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日常。  作者: 海凪 悠晴
2/11

五月のキャンパスで

「うん、なかなかいい訳だね。では、ひとつ後ろの席の君、次の文を訳してください」

「あの……、僕、教科書忘れました。すみません……」

「うむぅ……、君ねぇ。忘れました、すみません、じゃないよ。語学の授業に教科書を忘れてくるなんて授業に何しに来たのかね。だいたい、教えている側の僕に対しても失礼なハナシだ。大学生になってひと月、しかもつい昨日まで連休だったと。この頃になると毎年のように君みたいのが出るんだよ。数ヶ月前、あれだけ気を張り詰めていた受験生だった頃を思い出しなさい。

 えー、諸君にいうが、次からは教科書に辞書、筆記用具にノート。授業に必要なものを忘れてきた者は欠席扱いとします。いいかな?」


 今日は月曜日、その昼下がりの三限目はフランス語の授業だ。俺は十八歳、大学生になったばかりの一年坊。難易度的にはそこそこの大学だが、高校時代から第一志望のところだっただけに合格したときは嬉しかった。そして、入学祝いとして親に買ってもらった一張羅のスーツを着て臨んだ入学式。あのときにちょうど、まるで俺ら新入生の門出を祝うかのように満開の花を咲かせ、憧れの校門をくぐった俺の肩にもひとひら、ふたひら、と次々に花びらを落としていた桜の木々。それらも今はすっかり葉桜となっていた。それにバトンタッチするかたちでツツジの花も見頃となったが、桜以上の人気や関心を集めるものではない。俺ら新入生にとってはオリエンテーション的なことから始まった四月の授業。それに続いて少し本格的に授業が始まろうとしたところでのゴールデンウィーク。それも昨日で終わり、今日から五月の授業が始まった。


 昔から「五月病」なんて言われる。四月には意気満々のフレッシュマンも、なまじゴールデンウィークなんてものがあるだけに、五月になる頃はすっかりその意気もどこへやらと、無気力に陥ってしまいがちになるという。とりあえず、連休明け初日、俺はフランス語の授業に教科書を持って来るのを忘れてしまった。しかも、それに気付いたのは教室に着いてから。ああ、しまったなー。小心者の俺は、こりゃ当てられたら先生に怒られるよなーと思いつつ、こっそりと端の方の席に座った。九十分の授業時間、なんとか当てられずにやり過ごせたらいいなぁ、と。


 だが、その九十分のうち半分の四十五分を過ぎたあたりで先生に当てられてしまった。今のところの授業形式は教科書に載っているフランス語の文を和訳して答えるだけなのだが、教科書を忘れてきたのだったらハナシになるわけがない。大学一年生、フランス語を学び始めたばかりでまだ「私の名前はなんとかです」とかいう自己紹介文とか、「これはペンです」とかいう基本的な文とかを練習しているところだけれど、教科書に書いてあることを暗記しているわけではないから。正直に忘れましたというほかはない。とりあえず、授業に教科書を忘れてくるとか、小学生からやり直したほうがいいのかもしれないね、と自分に脳内ツッコミを入れる。


「では、この文は代わりに……、じゃあ、そこの君。訳してください」

 代わりに別の学生が指名される。教科書を忘れた俺、なんだか決まりは悪かった。恥ずかしいなぁ、もう。昔から鈍くさいのは直っていない。なんだか、もう下を向くしかなかった。机の上に教科書があるわけでもないのに。


 ふとそのとき、空席だったはずの二人がけの右隣の席から肩をつつかれるのに気付いた。さっき、前に座っていた女の子だ。「教科書、忘れたんだよね? 一緒に見ない?」とこっそりささやいてくれた。俺はただ首を縦に振り、その子の好意に甘えることにした。もっとも今日はこれで当てられることもないけれど。



「では、本日の授業を終わります。えー、授業中にも述べたとおり、次回から授業に必要なものを忘れてきた者は欠席扱いとしますからね」

 先生がそう通告したのを最後に、九十分間の授業時間が終わる。


「教科書、見せてくれて、どうもありがとう……」

 俺は隣の席の女子学生に一応のお礼を言って教室を後にしようとした。次の時間の授業も十分後から始まる。その授業が行われる教室に向けて急いで移動しなければならないのであったのだから。


「うん、また来週ね。……あ、来週からは教科書忘れてきちゃいけないよ」

 俺のお礼に対して、女子学生がそんな台詞を返した。大学に入学してひと月にして、女子学生と言葉を交わすことらしきことをしたのはそのときが最初だった。ひとことずつ交わしただけだったけれど、奥手な俺としては上機嫌な気分で次の授業の教室へ向かうことが出来た。

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