第四話 出発
「いててて、李墨のやつ思いっきり絞めやがって」
聖が絞められて、痛めた首をほぐしながら家に戻ると家事をしている母親ともうすぐ出産する義理の姉の姿しかなかった。聖には兄が二人いた、一番上の儀中、今年二十歳になり、もうすぐでお父さんにもなる。下の兄雨光は十八で、まだ結婚はしていないが、もう立派な大人になっていた。
義姉のお腹が大きくなり、家事の手伝いが苦しくなってきたので最近儀中が家に残り、妻の容体と家事の手伝いをしている。漁師の仕事の方は雨光と聖がいれば事足りていた。聖の家は他の漁師と比べて少し豊かな家庭だった。鉄魚の漁師たちは皆が皆、船を持っているわけではなく、皆で漁船を借りて海に出て、収穫の一部を船の所有者に賃金として渡していた。聖の家はを小さな漁船を三隻所有していたのでその一つを自家用に残して、あとの二つは常に借り出して賃金をもらっていた。
「あれ、儀中兄ぃはいないの?」
「あら、聖お帰りなさい。儀中ならついさっきお義父さんに呼ばれて出て行ったわ」
義姉がそう答えた直後に儀中が大きな樽を運んで帰ってきた。
「おう、聖、帰ってたのか、ちょうどいい、お前李家に魚届けてきてくれ」
そう言うなり樽に入っている大きめの魚を数匹選んで小さい木箱に移して聖に渡した。
「鮮度が落ちないうちに行ってきてくれ」
「はーい」
木箱を手に取り、李家に向かう聖。李家は病弱な婦人のために定期的に魚介類を仕入れていた、いわば聖の家のお得意先でもあるのだ。聖は毎回李家に行けることが内心嬉しかった。李墨とは時々砂浜で勝負をしているが、それ以外に会える機会があまりないのだ。彼女は日々、武術訓練の他にも読書や習字などの日課があり、同じ年頃の子供たちと交流することが少なかった。その李墨とたまに魚介類を届けるときに会話ができるのが聖の密かな楽しみであった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「やあ、聖君、毎回本当に助かるよ、有難う」
聖からの魚を使用人に渡して礼を言う李文、李墨の姿は見当たらなかった。
「そういえば、またうちの李墨に負けたそうだね、ははは」
「え、ええ、でも次回は俺が勝ちますよ!」
「ははは、いい心意気だ。どうだね、わたしのところで稽古をつける気はまだないかな?」
李文は素直で豪快な聖を気に入り、何度か武術を習わないか誘ったが、聖はどうしても一度は自分の力で李墨に勝ちたかった。武術を習いたい気持ちはあったが、でもそれで勝ってもずるをしてるように思えて納得出来なかった。
「李文のおじさん、李墨に勝ったらまた武術を教えてください、俺はどうしても自分の力で勝ちたいんです」
「ははは、そうかそうか、その強情さはいいが、このままだと李墨が旅立つまでには一勝できないぞ」
「え? 旅立つって何処に?」
李墨が旅立つのを知り、驚きを隠せない聖。
「ああ、鳳来山に仙人修行をしに弟子入りすることになった」
「ええ!?あのただ働きをさせれる所にですか」
実は鳳来山は開放的であり、弟子入りは来る者拒まずに受け入れている。鉄魚町でも弟子入りに行った者はいるが、一年ぐらいで戻ってきて口々に強制的にただ働きをさせられて、仙人修行は意味がなかったと広言していた。そのせいか、次第に鉄魚町から仙人修行に行く人もいなくなった。
「うむ、まあ本当の意味で弟子入りできる者は少ないだろうな」
李文は物思いに軽くそう言うと何かを思い出すように聖に問う。
「そうだ、聖君もどうだい、仙人修行?」
「えっ?!」
またもや意外な質問をされて戸惑う聖。仙人修行など考えたこともなかった、確かに鳳来山はさほど遠くもなく、家も別に自分と言う労働力がいなくなってもそれほど問題になるような家庭ではなかった。だからと言って突然家を出て弟子入りしろと言われてもすんなりと「はい」と言えるわけがない。
