逆婚約破棄されそうなんだが
緊張した面持ちで、上目遣いに俺を見る少女。高貴な佇まいと、凛とした面持ちが神々しい。女神だ! この年で女神の貫禄って何だ!? と思うが、存在しているんだから仕方ない。
三歳の夏。俺は、怒涛に流れ込んだ記憶に対応出来ず、一週間寝込んでしまった。前世で、妹が熱を上げていた、ゲームの世界に転生しているなんて、混乱して当然だ。キャラクターデザインと豪華な声優陣で人気を博していた、このゲーム。幸いといっていいものか、攻略対象となっていた俺は、今世はモテる! とプラスに考えることにした。そこから一週間。よくよく考えれば、モテるからなんなんだ。胡座をかけば、俺の信頼は地に落ちる。何よりダサい。二年後には、婚約者が決まる。例え、後に悪役令嬢となる婚約者といえど、俺の地盤が揺らいでは駄目だと心を入れ替えた。
改心したおかげか。本人を目の当たりにすると、その美しさに、あっけなく心を奪われていた。本当に、悪役令嬢になるのか? 俄に信じ難い。ヒロインの登場で、俺が心変わりするからだ! と言われれば否定できないが、心変わりなどしない。ヒロインは可愛いし、愛嬌がある。でも、それだけだ。共に国を治めていくなら教育は早く受けた方がいい。女神には女神の魅力がある。うん。やはり、俺は婚約者一筋だ! 目の前の女神に誓う!
誓ったんだよ。だから、愛想をつかされないように頑張ってきた。悪魔のような教師から出された課題は、全力で取り組んだし、鬼のような体力作りに、日々耐えてきた。今では、父上の政務の一端を担い、軍の一つは任されるようになった。女神への気遣いも忘れてはいない。誕生日には、メッセージを付け、花束とプレゼントを贈っている。なのにさ、なんて言った?
「ですから。婚約破棄、してください」
周囲の騒めきが耳に入る。ふと気付くと、膝から崩れ落ちていた。何でこんなことになっているんだ。
「殿下と婚約が結ばれてからずっと、お心に寄り添えるよう参りました。もし、他に相応しい方が、いらっしゃるのであれば、……私は、最善を尽くすのみです」
女神は、言い淀みながら言葉を繋ぐ。相応しい方って。最善って。何だよ。
「他がいるわけないだろ」
やっと出たのは、乾ききった小さな声。女神にさえ聞こえなかった。静まり返った会場に、ヒールの音が響き出す。
女神の友人、イーダだ。何の因果か、イーダはヒロインであるアイ、とも親交があった。女神とアイが引き合うことがなかったのは、不幸中の幸いだ。イーダは、宥めるように女神の顔を覗き込む。一言、二言交わしたと思えば、イーダは俺に向き直った。
「殿下。恐れながら申し上げますわ。アデリナ様の何が不服なのでしょう?」
「は?」
「アデリナ様は、殿下の妃となれるよう勤しんでいたと思います」
わかっている。不服などない。何て言いがかりだ。腹立たしく思いながらも、涙を堪える女神に苛立ちは感じない。寧ろ、庇護欲をそそられて困る。他の男に見せたくない姿だ。
俺が歩を進めたとき、とんでもない顔が現れた。なんでここで、アイが出てくる!? ゲームだと、俺が悪役令嬢に断罪するシーン。掠ってもいない時点で、ストーリーから逸れているのは確かだが。女神は縋るように、アイの手を取った。いや。いやいやいやいや。一体何が起こっているんだ。状況が全く理解できない。アデリナは口を開ける。
「長きに渡り不要な時間を割かせてしまい、申し訳ございません」
「……貴方との時間に不要なものなどない」
「その場凌ぎの慰めは、アデリナ様を傷付けるだけですわ」
「殿下は、心に決めた方がいらっしゃるのでしょ……」
「噂でもちきりですわ。庭園奥のガゼボで、逢瀬を重ねていらっしゃる方がいると」
イーダの発言に、女神は小さく頷く。庭園奥のガゼボ。学園のカフェテリア奥に設けられた庭のことだろ。……足を踏み入れたこともない。困惑した俺の視線を避けるように、アイが目を逸らした。まさか。こいつではないだろうな、無責任な噂を流したのは。
「そんな噂、初めて聞いた。そもそも、俺はガゼボへ行ったことがない」
