1話 『羽ばたきノ刻 起Ⅰ』
「お弁当良ーし!制服良ーし!校則ギリギリマニキュアも良ーし!」
高校の制服へと着替えた天月サナキは、二本に結いた髪を揺らし、鏡に映る自分に微笑む。
「よし!今日もバッチリだ!」
壁にかけてある電子時計を見れば、時刻は朝の7時。
家を出る予定の時間には、かなり余裕があった。
この時間を有効に使おうと、サナキはリビングにあるショーケースへと向かった。
リビングの壁一面を占める巨大なショーケースの中には、所狭しと今までサナキがピアノのコンクールや、バレーボールの大会で手に入れた優勝トロフィーや賞状が飾られていた。
サナキはトロフィーを取り出すと、ウェットティシュで一つずつ丁寧に拭いていく。
いくつか作業が終わったところで、ショーケースの真ん中に飾られている写真に目がいった。
6年前に両親と妹の四人で海に行った時に撮った家族写真だ。
臆病な妹は『サメが出るから』と中々海へ入りたがらず、そんな妹を海に入れるのには苦労した。
母も『肌が焼けるから』なんて理由で入りたがらなかったし、結局父と遊んでいてばかりだった。
「懐かしいなぁ……」
思わずそう言葉が漏れる。
感傷に浸っているといえば、それは正しいのだろう。
これは、もう戻らない時間なのだから。
「あっ、そういえばチクワに餌あげてなかった!」
ふとそれを思い出し、後方にある水槽へ。
「さぁチクワお食べ、ご飯だぞう」
粒状の熱帯魚用の餌を計量スプーンですくい、だだっ広い水槽の中で悠々と泳ぐグッピー(名前はチクワ)に与える。
チクワは餌が与えられたのを確認すると、水面に上がりそれをパクつく。
小さな口で夢中に餌をほうばるこの姿が、たまらなく愛おしい。
「おはよう……お姉ちゃん」
消え入りそうな声に振り向くと、妹のミコトが起きてきた所だった。
二つ下の妹で中学二年生、少々気弱だが優しい妹だ。
「おはようミコト、今朝は早起きだね!」
「うん……昨日は薬のおかげで、久しぶりによく眠れたから……」
ミコトがはにかむ。
見れば確かにいつもある目の下のクマは今日は殆どなく、元気そうだ。どことなくショートカットに切り揃えられた髪にも、艶があるように感じる。
良かった、と安堵する。
ネットで見かけた“セカンドオピニオン”という言葉を信じ、ミコトの通う精神科の主治医を変えてもらったのが功を成した。
「そっかそっか、学校行けそう?」
「うん。大丈夫そう……今日は、朝から行ってみようと思う……私、変わろうと思うから……」
ミコトは右手首のアザを撫で、そう決意した声で言った。
「本当⁉︎すごいすごい!すごいよミコト!」
喜びのあまり、思わずミコトを抱きしめる。
最近昼からとはいえ学校に通えるようになったミコトが、まさか1ヶ月で普通の人と同じように登校できるようになるなんて。
「ちょ、ちょっとお姉ちゃん。苦しいよ」
「あっ、ごめんごめん。つい嬉しくて……」
照れて微苦笑するミコトから体を離す。
ミコトがこうして笑えるようになったのも、ここ一年程の話だ。
妹とこうしてまた過ごせる事に本当に幸せを感じる。
「じゃあ学校行くなら、ミコトの分のお弁当も作らなきゃね。今お昼ご飯お弁当に詰めるから、ちょっと待ってね!」
ミコトが家で食べる用に、と作り置きしていた昼食を取りに台所へと向きを変えたところで、サナキは勢いよく足の小指を横の食器棚にぶつけた。
「痛ッ!」
鋭い痛みで思わず足を押さえ蹲る。
「つつ〜……これ骨折れたでしょ〜」
涙を浮かべるサナキに追い討ちをかけるように、またしても不幸が訪れる。
足をぶつけた衝撃で、食器棚から皿が床へと落ち、耳障りな音が響いた。
「うぅ〜災難だ……」
涙で霞む瞳で、粉々に割れた食器を見つめる。
「あ〜ぁ……これネズミのマスコットが描いてあってお気に入りだったんだけどなぁ」
ミコトのお弁当を作る前に、まずはこれを片付けなけないとか。
サナキはミコトの方へ振り向く。
「ごめんねミコト、びっくりさせちゃったね」
