田中アネモネ劇場『自由』
自由を求める心は病気である。
人間は正しく縛られ、ルールに従順でなければならないものだ。
灰田徳次郎はまだ30歳ながら社長である。若い頃に立ち上げたIT企業は現在急成長中。一流どころと凌ぎを削り合う注目株にまでのし上がっている。
彼の毎日は忙しい。少ない社員とともに、社長自ら駆け回っていた。
毎日が充実していた。
しかし人間、息抜きも必要なものである。
徳次郎の息抜きは少し変わっていた。夜の酒場は彼にとっては接待の場所であり、仕事のうちであった。
社員に後を頼んで小さな会社を出ると、愛車の白いジープチェロキートレイルホークに乗り込む。
この車は本来は広大なアメリカの大地を走破するための車だ。
都会の夜景を狭い駐車場から眺めながら、徳次郎は夢見る。いつか自由の大地に己の身体を投げ出してみたいと。
「……さて、今日もやるか」
呟くと、車の後部座席で着替えをはじめた。
「よう、徳さん。今日は収穫あったかい?」
公園の隅っこを歩く彼に、仲間たちが声をかけてきた。
「ダメだな。自動販売機の下は綺麗なもんだし、高級レストランも最近は残飯を外に出しやがらねぇ」
汚れた衣服に身を包み、段ボールを抱えた姿の徳次郎がそう答えて笑う。
「それにしても徳さん、まだ若ぇのに大変なこったな」
70歳ぐらいのホームレス仲間が同情する目をして声をかけた。
「職を失った上に両親を亡くして、身寄りもねぇから路上生活するはめになったんだって?」
「ああ」
徳次郎は笑顔で答えた。
「でも、気持ちは清々しいよ。自由で気楽で、最高だ」
「えらい! その通りよ。人間、誇りをなくしちゃいけねぇんだ。どんな暮らししてたって、人間やめちゃいけねぇ。へこたれちゃいけねぇんだ」
老人の言葉を聞きながら、頷きながら、徳次郎は少し申し訳ない気持ちになっていた。
『すまない、爺さん。俺はたぶん、あなたとは真反対だ』
段ボールで家を建てて、狭いトンネルのような室内に半身を入れ、肘をついて頭を支える。そうしながら町を見ていると、徳次郎はいつも癒やされるのであった。
忙しい社長の仕事から切り離され、特にすることもなくぼんやりと夜の町を眺めていると、自分が自由になれた気持ちになる。
今日は土曜日だ。独身の徳次郎はいつも週末はマンションには帰らずにここで寝る。
誰も彼の素性を知らない。ただ動物のようにここにいることが出来る。
「徳さんっ。酒が手に入ったんだ。飲まねぇか?」
そう言って段ボールハウスを仲間が訪れた。60歳代の顔の大きいおじさんだ。彼は公園内に畑を作って持っており、そこで作ったというカブを手に下げていた。もう片手には汚れた一升瓶を持っている。
「いいね」
もう高級焼肉店で夕食は済ませてある。本心では付き合いたくなかったが、断れば本物の路上生活者でないことを疑われそうで、快諾してみせた。
誘われたのは徳次郎だけではなかった。
初夏とはいえ夜は少し冷える。起こした焚き火の周りに何人もの仲間が集まって、酒を酌み交わした。
どこから調達したのか不明な、臭い酒を飲みながら、スライスした生のカブに醤油をつけて齧る。いつも高級なものを口にしている徳次郎にはちっとも美味しいものではない。しかし表面上は笑ってみせた。
彼は仲間への差し入れなど、美味しい食べ物を持ってここに来ることはない。施しをするようで気が引けることもあったが、何より彼は自由になりにここに来ているのだ。
繋がりなどは求めていない。どんな社会からも切り離されて、一人になりたかったのである。
偽ホームレスを始めたばかりの頃はよかった。誰も話しかけてなど来なくて、一人でゆっくりと自由で退屈な時間を過ごすことが出来た。野良猫になれた気分を楽しむことが出来ていた。
「俺は昔は社長やってたんだ」
仲間の一人が徳次郎に語りはじめた。
「失敗しちまって今はこんなだが、いい時は羽振りがよかったんだぜ? 可愛い姉ちゃんのいふ店に毎晩行ってたんだ」
そんな昔話を聞かされながら、作り笑いを浮かべながら、徳次郎は思う。
『こんなのは俺の望んだ自由じゃない』
仲間たちの武勇伝を次々と聞かされながら、臭い酒とまずいカブを勧められながら、徳次郎は切実に思った。
『自由になりたい』
長い休暇をとって、徳次郎が訪れたのは某発展途上国の山の中であった。
下調べはついている。ここなら恐ろしい猛獣が出ることもなく、未知の疫病に蝕まれることもない。
人間の気配さえなかった。遠くに鳥や猿らしきものの声は聞こえるが、人間的な意味のあるものは何ひとつない。
日本ではまず見られない、尖った岩が高くいくつも突き立つ光景を見上げながら、徳次郎は笑った。
「ここだ! ここが俺の求めていた場所だ!」
会社に行き先も知らせていない。スマートフォンに電話がかかって来ることはないどころか電波も届いていない。
「まったき自由とはこのことだ!」
徳次郎は早速、持って来ていたテントを設営した。ほんとうは段ボールのほうがよかったが、そっちのほうがかさばるし、雨に降られたらどうしようもなかった。
テントの中で寝転び、上機嫌でしばらくはじっとしていた。しかし何もしないでいると、すぐに退屈で仕方がなくなった。
外へ出て風景を眺めたが、何も動くものがないのですぐに飽きた。
確かにそこは自由な場所であった。しかし、自由が過ぎた。
じっと高い岩山を眺めていると、なんだか得体の知れぬ不安のようなものに身を包まれた。自分がだんだんとあの岩山のような無機質なものに変わっていくような気がした。
幼い頃の記憶がなぜか蘇る。父母にチヤホヤされ、幸せだった頃の光景が、走馬燈のように頭の中を流れはじめた。それは自由な時代だったように思っていたが、さまざまなルールに縛られていた。そのルールに従うことで何もかもを許されていた。
「帰ろう……」
徳次郎はテントを畳みもせずその場に放置すると、歩き出した。
ここまでは車で来た。途中までは道が通じていた。レンタカーで借りたオフロード車が停めてある場所まで、彼は戻ろうとした。
道がわからなくなってしまった。やがて夜が訪れた。何かわからない獣の鳴き声を聞きながら、大きな樹木に凭れて寝ようとしたが、恐ろしくて一睡も出来なかった。
明るくなると歩き続けた。どこまで行っても人間に出会うことがなかった。まったき自由が彼を取り囲んでいた。
川が流れているところに出ると、息を切らして駆け寄り、直接口をつけてゴクゴクと飲んだ。魚の姿はなかった。もう二日間何も食べていなかった。持参した食糧はとっくになくなっていた。
洞穴を見つけて入った。浅い洞穴で、その壁に背をつけて座り込むと、自然の風景が穴の外に広がった。
何もなかった。彼にとって意味のあるものは、何も。
「これが自由というものか」
徳次郎は呟いた。
「俺はなぜ……、こんなものを求めたのだろう」
それきり彼は動かなくなった。
意識はあった。意識はあるままに、彼は岩壁と同化するように、風と砂の中で日々痩せ細っていった。
誰もいない自然の風景の中で、洞穴の中にミイラが目を見開き、座り込んでいた。