第百三十四話「ヒノちゃん」
ふらっと倒れ込む小さな身体は、冷たい床に倒れ込む前に抱き留められた。
その力強い腕は指の先まで包帯でぐるぐるに巻かれ、見ているだけでも痛々しい。
「いぎっ! 痛っ……たくない! 痛くなーいッ!」
痛くないはずがない、本来であれば全身打撲で絶対安静の身である。
今の林太郎はいわば、交通事故に遭った直後に運動会に出ているようなものだ。
だが林太郎は全身を襲う衝撃に歯を食いしばりつつ、涙目になりながらも耐えてみせた。
「……アニキ……? ほんとにアニキッスか……?」
「やあ、門限を守らない悪い子を迎えに来たよサメっち。さあ帰ろう、あたたかい暖炉とママのシチューは待っちゃいないが、歯医者さんが待ってる」
「うっ、うっ……ア゛ニ゛キ゛イ゛イ゛イ゛こ゛め゛ん゛な゛さ゛あ゛あ゛あ゛い゛」
顔をくしゃくしゃにして大泣きするサメっちの頭を、林太郎は黙って胸にうずめて抱える
ように撫でてやった。
ゴゴゴゴゴゴゴ……
しかし感動の再会も束の間、地の底から鳴り響くような振動音が闇の洞に響き渡る。
「センパイ、はやく避難してください! 崩れます!!」
ねちょねちょになりながらもようやく追いついた桐華が、聖堂の入り口で叫んだ。
巨大な黒い結晶は、地下深くの聖堂内で“柱”の役割を果たしていた。
それが消失したことで、聖堂の天井が崩落を始めたのだ。
林太郎たちの周囲にも、次々と瓦礫が降り注ぐ。
「サメっち立てるか? 走るぞ――ッ痛!!」
「アニキ!?」
両足に激痛が走り、林太郎はその場に倒れ込んだ。
無理をしたツケが最悪の形で、最悪のタイミングで林太郎の身体に返ってくる。
サメっちが慌てて肩を貸すも、その非力な体躯では成人男性を持ち上げることはかなわない。
「何やってるんだ……!? サメっちだけでも先に逃げろ!」
「そんなことできないッスゥーッ!!」
一際大きな振動と共に、天井から巨大な瓦礫が林太郎目掛けて剥がれ落ちた。
世界がスローモーションのようにゆっくりと動き、サメっちと林太郎の目前に不条理な死が迫る。
「うわあああああん! アニキいいいいーーーッ!」
『なんや兄ちゃん根暗そうであんまりうち好みの顔ちゃうなあ。なあサメっち、お兄ちゃん助けたいか?』
サメっちの耳に、透き通った女の声が響く。
その声はまるでサメっちの鼓膜を直接震わせているかのように、地鳴りの中でもはっきりと聞こえた。
「サメっちはアニキを助けたいッスゥーッ!!」
『よしゃ、ほなお姉ちゃんがちぃとだけ手ぇ貸したるわ』
直後、サメっちの身体にドクンと、頭のてっぺんから足の指先に至るまで“血”が巡る。
半月状の大きな目に黒い炎が宿り、小さな心臓はまるで石炭をくべられた蒸気機関のように熱く燃え上がる。
「ふおおおおおおおおおおッスうううう!!!」
サメっちは自分の倍以上の体重はあろうかという林太郎を両手で抱え上げると、その小さな足で聖堂の床を踏みしめた。
硬い床が水溜まりに張った薄氷のように砕け散り、サメっちは驚異的なステップで降り注ぐ瓦礫を難なく回避する。
「見える! 見えるッスゥ!!」
サメっちは林太郎どころか唖然とする桐華さえも片手で抱き上げ、崩れ落ちる地下聖堂を脱したのであった。
…………。
「んッス……?」
サメっちが目を覚ますと、そこは医務室のベッドの上であった。
白いカーテンが揺れ、隣のベッドで寝ていた林太郎が身体を起こす。
「おはようサメっち、いい夢は見れたかい?」
