第百四十五話「ひの」
今からおよそ240年前。
天明7年、暮れ。
京の都に住む人々の心は荒み切っていた。
数年前から続く飢饉の影響で、民は慢性的に飢えていたのだ。
そんな折、とある米問屋の蔵から火の手が上がった。
冬の風のいたずらか、それとも高騰し続ける米を狙った賊の仕業か。
いずれにせよ、ただでさえ貴重な米が蔵ごと灰になったとの噂は、数年にわたりひもじい生活に耐え忍んできた京の住民の理性にとどめを刺した。
この問題を放置すれば、暴徒と化した民衆による治安の悪化は免れない。
危機的状況に陥った京所司代、ならびに京町奉行所はとある決断を下す。
「事件当夜、このあたりをうろついていた娘がおる。その者を火付けの下手人として引っ立てい」
捕らえられたのは、“ひの”という下女であった。
もちろん彼女が放火犯であるという証拠はどこにもない。
いわば民衆のガスを抜くためのパフォーマンスでしかなかった。
しかし今や爆発寸前である民衆の怒りの矛先を、おさめる鞘が必要だった。
誰かを、悪意の生贄にしなければ、ならなかったのだ。
“ひの”は衆人環視のもと、火あぶりの刑に処された。
民衆はなんの罪もないこの娘に、罵詈雑言を浴びせ、石を投げた。
どこにも向けられない、向けるべきでない悪意を、炎の中で死にゆく彼女ひとりに向けた。
逃げ場を失った憎悪が、怒りが、憎しみが、悪意が、“ひの”の中で渦を巻く。
その身を焼く炎はいつしか黒く染まり、三日三晩燃え続けたという。
果たして、無実の身でありながら、その一身にすべての恨みを注ぎ込まれた“ひの”の怨念たるや、如何ばかりのものであっただろうか。
年が明けて天明8年1月。
京の都は未曽有の大火災に見舞われた。
都の8割が焼け落ち、30万人もの被災者を出し、後の世に“都焼け”と呼ばれた災禍である。
その出火の原因は、今も不明とされている。
………………。
…………。
……。
身体を包む陽炎が急速に衰え、黒い炎は濡れそぼった身体の奥へ奥へと追いやられる。
他人の意思と肉体のコントロールを奪うヒノスメラの秘術は、糸がほつれるように解けていった。
『あかん、あかん……このままやと……! せめて濡れた服だけでも脱いで……』
ヒノスメラは雨で濡れたパジャマのボタンに手をかけようとする。
しかしその指先は彫像のように、ピクリとも動かない。
それは肉体の主導権が、すでにヒノスメラからサメっちに移ったことを意味していた。
『くそっ……! こんなところで終われへん……この国の悪意を全部焼き尽くすまでは……!!』
ひとつの身体にふたつの精神、その片割れが目を覚ます。
「うゆゆん……へくちっ!」
小さな可愛いくしゃみとともに、大きな目がゆっくりと開かれた。
「はぶるるるる、さささ寒いッスぅぅぅ……うぅん?」
サメっちが周囲を見渡すと、そこはどうやら地下鉄のホームであった。
しかし地上の大火災の影響か照明は落とされ、非常灯の明かりだけが無機質なタイル張りの床を照らしていた。
もちろん空調も動いておらず、構内の気温はむしろ外気を下回っている。
「さむむッス……サメっちは確か、アニキの部屋で寝てたはずッス? ……はわっ!」
小首を傾げながら己の服装を見て、サメっちは二度驚いた。
その身にまとっているものは、地下鉄のホームにまるでそぐわないよれよれのパジャマである。
「はわーっ! サメっちついにハイカイロージンになっちゃったッスか!?」
『……徘徊はしてたけど老人やないと思うよ』
動揺するサメっちの耳に、透き通った女の声が響く。
もはや聴き慣れたヒノスメラの声は、少し疲れているようだった。
それもそのはず、ヒノスメラはそもそも“乗っ取り”を解くつもりなどありはしなかったのだ。
少なくともヒーロー本部を壊滅させ、アークドミニオンへの復讐を果たすまでは。
東京を、日本を、怪人を蔑み、なんの疑いもなく悪意を向ける者たちを、一人残らず焼き尽くすまでは止まらない。
否、止まれないのだ。
何故ならば彼女たちにはもう戻るべき場所がない。
(この娘を丸め込まんことには、うちはまたあの暗い地下に逆戻りや……いや、封印どころか、今度こそほんまに消されかねへん……)
アークドミニオンの怪人たちは、けしてヒノスメラの存在を許しはしないだろう。
ヒーローたちも、力を失った今のヒノスメラを好機とばかりに“処分”するに違いない。
加えて敬愛するアニキを襲撃した事実を知れば、サメっちまでもがヒノスメラに恨みを抱くだろう。
すでに四面楚歌のヒノスメラにとって、サメっちを敵に回すことだけは絶対に避けなければならない。
(こんなところで蹴つまづいてられへんねん。この娘を利用して、うちは本懐を成し遂げるんや……。もっと、もっと焼かんと、この世界の、すべてを……!!)
