虚無に迷いて
もともと、多様性の観点から言うと「戦争という社会的行為が人類という種の生存性を上げているのでは?」という仮説の説明のために作ったお話の一部です。
虚無の抱擁という甘美な誘惑に、私はなぜ耐えようとしているのだろう。
感知鬼と増幅鬼の働きによって暗穹にこだまする電磁波を聞く私の耳が、わずかなダンピールの叫びを捉えた。空耳かもしれないと思ったその時、さらにもう一度、今度は別の叫び。救難信号は出ていないが、そんなことは良くあること。私が探しているのはそういうもの。
地球と月の間、無限のように虚無の広がる殺伐とした暗穹においても、戦いの潮目というものは存在する。ある空間で突然両軍が大規模にぶつかると思えば、次の瞬間に衝突は唐突に収まり、全く別の領域に新たな戦いが出現する。優秀な戦士が衝突を起こすべき戦機を見極められるように、いつしか私は暗穹で、戦闘が終わってすぐの領域を見つけることができるようになっていた。そして私が助けるべき遭難したバランサーはそこにいる。
ほら、救難信号も聞こえてきた。
私は、襟元のAPRN記章をいじっていたことに気づいた。APRNの誇りを示す記章を考案してくれた軍上層部には感謝するが、いたずらに大きいその金属の塊が、必要以上に首を刺激するとは思わなかったのだろうか?腕章だけで十分だ。
暗穹での救助活動は常に時間との勝負だ。戦いに負けたバランサーが生き残っていたら、彼らは窒息の恐怖におびえながらも、救難信号を出す。そしてその信号を頼りに私たちがバランサーを拾い上げるのだ。空気は通常もって数時間。傷ついたダンピールとそのバランサーたちを救うには、実際には数分しか余裕がないことさえある。暗穹での救助活動は、常に時間との真剣勝負なのだ。
月のそば、ここデン・ハーグ・ラグーンの戦場においてもそれは同様。私が彼ら迷い子達を見つけることができたのは、望外の幸運だ。あるいは彼らにとっては幸運ではないのかもしれない。虚無と同化し、全ての人類の悲哀から解き放たれるというチャンスを奪われるのだから。
それにしても暗穹自体が焼け落ちてしまいそうな戦い……私はもう百年も戦争を続けている気がする。規律正しい母艦の中でさえさまざまないかがわしい情報が飛び交っている。もちろん母艦が残存していることは無上の幸せだ……昨日の朝、共に出航した十三の軽巡洋艦のうち九つまでが核の炎によって跡形もなく暗穹から消え去った。たった一日で!非公式にせよ、地球と月は核兵器を使わないことを合意したのではなかったのだろうか?あれほどまでに激しく核を撃ちあった人類には、もう最後の自制心さえ残らないかもしれない。人類は終焉を、種として終着点を迎えようとしているのかもしれない。その他の生物種をたくさん道連れにして。
泣きそうになるのを、ため息が出そうになるのをこらえて、私は頭を振ってゆっくり息を吐く。どうあれ、今私にできることは任務をこなすことだけなのだ。月生物哲学の教義は確かに真実なのだろうけど、それを無条件に受け入れられるほど私は強い人間ではない。頼りたいと思えるほど、よく知る神はいない。
どのみち、内神を信じることしか、私にはできない。
意識をなんとか救助活動に戻す。
赤外線プロファイルはエイ型とイルカ型。私は慎重にその熱源に近づく。案の定、ナイトメアとアヴェルサが相討ちしたものらしい。二つのダンピールが絡まったまま相対的な動きを止めている。非科学駆動を可能にしていた究極まで純度を高めた金属ケイ素製の星芒陣は、どちらもむき出しになり傷つき原型をとどめていない。昨日から続く戦闘の中で、両者とも弾丸を撃ち尽くした末に接近戦となったのだろうか。戦闘に熱狂するあまり補給のタイミングを逸したか、それとも母艦が沈んでしまったか……。デーモニクスの代わりに器体制御もつとめるバランサーたちは、果たして生存しているだろうか。
ため息のような深呼吸をしてから、私は三種類の紫外線発光信号をあげた。タイミングはオートマチック。
数秒の時間が流れたあと、いつもどおりの声が雑音のないレーザー通信ではいる。
「フリントヘッド3からバードケイジへの発光信号確認。『大破したアヴェルサとナイトメア発見。生存者不明。救助作業開始』、以上了解。バードケイジからフリントヘッド3へ。慎重に行動せよ。」
彼の機械的な冷静さは好きになれない。
