、同室の髪が禿げ上がりつつある腹の出たおっさんの患者が「なんでぃ、あんたに彼女なんていたんかい。いたとしても、こんな病院に入院している彼氏のことなんぞ、とうの昔に忘れてらぁ」と野次を飛ばしてきた。それにつられるように、同室の患者の嘲笑いの声が病室内に響き始める。



 俺は愛する彼女の誕生日を保護室でがんじがらめにされて迎えることになってしまった。どうも俺は、野次を飛ばしてきたあのおっさんの患者の台詞に「ブチ切れ」てしまったとのことである。あんなこと言われて頭に血が上らずにいられるか。しかし、いくら酷い侮辱を受けたとはいえど、一時の感情で、今まで作業療法に耐えてくるなどして少しずつ得てきた医師らからの信用も台無しになってしまったのか。そう思うとやりきれない。

 彼女は俺の中では今でも愛しき存在ではあるが、もう半年以上会っていないのだ。毎朝起きたときと毎晩寝る前には必ず大事な彼女からの預かり文を眺めるというのが今までの日課になっていたが、保護室に入るときに、そんな大事なものをなぜか紛失してしまうということをやらかしたようだ。

 なので、彼女を思い起こさせるものはもう何も無くなってしまっていた。彼女に連絡を取ることが許可されているわけではないし、許可されているとしても連絡先の情報もすっかり忘却してしまっているので連絡を取ることはできない。

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