野心を秘めたヒノスメラは、まるで地雷原を歩くように、慎重に言葉を選んだ。
『……堪忍なあサメっち、今ちょっとうちのせいでえらいことになっとるんよ』
「ヒノちゃん? ヒノちゃんがサメっちをここに連れてきたッスか?」
『せやで、んでもってヒーローどもに追われとるんよね』
「えええッス!?」
『しっ! 静かに!』
サメっちが慌てて口をふさぐと、地下道の奥から何やら楽しげな歌が聴こえてきた。
「「「えっびばーで! ぷっちょへんざー!」」」
状況に似つかわしくない陽気な歌が、無人の地下空間に反響する。
どうやら地上だけではなく、地下にも数名のヒーローが送り込まれているらしい。
「なんでこんなことにッスゥ!?」
『まあその……なんや、外ぶらぶら散歩しとったらたまたま出くわしたんよ。ヒノちゃんも逃げるので精いっぱいでなあ』
「なるほどッス! ヒノちゃんがサメっちを守ってくれたんッスね! ありがとッス、ヒノちゃんは命の恩人ッス」
『…………せやな』
本当のことを伝えるわけにもいかず、ヒノスメラは言葉を濁した。
しかし自身が孤立無援であるとはいざ知らず、サメっちはヒノスメラに対してなんの疑いを持つこともなく感謝の言葉を口にする。
あまりにも呆気なく騙されるサメっちに、ヒノスメラのほうが肩透かしを食らうほどであった。
(呑気なもんや……うちに利用されとるだけやっちゅーのに、この娘ほんまに怪人なんか……?)
何もかもを素直に受け入れすぎるサメっちに対し、ヒノスメラの心には少しばかりの、罪悪感のようなものが芽生えつつあった。
覚醒に至るまでの経緯や社会的に迫害を受ける立場から、怪人とは少なからず心に闇を抱えるものだ。
強い恨み、深い憎しみ、激しい怒り、絶望、傷、そういったものが怪人を怪人たらしめるのだ……かつての、自分のように。
しかしこのサメっちという少女は、ヒノスメラが思い描く怪人像からはかけ離れていた。
どこまでも愚直で、純粋で、無垢で、心の底からヒノスメラのことを信頼しきっている。
「ヒーローがたくさんきても、ヒノちゃんがいれば安心ッス。こんなところすぐに抜け出して秘密基地に帰るッスよ」
『……あ、ああ、せやね……』
無論、アークドミニオン地下秘密基地に帰らせるわけにはいかない。
幹部を手にかけた煉獄怪人ヒノスメラは、すでにアークドミニオンから追われる身だ。
何も知らずに自分を信じるこの少女も、いずれはヒノスメラの裏切りを知ることになるだろう。
いっそ“乗っ取られた”ままならば、一生知らずに済むものを。
(なんとしても、それまでにもういっぺんサメっちの身体を乗っ取らなあかんな……できればこの小娘には、知ってほしゅうないわ……)
ヒノスメラはサメっちを留めるべく、そして己の力を取り戻すべく、サメっちを言いくるめる。
『なあサメっち、先に服乾かさへん? そんな恰好で帰ったらびっくりするんちゃうかな?』
「そう言われてみればそうッス! サメっち、ちょっとセクシーすぎるッスねぇ」
『ほら風邪ひくさかいに、それ一旦脱いでもうたほうがええんとちゃう?』
「どきっ! だ、誰も見てないッスよね……?」
サメっちはヒノスメラに促されて、パジャマのボタンに凍える指先を添える。
まったく疑いもせず言に従う無垢な少女に、ヒノスメラの心はまた少しだけ痛んだ。
怪人らしからぬあまりの白さに、胸の黒い炎が冷たく揺らぐ。
(なんつー素直な……くっ……ええからはよ脱げっ! 濡れた服さえ脱がしてもうたらこっちのもんなんや……!)
