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第百九十話「もうひとつの秘密」

『てへへーッ! 勘違いだったよゴメンネェーーーッ!』


 そうお互い口にできたなら、どれほど気が楽になったことだろうか。



 当然そのようなこともなく。


 薄暗い部屋、大きなベッドの上に寝転がる男女。

 お互いに背中を向けあったまま、彼らの間には気まずい空気が流れていた。


 ベッドから抜け出すタイミングを完全に逸したふたりに、シチュエーションからもたらされる甘ったるい緊張感だけがのしかかる。


「…………」

「…………」


 経緯はどうあれ、若い男女がホテルの一室で(ねや)を共にしていることに変わりはない。

 もはやなにも起こらないほうが異常事態である。


 もちろんふたりは性欲を欠片も持ち合わせない聖人君子でもなければ、出家して世俗を捨てたわけでもない。

 だが互いに進むことも退くとこもできず、めくるめくラブロマンスの袋小路で完全に立ち往生していた。



 沈黙に耐え兼ねた湊は、音もなく濡れた唇を開いた。

 ひとつのベッドをシェアするこの状況に、彼女のノミの心臓は耐久限界をとっくに超えている。



「「なあ」」



 意を決して放った声が、綺麗に重なった。

 頭にドッと熱い血が巡り、脳がオーバーヒートして思考が停止する。


 背を向けていて本当によかったと、湊は思う。

 目を合わせていれば耐え切れずに気を失っていたことだろう。


 二の句を次げず役割を失った唇は、金魚のようにパクパクと空気を食んだ。


「あ、あのっ……その……」


 極限に達した緊張に締めつけられ、湊の口から意味のない言葉が漏れる。

 なにか声を出していないと言語中枢のみならず、呼吸さえも止まってしまいそうだった。


 湊は真っ赤な顔を枕に埋め、蚊の鳴くような声でようやく言葉を口にした。


「そ、その、林太郎。サメっちを、責めないでやってくれよ……。私の言葉が足りなかったのがいけないんだ……」


 ほとんど聞こえないほどの小さな声だったが、林太郎には確かに届いたらしい。


 湊の背後でかすかに、シーツを擦る音がした。

 ひょっとしたらまだ泣いていたのかもしれない。



 数秒の間を置いたのち、林太郎は静かに返した。


「……わかってる、今回は完全に俺の早とちりだ。謝らなきゃいけないのはこっちだよ」


 林太郎の言葉には、いつものような小(ずる)い皮肉や、ねちっこい覇気はない。

 まるで繊細なガラス細工を扱うように、これ以上湊を傷つけまいと慎重に言葉を選んでいた。


「ここまで来ておいて言うのも卑怯だけど、悪かったと思ってる。……迷惑だったろう?」

「迷惑なんてことは、ないさ。けれど、私はてっきり……ここで始末されるものかと思っていた」

「なんでいきなりそこまで話が飛ぶかな。俺は湊に危害を加えるつもりなんてこれっぽっちもないぞ。……まあたしかに、未遂まではいったけどさ」

「それは……驚いたけど」


 湊の唇に薄っすらと笑みが浮かぶ。

 微笑みというよりは、苦笑いといったほうが正しいのかもしれない。



 気持ちだけでいい。


 なんて言葉が、いったいなにをどうしたら同衾(どうきん)しましょうなどという話になるのか。


 死んだ目で静かに涙を流す林太郎から、湊は約2時間にわたって事の顛末を聞かされたわけだが。

 湊は頑張って愛想笑いを繕ってはいたものの、目は笑えていなかったように思う。


 泣きながら業務用12ダース144個入り大人用ゴム製品の箱を見せられたときなどは、赤面を通り越して鼻で笑ってしまったほどだ。


 それほどまでに、バカらしかった。




 バカらしかったのだ。


 林太郎を疑い、恐れていた、自分自身が。



 結局のところ、栗山林太郎という男はどうしようもないほどに。


 本気の誠意と覚悟をもって、湊に接してくれていたのだった。



 湊にとってはそれが、なによりも嬉しかった。



「なあ、林太郎。少しだけ、私の話も聞いてくれないか」

「もちろん、罵られる準備はできてるぞ。さあーこい! スケコマシでも女の敵でも、なんとでもコキおろすがいいさ」

「あ、いや、そうじゃなくてな……」



 唇が微笑んだ(・・・・)