私は自分にさえ聞こえないように小さくため息をついた。母艦メンキブのブラール艦長は私たちの器体をしっかりとトレースさせている。頭では分かってはいるが、音声通信が母艦からの一方通行であることに慣れることはない。発光信号をあげたあと、確認のレーザー通信が入るまでの数秒、私はいつも落ち着かない。誰にどう説明されようと、私はその数秒に慣れることができない。
私は確認の白色発光信号をあげる。
注意を目の前の迷子たちに戻す。
発熱量からは、両者ともに星芒陣が停止し、非科学生命活動の痕跡だけがあるように思える。いや、それにしては若干発熱量が多いので、器体の酵素反応がまだ継続中かもしれない。救助中の水素暴走は願い下げだ。私のアヴェルサには防火処理がなされているとはいえ、水素暴走による誘爆は避けたい。
救助教本では、こういう場合、救助活動を『後続の、より装備の整った部隊』に任せることになっている。しかし、戦場でそのような部隊が来るはずもない。たとえ自らの命を危険にさらそうと、救出するしか方法がない。それにそもそもその教本自体からして私らが書いたのだ。
私は、アヴェルサとナイトメアにさらに近づいた。
ナイトメアのサーベルはアヴェルサのコクピットをあやまたず貫いたようだ。あれではバランサーは助からない。放射光回収鬼も一つ脱落しているのが見える。そのせいで放熱が多いのだろうか。私は器体の認識焼き印をカメラで記録した。後からジェリーの回収をせねばならない。弾痕の一つが、アヴァルサの元は美麗だったであろうアイデンティティ・アートワークの刺青と重なり、今は焦げたロールシャッハ・テストとなっている。アンタレスを思わせる赤色のしみは、美女のまとうドレスの片端だろうか。
私は心にちくりとした痛みを感じる。しかしそれにかまっている時間はない。
ナイトメアのほうは、身体の各所に弾痕があり、コックピットのあたりに大きな凹みもある。さらに腰のあたりにアヴェルサの実体爪が食い込んでいる。とはいえそれでもバランサーが生存している可能性はゼロではない。
何も知らない人からは、なぜ敵のバランサーを助けることに命をかけるのか、と聞かれることがある。味方のバランサーを救うことは、新たなバランサーを養成するのと同じだけの(あるいはそれ以上の)価値があることは皆わかるようだ。では敵のバランサーを救うことは?POWとして情報を聞き出せるかもしれないだけではなく、捕虜交換の際に味方と交換できるから、やはり味方のバランサーを救うのとだいたい同じだ。
それよりなにより、死にかかっている人を放っておけるものか!戦争の中でこそ人間的でいたいものだ。たとえそれが……生物哲学に反し、自然界の流れに抵抗することであったとしても。
私はコックピットを開き、救命キットと予備のエアーボンベをもってそのナイトメアまで暗穹を跳んだ。カーボン有線を引くことも忘れない。
暗穹に浮く。暗穹の静謐な虚無感を、ヴォイド・スーツ越しに感じる。
私は、地球で過ごした休暇中に、太平洋の真ん中で泳いだときのことを思い出した。泳ぐこと自体は子供用のプールであろうと浜辺近くであろうと変わりはない。そのはずなのに、サップスのガイドたちは、太平洋の真ん中で泳ぐことを嫌った。その理由は、海原の大波よりも、海神への恐れよりも、泳いでいる足下に数千メートルの「虚無」が存在する感覚に慣れないことのようだった。私のようなラグーナーは、常に暗穹の虚無を身近に感じ、虚無を恐怖しないことをそのとき実感したのだった。
むしろ、虚無感は心地よくさえあると、いつ気づいたのだろう。究極の孤独感と、肌に刺さる現実感。ヘルメットをあけさえすれば、暗穹と同化できるという甘美な誘惑。私がそのまま暗穹の一部となろうと、暗穹の巨大さはなんら変質せず虚無を維持する。暗穹は私さえ受容しつつその本質を変えない。究極の矛盾、至高の受容だ。
ナイトメアの獣皮が私を冷酷に受け止める。
そのソリッドな現実に、私は一瞬息を失う。
私はアンカー・グリップを無造作に擦り付けてターゲットに接着させる。十分に接着が強固であることを確かめた後、私自身をアンカーする。いつのころからだろう、こうした一連の動きを身体が覚えこんだのは。
「生存者いるか?」ヘルメットをナイトメアにくっつけて叫ぶ。同時にコックピットのあたりをボンベで強くたたいた。
「……ん。」息遣いが聞こえる。ああ、よかった。生きてる!