「アニキ……」
「まだ寝てていいよ、疲れただろう?」
包帯まみれの林太郎は、サメっちに優しく語り掛ける。
林太郎は精一杯笑顔を取り繕っていたが、その声色はどこか歯切れの悪さを感じさせた。
ふたりの間をしばしの沈黙が包み込む。
先に静寂を破ったのはサメっちであった。
「アニキ、ごめんなさいッス……サメっちのせいでアニキぼろぼろになっちゃったッス」
サメっちは林太郎の顔を見つめながら、ずっと言いたかった言葉を口にした。
林太郎は黙ってサメっちが吐き出す言葉に耳を傾ける。
「サメっち、もうアニキに合わせる顔がないって思ったッス……だから……」
「なんだ、虫歯の治療が嫌で逃げたんじゃなかったのか?」
きょとんとする林太郎の顔を見て、サメっちはようやく虫歯のことを思い出した。
そしてベッドの上でカタカタと小刻みに震えだす。
「さささ、サメっちはドリルなんか怖くないッススス」
「頼むからまた逃げ出さないでくれよ。その虫歯放っておいたら死んじゃうらしいからな。ほら、あーんしてみな」
痛む身体をおしてベッドに腰かけると、林太郎はサメっちの頬に手を添えた。
観念したサメっちは、促されるままに口を開く。
「あーーーん」
「どれどれ、虫歯くんのおうちはどのぐらい大きくなったかな?」
林太郎は極力サメっちを刺激しないように、牙が生えそろった口の中を覗き込む。
そして己の目を疑った。
「治ってる……?」
「ふぁ?」
黒く欠けていた奥歯は、象牙のようにつるりと真っ白な光沢を放っていた。
「ほぁ!? ほんとッス! そういえばぜんぜん痛くないッスゥ!」
「サメっち、虫歯どこに隠したの? ほら出しなさい、ペッしなさい」
虫歯が完治して喜ぶサメっちとは裏腹に、まるで理解が追い付かない林太郎は頭を抱えた。
「どういうことだ……? 自然に治癒したってのか……? いやそんなはずはない。だとしたらタガラックは俺たちを急かしたりしなかったはずだ……」
一人で考え込む林太郎をよそに、サメっちの耳にあの女の声が響く。
『むっふっふ、うちにかかれば虫歯ぐらいどうってことあらへんのよ』
「結晶の人が治してくれたッスか!? すごいッスぅ!」
『その結晶の人ってうちのことかいな! やめてそんなん縁起でもない。“お姉ちゃん”でかまへんよ』
「それは困ったッスねえ。サメっちのお姉ちゃんはお姉ちゃんひとりだけッス」
『なんやもうお姉ちゃんおるんかいな。せやなあ、ほな“ヒノちゃん”とでも呼んどくれやす』
「ヒノちゃんッスね! ありがとッス、ヒノちゃん!」
サメっちは姿の見えない“ヒノちゃん”にお礼を言った。
しかしその天真爛漫に返事をするサメっちを、林太郎がいぶかし気な目で見つめる。
「サメっち、いったい誰と話しているんだ?」
「あれっ? アニキには聞こえないッスか?」
「……え?」
“ヒノちゃん”の声は、どういう原理か他の者には一切聞こえていないらしい。
サメっちにだけ聞こえる声で、ヒノちゃんが再び囁く。
『あかんよサメっち。うちの声はサメっちにしか届いとらんから、あんまり他の人に話すと頭パーになったて思われてまうよ』
「はわッス! それは先に言っておいてほしかったッス!」
「どうしたんだサメっち、やっぱりどこかで頭でも打ったんじゃ……」
「なんでもないッス! サメっちは頭パーじゃないッスゥ!」
林太郎が疑念の目を向ける中、サメっちはベッドの上で隠れるようにシーツにくるまった。