 ふたりの間にあるのは“湊と林太郎”の関係である。

 そこには怪人も人間もありはしない。


 林太郎というひとりの男を信じることに、もう迷いはなかった。




 湊は自分が知ってしまった“秘密”のこと。

 秘密を知った自分は消されると思い込んでいたこと。


 起こったことすべてをありのままに伝えた。



 林太郎は湊の言葉のひとつひとつを、けして取りこぼすまいと。

 彼女の心を苛んだ苦悩を欠片も残すまいと、黙って背中で受け止めた。



「私にも謝らせてほしい。勝手に秘密を探って、本当にすまなかった」


 それが偽りのない、ようやく口にすることができた彼女自身の言葉であった。


 その事実がどれほどのショックを林太郎に与え、どれほどの意味を持つのかは湊にはわからない。


 だから待った、林太郎の返事を。

 待つことはもう、怖くなかった。



 秒針が半周、一周と回ったころ、ようやく林太郎が口を開く。



「……それじゃあ、今日のことも“秘密”に加えておかなきゃな。俺の名誉のためにも」

「それはもう手遅れなんじゃないかな」

「………………ふっ」

「………………ははっ」



 少しの沈黙のあと、どちらからともなく笑みがこぼれた。



 思い返せばなんとしょうもないことで大騒ぎしていたのか。

 その結果がふたりして、高級ホテルの大きなベッドで寝転がってなにもしないときたものだ。


 可笑しいといったらありゃしない。



 ひとしきり笑い転げると、湊は目尻に浮かんだ涙をぬぐって尋ねた。


「じゃあ()らないのか?」

()らないって! いやその、ある意味ヤろうとはしてたんだけれども!」

「ははっ、バカだなあ。林太郎らしいというか、らしくないというか」

「らしくないってのは自覚してるけど、俺らしいってのは聞き捨てならないなあ」


 林太郎は抗議しようと体をよじる。


「バカなりに紳士的だったんだから今回のはノーカンだ……っ!」

「……っ!?」


 お互いに寝転がったタイミングがまったく同じだったせいで、思いがけず目が合った。

 笑い合って軽口を叩き合うような、和やかな空気が一変する。



「お……悪い……」



 その一言を発することが、林太郎にとっての精いっぱいであった。



 林太郎のすぐ目と鼻の先、ほんの十数センチという至近距離に。

 あの涼しげな眼が、みるみるうちに紅潮していく頬が、濡れた無防備な唇がいる。



 シャンプーの甘くて優しい香りが、林太郎の鼻腔をくすぐった。

 林太郎も同じものを使ったはずなのに、どうしてこうも“女の子の香り”がするのだろうか。




「林太郎」




 名前を呼ばれた、夏の日差しを浴びた風鈴のように美しい声で。


 目も、鼻も、耳も、全て奪われた。






「もうひとつだけ、秘密つくる?」






 気づいたときには、林太郎は湊の頭に手を回し自分の胸に抱いていた。

 こうすれば己の“らしくない顔”を見られることはないと、邪悪な頭脳が導き出したからだ。



 だがすぐにそれが過ちであったと気づく。



 林太郎の心臓の高鳴りは、もはやひた隠せるほどのものではない。


 そのけして治まることのない脈動はいま、湊を包み込んでいた。

 他ならぬ林太郎の手によって。



 ドクンドクンと脈打つ血潮を“感じられてしまう”というのは。

 ともすれば林太郎にとって顔を見られるよりも、ずっと恥ずかしいのであった。




「……今度こそ本当に、未遂じゃ済まないぞ」



 もはや勘違いが介在する余地はない。


 湊の頭が小さく頷いたのが、林太郎の胸板から、手のひらから伝わってくる。


 視覚、嗅覚、聴覚に加えて、ついに触覚まで。

 人の持ちたるたった5つしかない感覚の、ゆうに4つまでもが今ひとりの女性に向けられている。




 最後のひとつは――



 ――当然、『味』ということになる。




 林太郎の喉がゴクリと鳴った。






 ……………………。




「いけるぞ! いけーっ! 今こそ男になるのだ栗山林太郎!」

「全てはこの時のためであろう! いったいなにをぐずぐずしているのだ!」

「勝った……勝ち申した! この戦、我らの勝ちぞーッ!」

「ふふ、来年の今ごろにはパパになっているかもしれませんな」


 荒涼たる更地と化した脳内議場に、全身を包帯で巻かれた小さな軍師林太郎たちがぞろぞろとゾンビのように集まってくる。


 林太郎の瞳には、目をぎゅっと瞑った湊が映っていた。

 桜色の柔らかそうな唇が、逃げも隠れもすることなく林太郎を待っている。


 折り畳みテーブルとパイプ椅子で仮設された脳内空間は、すでに戦勝ムードであった。

 もはや勝利は決まったも同然、“味わい尽くす”のも時間の問題である。



「あいや待たれぇーーーーーいッッッ!!」



