絵を観る猫の話
「よし、完成っと」
スマホのお絵描きアプリで描いていた絵が完成する。
家のパソコンで途中まで描いて、最後の仕上げをしていたのだ。
中学時代、美術部に入っていた頃はスケッチブックとかに描くのもよくやっていたものだけど。…なんだか、そういうのガチっぽい気がしてさ。最近は専らスマホやパソコンで描いている。
手の中のスマホの画面を見る。
何ということはない風景画。どこにでもありそうな絵。
それでも一応私の自信作。
とはいえ、この絵を投稿したりはしない。どこかに応募するわけでも、イラストレーターを目指してるわけでも無い。
――絵なんかで食っていけるわけないだろ。
――現実を見なさい。現実を。
下手の横好き。趣味のお絵描き。それでいい。
昔は絵描きになりたいなんて思っていたこともあったけど。
そういうのはあんまり受け入れられなかった。
まぁ、私自身、今は現実が良く分かっている。絵で食べて行けるのなんて一握りの人だけ。
私は普通の高校に行って、真ん中より少し上くらいの普通の大学に進学した。
そして、今は必至こいて就職活動ってやつの真っ最中だ。
それでいい。何の問題も無い。誰もが同じように頑張っている。
「あ~!また動き出さなきゃ~!」
動け、動け、動け、動け、動いてよ!今動かなきゃ…なんてね。
スーツなのにも構わずゴロンと芝生に寝転がる。手に持っていたスマホがポスっと軽い音を立てて芝生に落ちた。
構うまい。どうせ来ているのは不採用のお祈りメールだけだ。
世知辛いなぁ…。
すると、何かが私に近づいてきた。
猫だ。
ずんぐりむっくりとした茶色い猫だけど、ふてぶてしさとかよりも気品みたいのを感じさせる猫だ。
その猫が1匹、私のスマホを覗き込んでいる。ただじっと眺めている。
どこにも投稿していないし、誰にも見せるつもりのない絵だったから、この猫が世界で唯一の閲覧者ってことになるのかな。
自分の変な妄想に笑えてくる。そんなわけあるか。ただスマホが珍しいだけだろう。
けれど。どうやら本当に猫は絵を見ていたらしい。
スマホの画面が時間経過で暗くなると、猫は興味を失ったように離れてしまったのだ。
ゆらゆら大きな体を揺らして、ゆっくりゆっくり去っていく。
なんだか、私の絵が興味を持ってもらえたという事実が無性に嬉しかった。猫だけど。
「ありがとうね、猫さん。元気出た」
別に聞かせるつもりなんて無くて、無意識に呟いただけの言葉だった。
けれど、その猫は言葉が通じたかのようにピタリと止まると、振り返ってジッとこちらを眺めてきた。
馬鹿みたいな話だけど、なんだかその眼が「ついてこい」って言っているような気がして。
今日はもうやることもないし、良いかななんて思ってその猫についていくことにしたのだった。
◆
猫の足取りは大きな屋敷へと向かっていった。
凄く大きな屋敷だ。一体全体どんな富豪が住んでいるんだって感じの。
猫はお構いなしに入っていこうとするけれど、流石に私は無理そうだった。
なんだか非日常が始まるような予感がしていたけれど、現実はそんなに甘くないということか。
そんな風に考えていると、背後から声をかけられた。
「あの猫について来たんですか?」
「え?あ、すみませんすみません!この家の方ですよね!覗いていたとかそういうわけじゃないんです!」
「ふふ。わかっていますよ。時々、あの猫に連れられてお客さんがやってくるんです。貴女もよかったら少し寄っていきませんか?こんな怪しいお誘い、最近じゃマズイかしら…」
それは優しそうな老婦人だった。
髪は真っ白だったけれど、背筋だけはピンとしていて。これまたどことなく気品を感じさせるような、そんな女性だった。
まぁ、確かに今時家に寄って行けなんて言う人少ないかもだけど…。
なんか全部がどうでもよくなっていた私はその正体を受けたのだった。
◆
家の中に入ると、まずさっきの猫が目についた。首輪はなかったけれど、この家の飼い猫だったりするんだろうか?