「怪我はない?どこか怪我している?」
苦しそうな声が聞こえてくる。「自分ではよく分からない。」
よかった、思ったより意識がはっきりしているようだ。
ハッチの外部には、目で見えるゆがみはない。
「ハッチあけるぞ。」
「……いや、ヘルメットが割れてるんだ。開けないでくれ……。」
これは困った。水素漏れも厄介だが、暗穹ではコクピットからの酸素漏れも相当厄介だ。
「エアはどれくらいもつかわかるか?」
「どこかにリークがあるのだろう。あと一時間というところか。」
一時間!判断がむつかしいところだ。しかし、私は決断した。
「わかった。今からハッチを開ける。目を閉じて息を止めろ!」
「ちょっと待て、空気がなくなる!」
「しばらくなら大丈夫だ!いくぞ!」
私は救助用のキーを使い、外部から強制的にナイトメアのハッチを開ける。ハッチの隙間から空気と一緒に、黒い血しぶきが私のヴォイド・スーツにかかる。気にせず、私はエアーボンベのバルブを開けながら、アンカーを解くと同時にコクピット内に足先から身体を押し込んだ。サディスティックな一拍を置き、ハッチを閉める。
「な、なんてヤツだ!殺す気か?」
狭いコクピット内がどうにかエアで満たされた後、彼は咳き込みながら何かを叫んだ。よかった。思ったより元気な声だ。
白色のケミカルライトバーを三本まとめて折ると、ようやく彼の姿が浮かび上がる。
両脚がひしゃげた操縦具で押しつぶされている。はさまっているので動けないようだ。左腕は上腕部で骨折している様子。腹部に刺し傷。出血もひどいし、これは心配だな。ヘルメットの前面は派手に割れ、顔も血だらけ。でも顔の傷は浅そうだ。動く右手で、とりあえずモルヒネだけは撃ったようだ。それでも痛みは相当だろう。
触れた様子では、脚も骨折しているようだ。でも、これはどうにかなる。私は救命用具から止血密閉テープを取り出して、ヴォイド・スーツの上から脚に巻く。さて、本命の腹部の傷を見ましょうか……。
「すまないけど、解毒剤と痛み止めを打つためにも、あなたの怪我の様子を見ないといけない。痛いと思うけど、少しだけ耐えて。」
私は返事も聞かず、トライボラックスを彼の腹部と両足に情け容赦なく貼る。
「むっ……!」私の強引さに諦めをつけたのだろうか、彼は傷に触れられても痛いとさわがない。それはやりやすい。狭いコクピットの中で大声でわめかれることは、私を心底暗い気持ちにさせるから。
そして、びりりとトライボラックスを剥がす。一息に。この合法的かつ合理的でありつつサディスティックな一連の行動に、半ば本能的な快感が身体を襲い、私はそれに身を震わす。
……とにかく、X線フィルムの現像が終わるまではしばらくかかる。
私はヘルメットをはずし、上半身のヴォイド・スーツを脱いだ。ヘルメットのアクリル越しに、分厚い手袋をした両手でデリケートな作業ができるわけがない。コックピット内の冷たく乾いた空気に、のどがぴりぴりする。
加湿のため、純水をスプレーする。
「あ、あんたの黒髪きれいだね……。」
「そう?」
私はパウダー・フリーの薄いシリコン手袋をして、彼の手当てにかかる。表示を見ると、彼は連合海軍第六艦隊八七三独立部隊のアーウィン・ブレデリク少尉らしいと分かった。チェコ系って訳ね。