 そんなたるみきった空気を斬り裂くように、一喝が轟く。


 ヒヒィンという馬のいななきとともに、(ひづめ)の音がパカラパカラと大地を駆ける。

 七支刀を振りかざし、白馬に跨るその影を目にした軍師たちは、驚きに目を見開いた。


「あなたは! 軍神・上杉林太郎殿!!」

「いかにも、我は毘沙門天(びしゃもんてん)の化身なり。義によって推参(つかまつ)った」


 軍神と呼ばれた男は軍師たちの頭をぺしぺし叩くと、指をさして叫んだ。


「攻めるべきは正面の敵のみにあらず! ご覧あれ……もうちょっと下のほう! はいそこォ! 見よや、あの峻険(しゅんけん)たるふたつの山城を!」


 林太郎の視線がすすすと下にズレる。

 するとなんということか。


 軍神・上杉林太郎の言う通り、薄いバスローブの襟元から比喩ではなく大きなふたつの山が、そしてその間の深い峡谷が見えるではないか。


 これには呑気していた軍師たちも下唇を噛み大地を叩いた。


「盲点であったッ……! なにも正面からぶつかり合うだけが戦ではござらんかったッ……!」

「攻めたい……ッ! それがしそっちの城も攻めとうござりまする……ッ!」

「しばし待たれい上杉林太郎殿! 奇襲をかけるは上策なれど、正面の敵をおざなりにするわけにもまいりますまい! これでは攻め手が足りませぬ!」


 そう、いくらふたつの山城を攻め味わいたくとも、人間の舌はひとつしかないのだ。

 林太郎を待ち焦がれる正面の敵(くちびる)も含め、ひとりで同時に3か所を攻めることはできないのだ。


「くっ……宝の山を前にして、なんと口惜しい……! キン●ギドラになりたい……!」


 万策は尽きたかと思われた――しかし。

 悔しがる軍師たちに勝利の道を示すのは、軍神のつとめに他ならない。


 川中島の合戦を彷彿させる軍神の名乗りが、脳内の荒野に響き渡る。


「やあやあ我こそは越後の龍、上杉林太郎なり! 遠き者は音に聞け、近き者は目にも見よ! これなるは毘沙門天が戦の奥義、いざご覧じ候へ!」


 軍神・上杉林太郎先生は白馬から飛び降りるなり、腰を落としてまるで相撲の稽古のような構えを見せた。


 そして顔、右手、左手の3点を交互に移動するように頭で円を描き始めたではないか。

 その動きは茹でられて苦しむタコか、あるいは音に反応して動くおもちゃを彷彿させる。


 正面から見れば顔が円を描くこの構えこそ、まさにかの有名な“車懸かりの陣”であった。


「攻め口が三つあるならば、かように3か所を順に攻め立てればよいのだ!」

「「「まったくもってその通りだ!!」」」


 さすがは毘沙門天の化身、さすがは車懸かりの陣である。

 軍師たちは軍神を真似て腰を深く落とし、手をわきわきとうごめかし、舌をぺろぺろしながら頭で円を描く。


「唇も! 右も! 左も! 味わい尽くすのだ! 我に続けーーーッ!」

「「「うおおおおおッ!! ぺろぺろーーーッ!!」」」

「ビシャビシャなモンモンにテンテンするのだーーーーーッ!!」

「「「ひゃっほぉーーーーーいッッッ!!」」」


 毘沙門天が聞いたらズタ袋になるまでグーで殴られそうな(とき)の声を上げる上杉林太郎先生。

 かの軍神を筆頭に、脳内の小さな軍師たちは頭で円を描きながら一列に突き進む。


 それはまさに林太郎の不退転の決意を示す性欲の超特急、舌技(チュウチュウ)列車(トレイン)であった。




「い、いくぞ湊……、本当にやるぞ……! ぺろりッ!」


 軍神の動きを完全にトレースした林太郎は、頭で円を描きながら湊に迫る。

 それに相対する湊はまぶたを閉じて林太郎のロマンチックなアプローチを待っているため、そんな異常事態には一向に気づかない。


 よしんば目にしたとすれば悲鳴をあげるか、(エネミー)と認識するか、あるいは両方だろう。



「はぁ……はぁ……! ぺろッ、ぺろろッ!」



 林太郎がわきわきと気色悪い動きをする指先で、その“山城”に攻めかかろうとしたまさにその瞬間――。





 ジリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリリ!!!!!!!!




 けたたましい警報音が、ホテル中に響き渡った。


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表紙
― 新着の感想 ―
[一言] ヤってしまっても良いのよ! 最悪朝チュンでも可
[一言] うん。 通勤中に見るのは危険だった 危うく笑ってしまうとこでした。 もっとデスグリーン評価伸びてもいいのになー
[一言] 脳内会議が始まった時点で察しましたとさ・・・(´・ω・`)
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