猫はじっと一点を見つめて座っている。
ただじっとして一切動きを見せない。。
私は、その目線の先が気になって顔を向けた。
そして―――。
そこには絵があった。
大きな大きな絵が一つ、この絵こそがこの家の主だとでもいうように飾られていた。
そう思ってしまうほどに迫力のある、情熱的な素晴らしい絵だった。
「―――。――。すご、い」
語彙が死んだ。でも、本当に凄い。私程度のちゃちな賛美は全く意味をなさないことが分かってしまう。
「ふふ、凄いでしょう?この絵。とはいっても、有名な作品ってわけじゃないの。ある女の画家が1人の男のためだけに描いた絵。だからどこにも発表されていない作品なの」
老婦人の言葉にも何となく返事をすることしかできない。それほどに私はこの絵に魅入られていた。
何だろう。この感情は。絵から想いが伝わってくる。
これは親愛?感謝?近いかもしれないけど、もっとずっとずっと大きい感情だ。恋とか愛とかも違うような気がする。愛ですら陳腐な感情に思えてくるような大きな大きな感情。でも決して重いわけじゃなくて、何て言うんだろう…。駄目だ、言葉にできない。
やっと私は理解した。
あの猫は本当に絵を見ていたのであり、この絵を私に見せたかったのだと。
◆
そのあと高級そうなお茶菓子を貰って、少しだけ話をして、老婦人の邸宅を後にした。
あの猫は飼い猫ってわけじゃないらしい。ただ、あの絵を眺めにいつからか訪れるようになったのだという。
別れ際、老婦人は私に一つの名刺を渡してきた。「画廊“猫の眼差し”」。どうやらこの老婦人はギャラリー持ちの画商さんだったらしい。「何かあれば寄ってくださいね」と言ってくれたけど、正直行く機会は無いような気がする。絵は好きだけど、ギャラリーというのは何やら敷居が高い。
屋敷を出ても、まだ猫は私の傍にいた。
またのっそりのっそりと歩みを再開する猫。
なんだか私は面白くなって、また猫についていくことに決めたのだった。
◆
猫は人気のない神社へと向かっていった。
太っちょなくせして、身軽にヒョイヒョイと長い階段を上っていく。
最近運動不足だった私にはかなりきつい。
息も絶え絶えやっとの思いで登りきると、猫は神社の一角、塀にできた穴を潜ろうとしている所だった。
私もあわてて後に続き、その穴を潜る。
ちょっと、いやかなり苦労したけど、私が太ってるわけじゃないんだからね!…ない、よね、多分。久しぶりにダイエットしようかな…。
気付けば私は妙な空間にいた。
さっきまで神社の境内にいたはずなのに、妙に広い部屋のようなところにいた。
なんだか落ち着いた雰囲気の所で、博物館とか美術館に少し似ている。
だけど、そんなことよりもっと驚くことがあった。
その部屋はたくさんの絵とたくさんの猫で一杯だったのだ。
「わぁ…なにコレ凄い…」
にゃーにゃーにゃーにゃー鳴き声が溢れる。
猫たちは思い思いに寛ぎながら、壁にかけられた絵を観ていた。
その絵のどれもが、素晴らしい絵だった。それこそ美術館に飾られているとか教科書で見るような、そんな絵だ。
女の人を描いた絵。モデルへの並々ならぬ感情が伝わってくる。
人のいない町を描いた絵。何やら暗い感情が込められている。
明るい祭りの様子を描いた絵。観ているだけで気分が浮き立つ。
ただ一つロケットペンダントを描いた絵。収められた写真にはどのような物語があったのか。
