第百三話「付け焼き刃」
剣持湊は固く閉ざされた扉の前で、深呼吸をした。
「ふぅー、大丈夫……私は強い……落ち着け冷静になれ……」
やってきたのはアークドミニオン地下秘密基地の極上スウィートルーム、極悪怪人デスグリーンこと栗山林太郎にあてがわれた部屋である。
彼女が突然の拉致被害、もとい苛酷な修行に出てからおよそ一週間。
林太郎が引きこもっていた期間もあわせると、もう二週間近く顔を合わせていない。
今日の湊は、そんな林太郎に対しある決意をもって部屋を訪れたのであった。
(私をお前の軍団に入れてくれ……私をお前の軍団に入れてくれ……! よし!)
湊は改めて、何度も練習した言葉を心の中で繰り返した。
緊張をほぐすため、昨夜から手のひらに人の字を書いてはすでに一〇〇回以上飲み下している。
しかしいざ目前となると、まるで生まれて初めて愛の告白に臨む中学生のように身体が強張り、喉が無性に渇いて仕方ないのであった。
(大丈夫……シャワーも浴びてきたから臭くはないはずだ。身だしなみも、問題ないはず……念のため下着だって新しいものを着けてきたし……)
その気合いの入りようは、もはや無意識なのかわざとなのか判断しかねる境地に達していた。
「……林太郎、いるか?」
湊は勇気を振り絞り、おそるおそるノックをしてみたが返事はない。
気になって扉に耳を当ててみるも、以前のようにすすり泣く声が聞こえてきたりはしなかった。
「留守なのかな……?」
扉に耳をぺたりとつけたまま、湊は扉に体重を預けた。
すると鍵のかかっていなかった扉がひとりでに開く。
「ふぎゃっ! ……うぅ、いたい……」
湊は鼻を押さえながら顔を上げた。
部屋の中は真っ暗であり、どうやら本当に外出しているらしかった。
(そうか、外に出られるぐらいには回復したんだな……)
目的の人物の不在については残念ではあるものの、湊は少し安心した。
しかしそのとき、廊下の外から響く話し声が湊の耳に入る。
「アニキぃ~! サメっち寂しかったッスぅ~!」
「心配かけたのはお互い様だからね。そこはおあいこってことにしておこう」
聞き間違えようもない、和気あいあいとしたサメっちと部屋の主・林太郎の声であった。
声のトーンから察するに、林太郎はもうすっかり元気になったようだ。
(よかった……元気そうで……)
胸をなでおろしたところで、湊は自分が置かれている状況に気づいた。
そこにいるのは、主の不在をいいことに電気もつけず私室へと無断侵入した成人女性である。
湊の顔からサーッと血の気が引いていく。
(まずいぞ……どどどどど、どうしたらいいんだーーーッ!)
考えられる最悪の事態は、このまま彼らが部屋に入ってくることだ。
『やあ林太郎、もうすっかり元気になったんだね!』
『おい湊、いったい俺の部屋でなにをしてるんだ』
『これはちょっとした不可抗力ってやつだよ。気にするな、てへっ☆』
(これはちょっと無理があるな……)
うまく弁解してそのまま交渉に入れるほどの器用さを、湊は持ち合わせていない。
もはや湊が取れる選択肢は、そう多くなかった。
たとえばこのまま、なに食わぬ顔で部屋から出て行ったとしよう。
地下秘密基地の廊下は長く、死角はほとんどない。
必然的に廊下で林太郎たちと出くわすことになる。
『やあ林太郎、もうすっかり元気になったんだな!』
『ねえなんでいま俺の部屋から出てきたの?』
『うふっ、バレちゃったか。こいつはいけないや、てへぺろりっ☆』
『なるほどねっ☆ それじゃあ次は法廷で会おうねっ☆』
『まっ、待ってくれぇーーッ! 誤解だ、誤解なんだぁーーーーッ!!』
(だ、ダメだ……怪しすぎる……!)
湊の脳内シミュレーションでは、どうあがいても不審がられ距離を置かれる未来しか見えない。
このままでは林太郎にあらぬ疑いをかけられた上で、立派なストーカーと認定されてしまう。
「あれ、開いてるッスよ? アニキまた鍵かけ忘れてたッスか?」
「うーん? まあ地下秘密基地で空き巣はないと思うけど、気をつけなきゃだね」
サメっちがドアノブに手をかけ、いままさに扉が開かれようとしている。
湊は暗闇の中、慌てて手探りで大きなベッドの下へと潜り込んだ。
「……? 誰かいたような……気のせいか……?」
「アニキ疲れてるッスか? きっとまだ本調子じゃないんッスよ」
そう言いながらふたりはソファ代わりのベッドに腰かける。
ギシッと軋むスプリングを、湊は至近距離で感じていた。
(はわわわわ……どうしよう、いま出て行って謝ったら許してもらえるかな……? いやどう考えても変態度が上がっただけじゃないか……うぅぅ)
もはや状況は八方塞がり、四面楚歌、将棋で言えば詰みである。
困った湊がベッドの下で息を殺していると、聞き取りにくいもののふたりの会話が否応なしに聞こえてきた。
「ところでサメっち、一週間もどこに行ってたの?」
「ふふふッス……それは乙女の秘密ッス。サメっちはいい女ッスから、秘密もたくさんあるッスよ」
「まあベアリオン将軍からだいたいの話は聞いてるんだけどね」
「アニキぃ! 知ってて聞くのは反則ッスよぅ!」
隠れてこっそりと話を聞いているというのは、客観的に相当危ないのではないか。
湊は不安と罪悪感でキリキリと痛む胃を押さえながら、息をひそめていた。
すると最初のうちは和気あいあいとしていたのだが、どうにも林太郎の空気が変わったのが感じ取れた。
「サメっち、じつはとても大事な話がある。話というよりお願いなんだけど」
「なんッスか改まって? サメっちはアニキのお願いならなんでも聞くッスよ!」
林太郎がベッドの上で正座すると、サメっちもそれに倣って正座で向かい合う。
「色々考えたんだが、やっぱり俺にはサメっちが必要だ。これからも俺についてくる気はあるか?」
「ど、ドキーーーーーーーッス!?」
(…………!!!!!!!!????????)