「ちょっと痛いかもしれないけど、しばらくだけだから我慢するのよ、アーウィン!」
私が母艦への簡単な連絡とコックピットの応急シール処理を済ませてしばらくたった。
デシドクラ入りの人工血液とステイボップ、ヘロモフィンの点滴が効いてきたのだろう。彼の顔色が良くなってきた。それでも予断は許さない。母艦からの救助艇が到着するまでは安心はできない。
とはいえ、少しは息をつける。
「ああ、礼を言うのを忘れてた。」彼はふと話しはじめた。「ありがとう。」
「仕事だからさ。」
「あんたらの敬礼って、こんな感じだっけ。」彼は右手を左胸に当てる。苦しそうに、中指と薬指を残して指を開こうとする。「VVLって言うんだろ、これ?どういう意味だっけ?」
慣れない人には、連盟軍の敬礼は少し難しい。
「いいって、無理しなくてさ。ウェーリタース・ウォース・リーベラビト……糞か味噌かはっきりさせれば、気分すっきりってことよ。」
「何であんたらって、いまさらラテン語を使うんだ?」
「知らないわ。気まぐれなラテン語なんてくそ食らえよ。」
「あんたら、非科学的なはずなんだろ?」
「あなたの思うほど非科学的ではないんじゃないかしら。」
間。
「彼は助かったか?」
「彼?」
「俺の敵、あんたの味方。俺が剣を刺したアヴェルサの、俺と同じバランサー。女性かも知れないけどさ。」
「大丈夫。心配ないわ。」
しまった。あまりに間を置かずに応えてしまった。それ以上の質問をしないでほしいと私が望んでいることに、彼は気づくだろうか。
彼は大きく息をつく。
「俺たちがライフルを抱えて飛びまわっているときに、あんたらは包帯を抱えて飛びまわっている。」彼の茶色の目は私を正面からとらえ始めた。「怖くはないのかい?」
今度は、私が大きな息をつく。
「あなたがライフルを撃ちまくることで怖さが減るのなら、私も包帯を巻きまくることで怖さが減るのよ。」どちらもただの依存。恐ろしさを忘れようとしているだけ。
「そういうわけには……。」
私は手で彼の言葉を制する。
APRNはいいことばっかりをしているんじゃない。汚い仕事や嫌な仕事だってしないといけない。戦争なんだから。今は悪いことを思い出したくはない気分。ただでさえ昨日からの海戦は悪夢だと言うのに。少なくとも今は、開戦当初の悪夢を思い出したくはない……私は頭を一回軽く振って、雑念を追いやる。
「もう黙って。今、あなたの顔を拭いてあげるから。」
私は彼の顔をきれいな布で拭いた。
「ちょっとは気持ちいいかしら?」
「ああ、ずっと楽になった。このまま天に登りそうだよ。」
「ちょっと大丈夫?」私は薬剤の量を点検した。彼が意識を保てるように私は薬剤量を減らしていたはずだけどな。点滴袋のガス圧も正常。
「ああ、ものの例えだってば。」彼は陰気に笑った。「それにしても、あんたがヘルメット取ってスーツを脱いだとき、俺は死んだかと思ったよ。」
「なにそれ?」
「あんたが悪魔に思えてさ。」彼は痛さに顔をしかめた。
「何を調子のいい事を言っているのさ。」私はシリコン手袋を脱ぎ、キャップをつけた使用済みのプリフィルド・シリンジという先客のいるごみ袋に入れる。「死ぬのはまだ早いよ。」
「あんた、悪魔じゃないなら、ロッカーだろ?」
「ロッカー?」ロックは私の趣味じゃない。この男は、どこからそんなことを思いつくんだ?