花を描いた絵。優しい感情が溢れている。
幾何学模様で埋め尽くされた絵。作者のやり場のない怒りのようなものが渦巻いている。
一つとして同じ描き手の作品は無いようだった。
まるで、画家たちが持ちうるすべてを込めて描いた最高傑作のみが飾られているように感じる。
猫たちと同じように絵に釘付けになっていると、何やら下の方から声がした。
鈴を転がすような女性の声だった。
「あら珍しい。人間のお客様なんて」
けれど、それは猫だった。
真っ白い毛並みでスラっとした美しい猫が、人間の言葉を話していた。
「え!?猫が喋って!?え…!?」
「まぁ、そうなるのも納得だけど…。ちょっと驚きすぎじゃない?ほら、落ち着いて」
凄く驚いた。でも仕方ないだろう、こんなの。猫が喋るとか普通じゃない。
私がオタクだったからまだ良かった。日頃からこういう不思議現象に憧れていたりしなかったら、冷静になるまでにもっと時間がかかっていたと思う。
「落ち着いたようね」
「えぇ、なんとか。ここはどこなんです?私、帰れるんですか?」
「どこか、と聞かれても難しいわね…。でも大丈夫、安心して。少しすればちゃんと帰れるから」
「そうなんですね、それならよかったです」
余りにも現実離れしているから天国とかそういうのじゃないかと疑ったけれど、帰れるならそんなに心配しなくていいだろう。
「それまでここの絵を楽しんでいくといいわ」
「…凄い絵ばかり、ですよね」
本当に、凄い絵ばかり。こういう凄すぎる絵を観ると的確な賞賛の言葉とか浮いてこない。どんな言葉も陳腐で力足らずに思えてしまう。
「それはそうよ。だって「絵を観るお方」のお眼鏡にかなった描き手たちの最高傑作ばかりだもの」
「「絵を観るお方」、ですか…?」
何だろうその人。
「昔、絵が飾られている場所にふらりと現れてはジッと絵を眺めていく男の人がいたの。何を言うでもなく、何をするでもなく、ただジッと眺めているだけ。でも、どんな絵でも良いってわけじゃなかったの。その人が観るのはその人にとっての「良い絵」のみ。有名か無名かは関係なく、絵のテーマも種類も関係ないの。そしてね、その人が観ていた絵の作者はその後で必ず大成するのよ」
見る眼があった人だったのだろう。
その人が認めた画家さんの最高傑作のみがここに飾られている、ということか。
「大成した画家たちは、みんな彼に感謝したわ。それでお礼に絵を贈ろうとしたりもしたものよ。けどね、彼は決して受け取らなかったの」
それは、何故だろうか?絵が好きなら受け取ると思うけれど。
「彼にとっては「良い絵」を観ることが全てだった。自分のために描かれたとか有名な画家が描いたとか、そういう付加価値は一切考えないの。ただ、そこに飾られている「良い絵」をあるがままに眺めるだけ。それが彼の才能だったし、それだけが彼の生き甲斐だった」
つまり、その才能を画商として生かすとかそういうこともなかったのだろう。
その男の人の在り方を語る猫さんの声はどこか悲しそうに感じられた。
すると、私たちの会話に混ざってくる猫がいた。
私をここに導いた、あの太っちょの猫だ。
「そうだね、僕は絵を眺めるだけだ。むしろそれしか出来ない金持ちのボンボンでしかなかった」
「あら、貴方から話しかけてくるなんて珍しいわね、「絵を観るお方」。向こうで良い絵は見つかったかしら?」
え、もしかして、この猫がその人なの?どういうことだ?
