第二百二十六話「ごめんなさい」
朝霞の銃口が、林太郎を狙う。
パァン!
銃弾が発射されるのと同時に、林太郎は走った。
しかしデスグリーンスーツの性能により肉眼では追えないその動きさえも、朝霞の目には数秒先の未来としてはっきりと見えていた。
「ぎっ……!」
デスグリーンスーツの肩口から鮮血が飛び散る。
「アニキィ!!」
「こんなのかすり傷だ! アニキを信じろサメっち!」
林太郎は転がるように剣を拾うとがむしゃらに振り回した。
だがやはり、その攻撃は朝霞に当たることなく床や壁を傷つけるだけだ。
「何をやっても無駄だということが、何故わからないのですか」
「やってみなきゃわかんねえだろうが!」
朝霞の目には、まるで意味のない悪あがきを繰り返すデスグリーンの姿が滑稽にうつっていた。
長らくヒーロー本部を苦しめ続けてきた男が、いいように翻弄されているではないか。
「何度やっても同じです。どれだけ立派な講釈を垂れても結局、お前の牙は私に届かないんですよ」
林太郎の攻撃を避けながら、朝霞はその腹に重い蹴りを叩きこむ。
「ぐっは……っ!」
「私は、間違ってないんかいない!」
「はっ……まだそんなこと言ってやがるのか、お姉ちゃんよお」
カウンター狙いで放たれた林太郎の斬撃は、朝霞をかすめて壁を切り裂くだけだ。
たしかに、見えない斬撃や未来視といった朝霞の能力を、初見で見破ったことは驚愕に値する。
しかし林太郎がどれほど剣を振り回そうが、数秒先の未来を見通す朝霞の目に通用するはずがない。
そんなことわかっているだろうに、それでも林太郎は攻撃をやめようとしない。
まさに、無駄な抵抗だ。
「ははっ、マジで当たらねえ……そんなに嫌ってくれるなよなあ、ショックだぜ俺は」
「口では偉そうなことをさんざん言っておきながら……お前みたいな男が、私は一番嫌いです」
朝霞は苛立ちとともに銃を構える。
パァン! パァン!
「ぐあああッ!!」
連続で放たれた銃弾は、容赦なく林太郎の両脚に命中した。
もはや走って剣を振るうことはおろか、立っていることすらできなくなった緑の体がモニタールームの床を転がる。
「あ、アニキぃぃぃ~~!!」
「ぐっ、ぐぬぬぬぬぬ……くそっ、いってぇ……!」
地面に這いつくばる林太郎に、すぐさまサメっちが駆け寄る。
さすがのデスグリーンも、まともに起き上がれないようだ。
「私にはお前の行動がまったく理解できません。なぜこれほどの力量差があるのに、お前は私に指図できるのですか? ただの一撃も浴びせられないお前が」
朝霞は銃に弾を込め直しながら、ゆっくりとふたりに近づく。
「ああ……まったくだ……。正直やりにくいったりゃありゃしねえよ……。未来が見えるなんざバランスブレイカーもいいところだ……だけどな」
極悪怪人デスグリーン、憎むべき宿敵がほくそ笑むように呟く。
「けどあんた、未来が見えるのは、自分だけだと思い上がっちゃいないか?」
「は? なにを……?」
林太郎の声は、あの下卑たいやらしさを完全にを取り戻していた。
朝霞の頭に疑問符が浮かぶ。
怪人ならばいざ知らず、朝霞が知る栗山林太郎は何の能力も持たないただの人間だ。
まさかデスグリーンも自分と同じ未来視が使えるというのか。
いいや、そんなはずはない。
「ハッタリです。もっとマシな命乞いをしやがれください」
朝霞はそう吐き捨てると、銃を構え直し一歩踏み出した。
ピシッ……。
床に体重をかけたその瞬間。
デスグリーンのでたらめな斬撃でボロボロにされた、部屋全体に亀裂が走る。
「なっ……こ、これは……!?」
朝霞は周囲を見渡し、そこでようやく気づいた。
林太郎はけして、むやみやたらに剣を振るっていたわけではないと。
床、壁、天井。
モニタールーム内を埋め尽くすがごとく、縦横無尽に刻まれた深い斬撃痕。
そのすべての亀裂が、朝霞の足元に集約している。
「まさか……これは……、こんな……」
「数秒先の攻撃は見えても、数分先の攻撃までは予測できなかったみてえだな」
でたらめに見えた林太郎の斬撃は、的確に構造物を破壊していた。