振り向いてはっとした。
ミコトが床に崩れ、体を震わせ怯えていた。
「ミコト⁉︎大丈夫⁉︎」
すぐに駆け寄り、ミコトの体を揺する。
「……あいつが、またあの怪物が……」
ミコトには、もはや声は届いていないようだった。
視線は下を向き、右の手首を左手で抑え、震えていた。
力強く握るせいで、右の手首は鬱血しそうな程紫色に染まっていた。
これは、ミコトの幼い頃からの癖だった。
いや、正確にいえばあの出来事があってからの癖だ。
ミコトはあの時から、何か恐ろしい事があると、こうして右の手首を抑え何かに怯えている。
「連れてかれる……連れてかれる……ッッ!」
『一体何に連れてかれるの?』一度ミコトに、そう聞いたことがある。
だがミコトから返ってきた言葉は、何やら理解し難く想像の難しい言葉ばかりで、ただ一つ分かったのは、それが怪物らしいという事だけだった。
「だ、大丈夫だよミコト!ただ食器が落ちただけ!何もいないから!」
だがミコトにその言葉は届かない。
「ミコト……!お願い!戻ってきて!」
涙を浮かべ、そう訴える。
サナキ自身も怖かった。
ミコトが何処か遠くに行ってしまいそうで、自分を置いて何処かへ行ってしまいそうで。
しばらくして、ようやくミコトの震えが止まり、落ち着いた。
苦しそうに握られていた右腕がようやく自由となる。
「あ……私、また……」
自分の右手首に気付いたミコトは、瞬時に状況を把握する。
「ミコト……良かった、戻ってきてくれたんだね」
「ごめんねお姉ちゃん……いつも私……お姉ちゃんに迷惑かけてばかり」
「ううん、そんなことないよ。ミコトが隣にいてくれるだけで、私は幸せいっぱい。だからそんな風に自分を責めないで」
制服の裾で涙を拭くと、サナキは立ち上がる。
「じゃあちょっと待ってね!すぐにこれ片付けて、ミコトのお弁当作るから」
ミコトを椅子へと座らせ、床に散らばった食器の破片をホウキで掃いた後、お弁当作りに取り掛かる。
いつか使うだろう、と大事に置いていたミコト用の弁当箱を食器棚から取り出す。
先程作りラップを掛けていた食材をその弁当箱へと詰め替え、ミコトへと渡す。
「今日のお弁当ウィンナーとか卵焼きとか、小物がいーっぱい入ってるから、友達と交換こして食べて!」
「うん、ありがとう……」
人生で初めて手にしたお弁当の重みに、ミコトの表情も少し嬉しそうに見える。
「結婚には三つの袋が必要かもしれないけど、友達作りは胃袋だけ掴めば大丈夫!頑張ってねミコト!」
「うん、頑張ってみるよ。私、変わろうと思うから」
まだ少し弱々しいが、決意のこもった声でミコトはそう言い切った。
さっきはあんな事があったけれど、こうしてミコトが前を向いていればいつか良い方向に進んで行くに違いない。
そういう気がした。
「さてと、じゃあ朝ご飯作ってあげるからちょっと待ってね」
と言ったところで、壁にかかった電子時計が横目に見えた。
「あっ!もうこんな時間!」
表示されていた時刻は7時55分。
家を出ようと思っていた時間からはとうに10分もオーバーしていた。
「ど、どうしよ。まだミコトの朝ご飯が――」
家から高校までは15分程の距離なので遅刻はしないが、一緒に登校する約束をしている友人との約束には、走ってギリギリ間に合うかどうかという時間だった。
「お姉ちゃん。私は大丈夫だから、友達優先してあげて。キミカさんと待ち合わせしてるんでしょ?」
「えっ、でもミコトの朝ご飯が――」
「心配しないでお姉ちゃん。朝ご飯ぐらい自分で作れるよ」
ミコトがぎこちない笑顔で微笑む。
気を使ってくれているのだろう。それを断るのは逆にミコトに失礼か。
「そうだね!分かった。ありがとねミコト!」
サナキは鞄を持ち、玄関でローファーに履き替える。
「行ってらっしゃい。お姉ちゃん」
玄関までミコトが見送りに出てくる。
「うん!行って来ます!」
ミコトへと手を振り、サナキは外への扉を開けた。
起承転結ノ起