私はそのとき初めてアーウィンを人として眺めた。華奢だけど、筋肉質。茶色い髪。皮肉な笑いを浮かべた唇。無精ひげ。神経質そうな眼は、ケミカルライトの不自然な光で濡れたように輝く。戦争なんてしていなかったら、案外いい男だったかもしれない。そして赤く生暖かい血。
正直な話、それまでの間、アーウィンは仕事のただの対象物で、私にとっては人ではなかったのだ。いけないいけない。私はいつもの没頭モードに入りかけていたのだ。没頭モードでは仕事をたくさんこなすことができるが、それはあまりいいことではない。人の身体を救うことはできても、必ずしも心を救うことができないからだ。私は人間として、人間を救いたい。では、アーウィンは何を救ってほしい?何を欲している?私にはよく分からなかった。それをごまかすために、私は彼のほほを手の甲で触った。
「ベリーズの手って本当に冷たいんだな。」その言葉で、私は反射的に手を引っ込めた。なぜか罪悪感。
しかし、その手を彼のほほに戻すのもわざとらしい。
「悪かったわね。」私は小さく言った。「ロッカーって何よ?」
彼は私の思いを見透かしたようににやりと笑い、私の右手を指差した。
「別にロッカーだけがいれずみするんじゃないよ。」確かに私の右手には、連盟軍海兵隊特殊部隊のいれずみがある。私はその右手で彼の頭を優しくなでた。「しゃべんないでいいわ。休みなさいな。」
「じゃあ俺の痛みがまぎれるように、あんた、何か話をしておくれよ。」アーウィンはしつこく絡んでくる。
私は目立たないようにため息をついた。仕方ない。何か話をしよう。私の気もまぎれるかもしれない。
「私は、連盟軍APRNのリザ・リーよ。」階級章を見れば、私が中尉だってわかるはず。「アーウィン、何の話がいいかしら?」
彼は痛みに顔をしかめたままだったが、私の右手を気にしていた。いれずみが気になるのだろうか。
「じゃあこのいれずみの話をしてあげる。」
私がロッカーでも悪魔でも殺し屋でもなく、ましてや天使でもないとはっきりすれば、少しは安心するかしら?ベリーズもサップスと変わらない、ただの人間だと気づいてくれるだろうか。敵という役割を与えられているだけの、ただの女だと気づいてくれるだろうか。
私は話し始めた。はるか昔に思える開戦前の甘さを感じるほど苦い出来事を。
静寂。
アーウィンは目をつむって、静かに深く息をしている。
救命艇はまだ来ないが、彼は助かる。
私の回想は余分だったろうか?無意味なストーリーに聞こえるだろうが、得てして戦争のこぼれ話というのは無意味なものが多い……それはそうだろう。ホモ・ルーデンスの生物哲学がどう説こうとも、戦争自体が個人にとって無意味なのだから。あるいは、生物哲学の観点からも、そうといえるのだっただろうか?そもそも、個人という概念が戦争について無意味だったのだろうか?哲学の授業では、私はよい生徒ではなかった。
それにしても、ジェニファの抱擁と、セレンディピティでのジャズ、そして少尉と仲間たちと過ごした時間が私には大切な思い出になった。そしていれずみ。私はその後何度か少尉とデートをした。彼とはいい時間を過ごした。何でも話せる間柄だった。けんかもしたけれど、彼と私の別れを引き起こしたのは開戦だった。彼はその能力を買われて、レーベン変動前に設計・召喚・固着された超高性能デーモニクスを装備したフランス製ヴァンパイア「ラピュエール」のソロに選ばれたのだった。太陽からの中和粒子の影響を受けない闇の中で戦うヴァンパイアのライダーになることは、たとえソロでなくても戦士として名誉なことだ。彼のヴァンパイアとともに生きるという選択を責めるわけにはいかない。不思議なことがあるとすれば、今の私は少尉の名前を全く思い出せないということだ。
つまるところ、私はダンピールのバランサーで、彼はヴァンパイアのソロライダーだったということか。
どんなにすばらしいことでも、私にとっては戦争という忌むべきもののおまけでしかなかったということなのだろうか。そうだとしても、そもそも今の私に何か大事なものが残っているだろうか。
そのとき、アーウィンがポツリとこぼした。
「あんたの話で思い出してきた。俺、多分、あんたの事知っているよ。」
「そう?」今度は何を言い出すのだ?でも、私は少し安心した。彼が、私が話したくないことを聞かないでいてくれたからだ。私は次の言葉を待った。
「俺、開戦の二ヶ月前の四月にあんたの手に触れた。」
「……は?」
「アルビレオのアニルディン・デパートのエレベータの中でさ、俺もあんたも六階のボタンを押そうとして、俺、あんたの手に触ったよ。あんたのいれずみもその時見たんだ。」
アーウィンもアルビレオを訪れたことがあるのか!まあ観光で地球から来る人も、それを目当て来る人も少なくは無かったが。それにしても……
「……なぜかしら、私、それ覚えてるわ。」
私は眼を見開いた。何か重要なことと結びついているような気がしてきた!