いまやこの部屋自体が、ギリギリの均衡を保っているのだ。
それこそ、朝霞が踏み出すたったの一歩で、崩落してしまうほどに。
「未来ってのは見るもんじゃねえ。作り出すもんだ。勉強になったかい、お姉ちゃん」
「くっ……!」
もし床板が抜けようものなら、その下に広がっているのは闇の色を湛えた大海だ。
生身で戦っている朝霞にとって、それは詰みであることを意味していた。
「お姉ちゃん……」
もはや一歩も動けなくなってしまった朝霞に。
林太郎の腕に抱かれたサメっちが。
朝霞のたったひとりの妹が声をかける。
「さ、冴夜……」
「……お姉ちゃん、ごめんッス」
朝霞の目が、大きく見開かれる。
姉妹喧嘩に終止符を打つその言葉は、10歳以上も歳のはなれた幼い妹の口から発せられた。
「ひどいこと言ってごめんッス……」
言葉をひとつ発するごとに、妹の大きな目から涙がこぼれ落ちる。
「“ぜつえんじょう”つきつけてごめんッス……」
涙が、どんな言葉よりも深く、姉の心の氷壁に突き刺さる。
「お姉ちゃんの恥ずかしい秘密ばらしてごめんッス。お姉ちゃんのお気に入りのマグカップ割っちゃってごめんッス。トイレの電気消さなくてごめんッス。あと、あと……」
今にもすべてが崩れ去りそうな、張り詰めた緊張感の中で。
ひっくひっくとしゃくりあげるような、あらい呼吸が伝わってくる。
「怪人になっちゃってごめんなさいッス」
心の奥底に突き立った真っ黒な杭を中心に。
けして溶けることのなかった氷の壁に亀裂が入る。
言わなければ。
お姉ちゃんのほうこそ、ごめんなさいと。
伝えなければ。
つまらない意地を張って、ごめんなさいと。
謝らなければ。
「……ごめん、なさい……私は……」
心の奥に居座った、大きな氷壁が砕け散るのと同時に。
亀裂が限界に達し、部屋全体が崩れ落ちた。
崩れる床、崩れる壁、崩れる天井。
林太郎とサメっちがいる一角だけを残し。
洋上プラットフォームのモニタールームがガラガラと崩れていく。
その下に広がるのは無数の鉄骨群……そして、深い深い、海だ。
支えを失った生身の体が、浮遊感に包まれる。
「冴夜……っ!!」
「お姉ちゃあああああん!!」
鮫島朝霞の体は、妹の視界からみるみるうちに小さくなり。
暗い海面へと吸い込まれていった。
…………。
どうしてこうなった。
どこでなにを間違えた。
海面へと落下しながら、鮫島朝霞は考えを巡らせる。
10年前、ヒーローの道を進むことを決めたときだろうか。
8年前、はじめて妹と出会ったときだろうか。
3年前、妹が目の前で怪人覚醒してしまったときだろうか。
半年前、妹の隣にあの男が現れたときだろうか。
きっとそのどれもが正解で、どれもが間違っていた。
そして、間違えたのは、私だ。
優柔不断なくせに、意固地で。
目の前にあった分かれ道を、全部間違えた。
だけど妹は。
そんな姉に「ごめんなさい」と言った。
間違ってしまった者を救う言葉を。
あるべき道へと導く言葉を。
姉に似て、頑固で、意固地で、臆病な妹が。
涙を目いっぱいに浮かべながら。
だからだろうか。
こうも涙があふれ出てくるのは。
怪人覚醒によってふたり分かたれたあの日以来。
閉ざされ続けていた心の氷は、もう砕け散った。
「ごめんなさい、冴夜。お姉ちゃんのほうこそ、ごめんなさい」
氷の底から顔を出したのは、ただその一言だった。
「ごめんなさい……。ごめんなさい……ごめんなさい……」
重力に引かれ、海面がすぐそこまで迫る中。
朝霞は何度も何度も同じ言葉を繰り返した。
永久凍土の下で眠り続けていた、ずっと言えなかった言葉を。
もう数秒もしないうちに、朝霞の体は冷たい海に叩きつけられる。
およそ60メートルの落下。
受け身も取らずに落ちようものなら、命の保証はない。
朝霞は静かに目を閉じた。
それが自分にできる、最後の贖罪だと思ったから。
「バァァァーーーーーーニングヒートダァァァァーーーーーッシュ!!!!!!」
朝霞の体が海面に触れるその瞬間。
隕石のような赤い光が、彼女を抱きしめた。