「最近はあまり目につく絵が少なくなったよ。とはいえ、今日はなかなか良い絵が観れた。僕としてはかなり満足のいく日だったね」
「あら?もしかしてその絵の描き手は…」
「え?私?」
白猫さんの目線が私の方へ向く。確かに、私がスマホに描いた絵を猫さんは眺めていたけれど…。私の絵はここに飾られているような素晴らしい絵とは比べ物にならない。
そのはずなのだけれど…。
「凄いじゃない、貴女!この人に認めてもらえるなんて!なかなか無いことなのよ!」
白猫さんが飛び上がって驚くと、周りにいたたくさんの猫さんたちも続いて言う。
「凄い凄い凄いじゃんか!」
「良いなぁ、羨ましいよ」
「こいつはぁ驚いた!」
黒猫。三毛猫。シャム猫。ペルシャ猫。いろんな猫が口々に人間の言葉で褒めてきた。
なんか、猫が人間の言葉を喋っているという不思議現象に慣れてしまった私がいる。
でも、私の絵はそんな風に褒めてもらえるような絵じゃなくって…
「そんな私なんかの絵は…ここに飾られているような絵にはとてもなれません…」
とてもとても申し訳なくなってくる。
察するに、ここに居る猫たちこそがここにある絵の描き手だったのだろう。
「絵を観るお方」という人間の男性が太っちょの猫になっているんだから、多分そうだ。
だとしたら、私の絵はここにある絵を描いた人たちに褒められるようなものじゃない。
絵を描くことは好きだ。けれど、専門の大学に行ったわけじゃないし、絵に人生を捧げるような覚悟がない。そういう覚悟をする前に、周りの言葉を受け入れて諦めてしまった。そんな情けない奴なんだ、私は。
「ねぇ、お嬢さん。迷えるお嬢さん。かつて確かに何者かであった、今はただの猫となった女の話を聞いて。…私たちはね、もう絵を描くことができないの。」
それは、もしかしなくても白猫さんのことだろう。この人もきっと昔は画家だったのだ。ここに飾られるような立派な絵を描いた誰か。
彼女の話を聞かなければならない、理由は分からないけどそんな風に強く感じた。
「死んで気付いたらこの在り様。猫の手じゃ筆は握れない。…神様は絵描きが嫌いなのかもしれないわね」
そっか、描きたくても描けないのか、ここの猫たちは。
それはなんだか、とても悲しい。私だったらどうだろうか?
描きたくても描けないというのは。…私も辛い気がするな。
「いいや。それは違うよ、マドモアゼル。情熱的な絵の貴女。これは神様からの贈り物さ。君たちは絵に全てを捧げすぎてしまうから。食事も睡眠も忘れて。恋や愛すら顧みず。ただただ絵を描いてしまう困った人たち。だから、神様がご褒美の休みをくれたのさ。絵に捧げて失った色々なものを拾い直す機会をね」
そう言うのは「絵を観るお方」。太っちょの猫だ。
「そうかしら?そうだとして、猫になる必要はあったの?」
「そりゃあるさ。だって、その手が人間の手だったら君はどうしていた?」
「……絵を描いていたわね、きっと」
「そうさ。君たちは、そうでもしなければまた絵を描いてしまう。だから、これでいいのさ」
「……そう、かもしれないわね」
多分、「絵を観るお方」の言葉の意味は、本当に絵にすべてを捧げた後でなきゃわからないんだと思う。今の私は描きたくても描けないのは辛い、だけで終わってしまう。けれど、本当に色々なものを絵に捧げて、ここに飾られるような最高傑作を描いた後なら心境が変わってくるのかもしれない。
事実、「絵を観るお方」の言葉で白猫さんは元気が出たようだ。今はそれでいい。
「ねぇ貴女。何か色々と悩んでいるようだけど、1つだけ言わせてもらってもいいかしら」
すると、白猫さんは私の方を向き直して、真剣な声音で告げる。
「貴女の手は人間の手。それは筆を掴み、絵を描くことができる特別な手なの。まだ貴女は絵を描くことができる。その事を忘れないでほしいわ」
彼女が伝えたいことは分かる。凄く分かる。分かるけれど…。
「…私にできるでしょうか?」
「できるできない、成功するしないなんて話じゃない筈よ。ただ私たちは描きたいから描くの」
…そうか。そうだったのか。描きたいから描く。それで良いのか。周りの評価とか、それで成功するかどうかとか、そういうのは後で考えればいいだけだったんだ。
「誇りなさい。迷える描き手のお嬢さん。あの方に認めてもらえることなんて、そうそうないことなんだから」
◆
気付けば絵も猫もどこにもなくなっていた。
私は一人ぽつんと神社の境内に立っているだけ。
夢でも見ていたのか、とは思わない。確かに見た素晴らしい絵の数々が、そこに込められた想いが鮮明に脳裏に焼き付いている。
「私の手は人間の手。筆を掴み、絵を描くことができる特別な手」
右手はスマホへと伸び、左手は老婦人にもらった名刺を探すのだった。