「俺、あんたの顔も見たよ。とっても意志が強そうな黒い目と、生意気そうな口。俺、あんたはあのときのように髪長いほうが似合うと思うよ。」彼は身じろぎをした。「声をかけようか迷っているうちに六階についてさ。あんたは六階のボタンを押したのに、六階で降りなかったんだよ。やられたって思ったね。」
「……押し間違えたのよ。七階の靴を先に見に行きたくなってさ。」
「俺、実はショックだったんだ。あんたに避けられたのかと思って。」
「それはごめんなさいね。」
「その後、連れが教えてくれたんだ。あの竹と蛇のいれずみは、兵隊のものじゃないかってさ。俺にはそれは別にどうでも良かった。あんたがロッカーかどうかが心配だっただけ。そういう女は好みじゃないから。」
彼はちょっとだけうめく。痛みは時折襲ってくるのだろう。あなたにしゃべってはほしいけど、無理はしないでね。
「運命を感じたのはその後さ。俺、デパートでお袋への買い物を終えた後、セレンディピティに行ったんだ。」
私は息をのんだ。
「そうだわ、その日、私もセレンディピティに行ったわ。一緒に店内にいたかもしれないのね!私、一階のカジュアルエリアにいたよ。」
二階のカウンター席はステージの方へ張り出していて、眺めも音もとてもいい。さらにウェイターのフルサービス付きであることがありがたい。しかし、セレンディピティの演奏者は決して二階席に目を向けないのだ。たぶん権力や階級への反抗心からそういう習慣ができたのだろう。私はそれに気づいてからはずっと一階組を通していた。何より私が歯を向ける相手も権力なのだから。私の財布の都合もあったけれど。
彼もそうした人間であるとしたら……それはとてもうれしい。
「あなたも、一階にいた?」
「それどころか、俺、あんたの目の前で演奏してたよ。」
私はなんだか恐ろしくなってきた。まじまじと彼の顔を見つめた。
「暗かったから、はじめは目の前にいるのがあんただって気づかなかった。でも、あんたが、うちのバンドのピアノのまずさにいらいらしてテーブルをとんとんと指でたたいてたろ?」私はしぶしぶうなずく。「その手を見たら、あのいれずみがあるじゃない。俺、あんたがロッカーじゃないって知って安心したよ。」
彼は大きく深呼吸する。
「インターミッションでさ、あんたが立ち上がって、飛び入りだけどピアノ弾かせてくれって言ったじゃない。」確かにそうだった。「うちのバンドの連中はちょっとビックリしてただろ?俺は案外驚いてなかったんだ。」
「ああ、そうだったわ。」私も妙なことをしたものだ。
「あんた忘れてたのかい?」なんだか非難めいた声。でも、私も自分が信じられない。どうしてあの日を忘れるなんてことがあったのだろう?
「不思議だわ。今はこんなに明瞭に思い出せるのに、ずっと忘れてた。」
「ピアノを担当していたのは俺たちのバンドのレギュラーメンバーじゃなかったんだ。だから俺は皆に、彼女に一度ひいてもらおうって言ってみた。」
「そうそう、覚えている。」私は興奮してきた。「覚えている。ベースの人だった。あれ……あなた?」
彼はうなずく。
「ゼロ・グラビティ!」
「何だって?」
「……単純に考えればありそうとも言えるけど、厳密には存在しないものよ。まさか、ってことよ。」
「どんなに星から離れても、微小重力はあるということか?面白いな、その感覚を持つこと自体が無重力を感じさせるね。もっと好きになれそうだな。あんたのこと。」
私は驚きで体がぎくりとはねるのを抑えきれなかった。
私は大人げなくとにかく言葉をつなげた。
「あんなに太くて、安心感がありつつ挑戦的なベースを聞いたのはあれが初めてだったわ。」アーウィンは、スラップ・クラップ奏法のベーシストだった。
憎たらしいことに、アーウィンはそんなことは当然とばかりに鼻を鳴らした。
「俺、戦争前は地球の大学で音楽やってたんだ。結構いい線まで行ってたんだ。」声の調子は、不思議に淡々としている。でも、私はその声の中に押し殺した強い苛立ちを感じた。
「あんたがちょっとピアノを弾いたら他のメンバーも納得しただろ。俺は本当に嬉しかったよ。」
彼は身じろぎをする。
「あれは最高のセッションだったよ、俺にとっては。あんたがあんまりいい雰囲気出すもんだから、俺たちは目配せをしてあんたにソロの場面を用意した。あれはあんたへの一種の挑戦だったんだけどさ。でもそれが緊張感になって妥協のない引き締まったいいセッションになった。」
そうだった。私もそう思っていたのだった。あのセッション、あの暑苦しいむせ返るような空気、あの観客の微笑み。演奏が終わった後のあの爽快な疲れとあの高揚感、一体感。どうして私の心はそれを意識することを閉ざしていたのだろう?