答えに困っている聖を見て李文は続けた。
「聖君、私も若いころ少しだけ仙人修行をしたことがあってね、全く才能がなかった故にすぐ諦めたが、それでもその経験は無駄じゃなかったと思ってる。いいかい、仙人修行ができること自体が本当に稀にしかないことなんだよ。その点、弟子入り願望がある者にとって機会を与えてくれる鳳来山は素晴らしい場所だと私は思う。君はまだまだ若いし、もし行ってきて失敗してもいい人生経験だと思うがね。もし聖君にも興味があったら一月後に李墨と一緒に旅立てばいい、時間はあるからよく考えてごらん」
「は、はぁ。わかりました、家に帰って考えてきます」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
帰り道、聖は李文に言われたことを考えた。確かに鳳来山での修行に対して好奇心はあったが、家を出て、本格的に仙人修行をするまでの気持ちではない。そもそも、仙人修行をしてどうする、仙人になるのか?いや、そもそも仙人になるってどういう事だ?鳳来山には偉い仙人様たちが住んでいていろいろな頼み事や願い事を叶えてくれると言うおとぎ話みたいな話は聞いてきたが、この町では誰一人仙人様を見た人もいなければ、勿論会ったことのある人もいない、仙人修行から帰ってきた人たちでさえ仙人に会ったことはないらしい。
聖は夜、食卓を囲んで家族と李文が娘の李墨を仙人修行に出すこと、そして自分も誘われた事を話した。
「そうか、お前は興味あるのか」と父が淡々とした口調で聞いてきた。
父は聖に対して厳しくはなかった、上の兄二人に比べて、父は聖の意見を昔から尊重し、なるべく好きなようにさせてきた。兄たちにも父は末っ子の聖をを甘やかしてると言われてきたものだ。
「うーん、興味はあるけど、修行に行くとは違うかな」
「行ってくればいいさ、それでもしだめでも李文さんの言うとおり人生経験だと思ってさ」
上の兄、儀中が背中を押す。
「そう、そう、聖は若いんだからいろんなことしないと損だろ。それにあの李家が言うんだ、間違いないと思うぜ」
下の兄、雨光も後押しする。
聖がやはりはっきりと決断することができないのを見て、父が口を開いた。
「聖、行ってこい。俺の爺さんもその爺さんの爺さんもずっと漁師だった。お前の兄二人はもう漁師になってしまったが、お前はまだ可能性がある。俺はずっとお前たちの中から誰かひとりでも何か別の、もっと社会的に尊敬されるよう職業についてほしかった。俺を見てみろ、自分の名前すらろくに書けん、そんな人生をお前たちに送って欲しくない。仙人修行、素晴らしい事じゃないか。李文さんの言うとおり失敗したら帰ってくればいい」
聖の父、大魚は昔から息子たちには自分のような全く学問のない男にはなってほしくなく、三兄弟を塾に通わせた。いくら比較的に豊かな家といえど漁師の収入では塾に三人も通わすのはさすがに金銭的に苦しかったが、それでも三兄弟みんなが読み書きができるようになるまでは塾に通わせた。そもそも漁師や農民は自分の子供たちに名前を付けるときは周りにある親しいもので代用する、魚やら、犬やら、牛やらが普通に名前としてなりっ立ってる中、大魚はちゃんとした名前を付けてあげたい一心で塾の先生にお金を払って子供たちに名前を付けてもらったのだ。
聖は家族の励ましを受けて鳳来山に行くことを決心した、と同時に昼からもどかしい気持ちが収まった。李墨とまだ会えると言う事が彼を安堵な気持ちにしたのだ。
一か月後、聖と李墨は李家が用意した馬車で宝山市へと出発した。
次回でやっと本編に突入です。
中国では昔から塾に通える人は少なく、字を書ける人が極端に少なかった。
お金持ちの人たちは塾に通い、国の試験に受けて通れば役職を貰える制度だった。
この試験に落ちた人たちは町や村で塾の先生として働いていた、それでも収入や社会地位は農民より上だった。