いつになく真剣な林太郎の突然の告白に、驚いたサメっちがベッドの上で飛び跳ねる。
その衝撃のおかげで、ベッドの下で飛び跳ねた湊にはふたりとも気づかなかったようだ。
あまりの衝撃に、湊は思わず真っ赤に染まった顔を覆った。
(ななな、仲が良いとは思っていたけど、ままままま、まさかこんな……!?)
そんな湊に気づく様子もなく、林太郎は言葉を続ける。
「知っての通り俺はもうただの一兵卒じゃない。ひとつの軍を預かる団長だ。身の回りはきちんと固めておかなきゃいけない」
「アニキそそそそれは……つまり愛の告白ッスか!?」
「団員勧誘だ。どうだ、これからも俺と一緒に……」
「サメっちは一生アニキについていくッスぅぅぅッ!!」
「うおッ!? そうか! アニキは嬉しいぞぉ!」
サメっちは満面の笑みを浮かべ、横っ飛びで林太郎に抱きついた。
押し倒された林太郎の身体がベッドで跳ねる。
スプリングがギシコーンと軋むのを、湊はベッドの下で泡を吹きながら感じていた。
(林太郎……サメっち……あわわわ、あうあう……)
もちろん林太郎としては、桐華のようにゴネられてはたまらないから先手を打ったまでのことなのだが。
その言葉はサメっちのみならず、ベッドの下で聞き耳を立てていた湊にまで誤解を与えていた。
もはや彼らの言葉は、湊の耳には入ってこない。
湊は目を瞑り、耳をふさいでその長躯をダンゴムシのように丸めていた。
「アニキぃ! サメっちこの一週間でちょっとパワーアップしたッスよ! ウサニー大佐ちゃんからいろいろプロレス技を教えてもらったッス!」
「あだだだだッ!? だからってここで試さなくてもいいだろ!? もう仕方のない悪い子だなあサメっちは!」
「わいわいキャッキャッ!」
「うふふ! あはは!」
人生で最高の喜びを享受するサメっちと、団員を確保できたことに上機嫌な林太郎はキングサイズベッドの上でキャッキャウフフと飛び跳ねる。
ギシッ! ギシギシッ! ギッコンバッタン!
(あわ……あわわ……あうあうあうあう……うぅぅぅ……)
…………。
ギシコンバシコンと軋み倒すベッドの下から湊が這い出してきたのは、それから二時間後。
林太郎たちが緊急出動命令を受けて、部屋を出て行ってからのことであった。
再び電気の消えた部屋で、長身の乙女は乱れに乱れたシーツに虚ろな視線を落とす。
そのまま成仏しかけの幽鬼のような足取りで、ふらふらと部屋をあとにした。
「あっ、ミナト先生。こんにち……ウィッ!?」
「……………………」
「あの、大丈夫ですかミナト先生、すごい顔色ですウィ?」
「……………………」
廊下ですれ違う怪人たちが、その姿を見てギョッとする。
心配で声をかけてくる者もいたが、湊の耳にはもはや届いていなかった。
壁にゴッツンゴッツンと頭をぶつけるたびに、ポロポロと柳葉包丁をこぼしながら、湊はあてどもなく広い地下秘密基地を歩き続ける。
それからどれほど歩いたのか。
いつしかずいぶん深いところまで降りてきていた。
周囲に他の者の気配は一切なく、配管剥き出しの闇に包まれた廊下で湊は足を止めた。
非常灯の明かりに照らされながら、膝を抱えてへたり込む。
「ふぐっ……」
ずっと林太郎の傍にいたい。
その思いさえ叶えば、湊は形にこだわるつもりなんてなかった。
ただの駒としてでもいいから林太郎の役に立ちたいと、これまでずっとそう自分に言い聞かせてきた。
だから林太郎に特定の相手ができようが、それは湊とはまったく関係のない別の問題だ。
だというのに、どうしてこんなにも胸が苦しいのだろうか。
湊がいくら疑問に感じたところで、その問いに答えてくれる相手なんかどこにもいない。
考える時間も、覚悟する時間も十分あったのに。
勇気、自信、度胸、情熱、今日という日のために用意した“付け焼き刃”がポロポロと音を立てて崩れ去っていく。
それはまるでダムが決壊するかのようであった。
彼女の中で抑えられていたものは、ついに濁流となってあふれ出す。
「ふぐぅ……うっく……ふえええええええぇぇぇぇぇぇん……!」
怪人すらうごめかない深淵のさらに底、乙女の泣き声は切なく響き続けた。