「残念だったのは、帰りの船の時間が迫っていたこと。あんたにろくな挨拶もできずに帰っちゃったことかな。」苦しそうな咳。「俺、幾度も後悔したよ。あのとき、船の時間を遅らせるということを何で思いつかなかったんだって。船を遅らせると、大学の試験に間に合わなくなったろうけど、そんなことに構うべきじゃなかった。」
「私……その時、あなたに避けられたと思ったと思う。」
「じゃあお互い様かい?エレベータの時と合わせてさ。」アーウィンは口元をゆがめて笑う。
「私、なんで忘れてたんだろ。あのセッション、本当に最高だったわ。あれこそ私の求めていた自由だった。生きているって感じしたもの!」
私の心があれほど束縛から解き放たれて、ピアノを通じて発散できたのはあの時が初めてだった。そしてそれを大切にしてくれるほかのバンドのメンバー。自分勝手な私をよくも許容してくれたものだ。私は心の中で深く感謝した。
「ねえ、リザ。今度はお互い帰営ラッパが鳴っても大事なことを忘れないようにしよう。」帰営ラッパねえ。私は、自分の口元が思わず緩んだ。そういうセンス、嫌いじゃないな。
「俺、あんたとジャズやりたいよ。あんたのピアノと合わせたいよ。」
「アーウィン。それは私の思いと同じ。」
彼は微笑んでうなずいた。私はうれしくなった。
「私、地球に行ってみたいな。ジャズやるならさ。もちろん私の腕で簡単に通用するなんて思ってないけど、本場の音や雰囲気を知りたいの。」
「俺は月でもはやるような音を作りたいな。ムーンジャズって言うのかい、あれ。」
「ムーンジャズって、ドラムを使わないのよ。ベースがドラムの代わり。そして旋律にあわせて、体をくねらせて踊るの。低重力でも踊れるようにね。」
「へえ。」彼は、好奇心に満ちた美しい目を見開く。
私は、ゆっくりと言った。
「ピアノも、使わないのよ。」
「あんたのピアノは入れようぜ。それでムーンジャズじゃなくなるって言うなら、ラグーンジャズって呼んだっていい。」
「そういう性的なスラングがすでにあるのよね。」
「じゃあ、地球寄りってことで、アースサイド・ムーンジャズってのはどうだい。俺、インスピレーション沸いてきたよ。」
アーウィンは地球寄りと言うけど、アースサイドという呼び名は月文化圏での呼び名。地球ではニアサイドというわけだから、地理的には地球に近いけど、感情的には月そのものに近いといえるかも。ムーンジャズを地球寄りにするためにピアノを参加させ、それでいてそのピアノを弾くのは私というラグーナーということになるのなら、それもまた奇妙でおもしろい。ホモ・サピエンスとホモ・アミカスの作る新しいジャズとして、案外ふさわしい名前かもしれない。
「いいと思うわ。なんだかますます興奮してきたわ、私も。」
「いいね、ニューヨークに来たらどうだい?俺、そこが本場だって今でも信じてる。なくなってなければ俺のアパートもそこにまだある。」
「アーウィン、それって私へのジョブ・オファー?それとも何?」
「なんでもいいだろ。あんた、日系なんだろ?ニューヨークにはおいしい日本料理のカフェだってある。あの、靴を脱いであがる、イザカヤってやつ。暗穹よりホームを感じられるかもしれないぜ。ニューヨークに来たらどうだい?」
私は大笑いした。
「あなたって、アジア系の区別が全然つかないの?あなた、ホントにニューヨークから来たの?」
馬鹿な話だが、頬が痛くなってきた。普段使っていない筋肉を使ったのだろう、そうだ、私はここしばらく全然笑っていなかった自分に気づいた。その自分が、ジャズについて考えている今、こんなに楽しい気分になっている。それは新鮮な発見だった。私は何をしたかったんだろう?何が私を変えた?アーウィンも微笑んでいる。ただただいつも笑っていることができたら、全てを諦めてもいいかも。
なんて甘美な誘惑!
