気まぐれ呪い師と歌姫
とっぷりと夜が更けて、街は明かりも暗くなり、人影もまばらになった頃。
もう長いこと占いや呪いを生業にしているディアドラは、その日もこの時間に商売を切り上げ、表の看板をひっくり返した。
そして温かいお茶を入れ、一服する。そうしながら、再び商売道具の水晶玉の前に座ると、そっとベルベットの布で表面を覆った。
ここからは商売ではない。ディアドラのただの趣味に過ぎない。
「さて、今夜はどうしているかね?」
ディアドラが布を取り去ると、そこには一人の女が写り込んでいた……。
***
「ああ、わたしはどうしたらいいの」
エレノアはもう誰もいない楽屋の中で一枚の手紙を前に嘆きの声を漏らしていた。
『この冬の休暇を君と過ごしたい。白鳥の住む湖畔の素敵な館だ。きっと気に入ると思う ダニエル』
もう何度もその文字をなぞり、またため息をつく。黒く、豊かなウェーブの髪がその度に揺れる。
彼女はこの劇場一の売れっ子歌手だ。アークライト座の黒薔薇とは彼女のことである。
彼女を売れっ子足らしめているのはその歌声もあるが、どんなに贈り物を積んでも、どんなに愛を囁いても決してなびかない……要はどんな男とも寝ないということだった。
男というものは愚かなもので、容易に手に入らないと思うほど熱狂する。
この手紙を寄越したのもそんなエレノアの信望者の一人だった。
「わたしのことなんてなにも知らないくせに……」
ダニエルは茶色い髪に鳶色の目をした美しい青年貴族。
気に入らない相手に対してはこうして手紙や花など決してして受け取らないエレノアだったが、彼は別だった。たった一輪の花でも彼の贈り物はすべて受け取ってしまう。
他の男とは違うその澄んだ瞳を見た時からエレノアの心は彼に奪われてしまったのだった。
「こんな出会い方をしなければ……!」
エレノアはそう言って髪をひっつかむと黒いかつらを剥ぎ取った。するとサラサラとまっすぐな金の髪がこぼれ落ちる。
エレノアがそうしてまで黒髪のフリをするにはわけがあった。
実は彼女は男爵令嬢だったのだ。しかしすでに父は無く、跡継ぎの男子もいない。ただ居るのは病気がちな母のみだった。
それでも父の代わりに爵位を継いだ叔父の援助を受け、最低限の暮らしは確保できるはずだった……のだが。
一向に叔父からの援助は無く、母の薬代もあって生活は追い詰められていった。
屋敷を手放し、ドレスも、宝石も手放してなお、暮らして行けぬと感じたエレノアはなんとか母の薬代だけでも工面しようと意を決し、辻に立とうとした。
そんな彼女に声をかけたのがアークライト座の座長だったのだ。
彼のまるで魔法のような手にかかり、エレノアは魅惑の歌姫となった。
……だけど。エレノアはまた手紙に目を移す。
休暇への誘い。もし、自分がただの男爵令嬢ならば素直にこの『招待』を受けただろう。
だけど、あくまでもこれは『歌姫エレノア』に対して。
ひと時の火遊びへの『招待』に過ぎない。
「それでも……」
エレノアはその手紙を捨てられなかった。
若さも美貌もいつか衰える。
もしこのまま母の面倒を見続けるのならいずれ誰かの愛人になるしかない。
だったらいっそ、ダニエルを思い出にして生きていきたい。
それならきっとわたしは強くなれるわ、とエレノアはひとりごちた。
***
「まったく……今日もじれったいことだね」
ディアドラはにんまりと口の端を釣り上げながら、水晶玉の中のエレノアの様子を見ていた。
「これは少しおせっかいをしないとかね」
彼女はよっこらせと立ち上がり、ほこりっぽい棚から瓶を引っ張り出す。
「真実が見えるように、ベラドンナのエキスとバジルシードを……」
ぽたりと一滴、水晶玉に落とした魔法の薬は音もなく吸い込まれていく。
「うっかり秘密をこぼしてしまうように、タイムにマーシュマロウ、ユーカリ、エルダーフラワー……さ、これでよし」
ディアドラは水晶の中のエレノアをじっと見つめた。
「素直におなり、エレノア。そのダニエルってのはお前が何者でも愛しているってよ。なんならこの旅行をきっかけに駆け落ちすら考えているくらいさ」
そう囁きかけ、ディアドラはベルベットの布を水晶玉にかけた。
そうして老いた呪い師はもうすっかり冷めたお茶をすすって、明日はどうなるだろうと満足げに微笑むのだった。