しかし次の瞬間、彼女たちの耳にあの声が届いた。
「えっびばーで、ぷちょへんざー……」
パジャマのボタンにかけた手を止め、サメっちは急いで身構えた。
照明が落とされた地下鉄駅のホーム、暗闇の先にぼんやりと浮かび輝く勝利のVサイン。
赤いスーツの上から炎を象った装甲をまとい、その男はまっすぐにサメっちのもとへと歩み寄る。
「ようやく見つけたぞ! ……って、あれ? なんか縮んでないか……?」
「はわっ! ビクトレッドッスぅ!?」
それはビクトレッドこと暮内烈人、執念の捜索であった。
地下道へのシャッターが破壊されていることに気づいた烈人は、そこから地下道内に点々と続く極々わずかな水滴を辿ってきたのだ。
「朝霞さん、やりましたよ。冴夜ちゃんを発見しました! ちょっと縮んでますけど!」
『やはりヒノスメラは水に弱いみたいですね。弱っている今がチャンスです。暮内さん、対象を保護してください』
「わかりました! さあ俺と一緒にお姉ちゃんのもとへ帰ろう、冴夜ちゃん!」
「いやッスゥ! ビクトレッドはサメっちのこと何度もボコってるから嫌いッスゥ!」
烈人の提案を即座に蹴ったサメっちは、両手を腰溜めに構えた。
サメっちは過去の対戦において、ビクトレッドには2度にわたり敗北を喫している。
そのリベンジを今こそ果たさんと、サメっちの瞳が燃える。
「今日のサメっちは、今までのサメっちとは違うッスよ!」
「なにっ……!? やはりヒノスメラの力か……!?」
「サーメーサーメー波ァーーーーーッッッ!!」
「うおおおッ!?」
……ぷすん……。
サメっちは両手を前に突き出すも、漆黒の火炎光線どころかマッチ程度の火種すら起こらない。
「あれっ!? おかしいッス! サメサメ波ッ! サメサメ波ァーーーッ!」
「なにも起こらないじゃないか! そうかわかったぞ、冴夜ちゃんはお兄ちゃんと遊びたいんだな!? ぐ、ぐわーーーッ! やられたーーーッ!」
「さっ、サメサメ波ッスァーーーッ!!」
茶番に付き合う烈人を完全に無視して、サメっちはサメサメ波を撃とうと構えを繰り返す。
しかし何度やっても結果は同じであった。
サメっちの耳に、ヒノスメラの必死な声が響く。
『濡れとるから力が出えへんのよ! サメっち、戦ったらあかん! 逃げえ!』
「はううっ! ヒノちゃん濡れてるだけでもダメなんッスか!?」
踵を返して遁走を図るサメっちの小さな身体が、ひょいと持ち上げられる。
「はわッス! 放すッスぅ!」
「はっはっは! ようし捕まえたぞう!」
一瞬にして距離を詰めた烈人は、まるで子供をあやすように両脇に腕を通してサメっちを拘束した。
濡れて怪人としての能力を存分に発揮できないサメっちの腕力は、そこらへんにいる11歳の少女となんら変わらないのだ。
どれほど抵抗したところで、ヒーロースーツを身にまとった烈人に敵うはずもない。
「ほーら、高い高ーい!」
「ふぎゃーッス! ヒノちゃん助けてッスー!」
『サメっちぃ! サメっちを放さんかいこのアホぉ! なんでや! なんで肝心なときにうちはぁ……!』
「助けてぇッスゥーーーーーッ!」
地下鉄のホームに、少女の叫びが響き渡る。
まるでその声に応じるかのように、烈人が来た方向とは逆の闇の中から――。
――ビュオンッ!!
「あっはっは、楽しいかい冴夜ちゃぐはあああああああああッッッ!!」
風を切る轟音とともに、サメっちの身体が放り出される。
闇の中から飛来した“鉄塊のような剣”は烈人の側頭部に直撃した。
赤い身体が側転し続ける人形のように、ぐるんぐるんと回転しながらホームの端まですっ飛んでいく。
「はっ、ヒーロー本部もずいぶん“らしく”なってきたじゃあないか……」
剣が飛んできた暗闇から、地下道の空気よりも冷たく澱んだ声が染み渡る。
非常灯の明かりに照らし出されたのは、緑と黒に彩られたいびつな曲線である。
死神のエンブレムが施されたマントをたなびかせ、その緑の影はぬらりとサメっちの、ヒノスメラの前に姿を現した。
「捜したぞぉ、サメっちぃ……」
「あ、アニキ……?」
『……あかん……ヒーローより厄介なのが来てしもた……』
いつもの優しいアニキとは違う。
一番舎弟のサメっちでさえ背筋が凍るほどの邪悪なオーラを身にまとい。
「さあ年貢の納め時だ、覚悟しろよぉ……煉獄怪人ヒノスメラ」
極悪怪人デスグリーンは、完全武装でサメっちとヒノスメラの前に立ちはだかった。