突然、耳につけたままのイヤフォンが鳴る。私は動物的に驚いて飛び上がった。
私は現実に急に引き戻された。私たちは戦争中なのだった。放射線検知鬼ががりがりと無気味な音を発し、血圧モニターが不自然な点滅を繰り返している。なんだかいらいらする。無性に腹が立つ。戦争と軍のせいで、私は白昼夢を見ることさえ許されないのか。
私の様子を見て通信が入ったことに気づいたのだろう。アーウィンは応答を促す。
「分かっているわよ。」我ながら色気のないぶっきらぼうな声だ。
リモートコントローラーを使って白色発光信号をあげる。間を入れず、連絡が入る。
「バードケイジより、フリントヘッド3。リザ、戦争が終わったよ。停戦だよ。」艦長の放心したような声。
……テイセン?その言葉が私に染み入る前に、母艦からさらにレーザー通信が入った。
「バードケイジより、フリントヘッド全機へ。地球連合軍とわが月連盟軍は即時停戦に入った。各員、救出活動を終了した後に原隊へ復帰しろ。損傷が激しいもの、重傷者を抱えるものなどは連合軍に接触してもかまわない。連合軍の詳しい情報は入り次第、追って伝える。以上!」
停戦?戦闘が終結したと言うこと?
なんだか月のうさぎに化かされたような思いで、私はイヤフォンを頭からはずした。思わず、髪の毛をかきあげる。
「なんだって?聞いていいなら聞かせておくれよ。」アーウィンには今の通信は聞こえていない。「救命艇が遅れているのかい?」
急な状況の変化に、私は身震いを覚え、めまいがしてきた。戦争って終わるものだったのか。
目をつぶって、二度頭を振る。ちょっとは落ち着いてきた。自分のいれずみに目が落ちる。まじまじといれずみを見つめる。私がこのいれずみをここまで観察したのは初めてかもしれない。こみ上げてくる笑みをこらえられない。この蛇ってちょっと目がやさしすぎる。
「帰営ラッパだったけど、言ってみるとあなたと私の心の帰営ラッパね。甘美な誘惑に身をゆだねていいってことよ。」
ああ、私こそが、虚無ごときに心惑わされた、迷い子だったのだ。ラッパの音で宿舎に帰るのだ。
いぶかしむアーウィンの顔を見ながら、私は思わず笑った。それはぎこちなく見えたことだろう。
ああ、これでアーウィンは助かる。彼の心配するアヴァルサのバランサーについても、ジェリーの回収ができるだろう。遺体さえ回収できるかもしれない。私はため息をついた。
彼は依然として疑念の目を私に向けている。無邪気な彼に対する優位性を楽しむのもここまでにしよう。
「もう戦争しなくていいってさ。戦争のことに気を回すんではなくて、本当にしたいことをしていいってことよ。」
アーウィンは目を閉じ、ゆっくりと開く。一回の瞬きが、これほど目の輝きを変えるなんて事があるんだろうか。なんだか根源的な喜びを感じる。
「さしあたっては、ギターリストを探すことからはじめるかな。」
アーウィンは朗らかに言った。
「俺、ボーカルにぴったりの女は知ってるんだ。ピアニストは誰にしようかな?」
私は思わず吹き出した。
「誰がピアノを弾くにふさわしいか思い出すために、あなたはもう一回怪我をしないといけないってわけ?遠慮なく撃つわよ?」
私は左手をピストルの形にして、その人差し指で彼の腹をつつく真似をする。
彼は不思議な声を上げて、降参する。
虚無の抱擁よりも甘美なものに、私はようやくたどり着いた。
デン・ハーグ・ラグーン 二/二三/二〇九九
あともう何作かあるので、お楽しみいただけるなら幸いです。