「そんなはずないです」
アイが俺の言葉を否定する。不敬で捕えていいかな? 先に捕まえた方が、噂について追求しやすい。女神と一緒にいるのは、おかしい。二人が一緒にいるところなど見たことがない。
「イーダ嬢。噂の発端はどこだ」
「廊下やカフェテリア、あちこちで耳に致しましたわ。今更、出どころを探るのは難しいと思います」
「貴方は、そんな根も葉もない噂を信じたのか」
「……はい」
「どうして、俺に聞かなかった?」
「それは……。殿下は、一度だって、私の名前を呼んでくださったことがございません。皆様のことは、お名前で呼んでいらっしゃるのに。私のことは、心に留めていただけていないのでしょ?」
「女神の名は、おいそれと呼べないだろう」
「「「え?」」」
「女神?」
「アデリナ様のことじゃないか?」
「今の流れだとそうよね」
「つまり、殿下にとってアデリナ様は女神だと」
「想いが強くて、尻込みしていらっしゃるのか」
「そう、なるのかしら?」
しまった!!!!! 声に出ていた。ああだこうだと憶測飛び交う中、数名が人だかりから出てくる。
「アデリナ様。殿下は意外とヘタレなんですよ。そんなところも魅力ではありますが。よろしければ、同じ苦労人同士、一度話でもいかがですか」
次期宰相であり、俺の右腕。ヘタレだと!? なんて奴だ。女神に興味はないと思っていたが。
「貴方の微笑みは、潤いを与えてくださいます。アデリナ様。どうか、私の側にいてくださいませんか」
近衛騎士団、副団長。護衛の指揮を取らせていたが、まさか女神の微笑みに堕ちていたなんて。
「アデリナ、俺はお前が必要だ。俺の領地で、また馬に乗らないか」
俺たちの幼馴染。実家での新しい事業が、軌道に乗っているらしい。馬に乗ったのは、何年前の話だ。
「僭越ながら、アデリナ様はピアノがお上手だと伺っております。来週、我が家でお茶会を開くのですが、是非お聞かせください」
学園の後輩であり、生徒会の一員。俺たちに、よく話しかけてくるとは思っていたが。
おいおい。攻略対象が集結している。
「友人として、より良い婚姻を願うのはいけないことですか?」
横に来たアイが、俺に告げる。
「より良い婚姻だと?」
「この世界は、政略結婚だと聞いています」
「この世界って、お前」
「私が、何も知らない市井からの成り上がりでしたら、違っていたのかも知れません。私は、誰かを攻略しようなんて思わなかった。初めは悪役令嬢に怯えていました。でも、アデリナ様の美しさは、見た目だけではなかった」
「そうか……。俺のことはどうして」
「見ていたらわかります。気をつけていらっしゃるのでしょうけれど、この世界にない言動をとられることがあります」
「マジか」
アイの告白に、俺は血の気が引いた。今や、生まれも育ちも、この世界一色だと思っていたから。
「おい! それより。何をしてくれるんだ」
「アデリナ様に、選択肢を増やしただけです」
それが余計だ。しかも、噂なんて流れていないと言い出した。アイと協力者のイーダ、女神の三人だけに通じる話って何だよ。もう、ヒロインこそ悪役令嬢だ。大きく溜め息を吐くと、女神を見る。突然、取り囲まれた女神は、困惑しているるだろう。助け出そうとしたとき。柔らかくも、はっきりした声が通る。
「私は、殿下の婚約者です。お気持ちは有り難いですが、どなたの手も取ることは出来ません」
「アデリナ! すまなかった。俺が臆していたばかりに、不安にさせていた。確かに政略結婚だが。俺は、好きでもない女と結婚しようなんて思わない。改めて乞う。結婚してくれ」
駆け寄り、跪く。アデリナは、両手を口元に当て、息を呑む。すっかり瞬きさえ忘れてしまっているようだ。ああ。驚かせてごめん。椅子に座らせ、水を飲ませよう。そうと決まれば、と立ち上がろうとしたとき、アデリナはふわりと優しく微笑んだ。
「殿下、私の心は決まっております」
膝を折り、目線を合わしたアデリナに、俺は改めて誓う! 俺はアデリナ一筋だ。
「アデリナがいいんだ。よければ、俺のことも名前で呼んでくれないか?」