慰め
【マリー=テレーズ人生劇場・第一幕】
大きな劇場がありました。あなたは客席の最前列に座っています。他に誰もいません。わくわくしながら赤い緞帳が上がるのを待っています。
これからお芝居が始まるのです。薄暗い劇場内に物哀しい音楽が流れました。開演です。
パッ、とスポットライトが舞台の右端に当たります。タキシードを纏ったフクロウが器用に一礼しています。まるで人間のよう。あなたは驚いて前のめりになりました。
頭を上げたフクロウには黒々とした二つの瞳がはめ込まれています。その瞳の奥にある光は、怪しげで謎めく宝石でした。
フクロウは無言で大きな翼を広げ、頭上高く飛んでいきます。フクロウを追っていた照明が突然消えて、何も見えなくなりました。ふたたび前方を向くと、またスポットライトが辺りを照らします。
そこには『あなた』がいました。『あなた』は言います。
「小さな村の片隅に住んでいた女の子は、自分の出自も知りませんでした。気が付けば意地悪な夫婦の元にいて、たくさんの子どもたちと生活していました。それが『あなた』という人間のはじまりです」
『あなた』は舞台の中央を指さしました。するすると緞帳が上がります。舞台上で十二人の小さな子どもたちが遊んでいました。そしてその傍らで糸杉にもたれかかって身体を縮こまらせている小さな『あなた』。他の子どもたちよりひときわ小柄で幼い『あなた』です。ひもじいお腹を抱えてじっとしています。
イーズ近郊、ミュセット村こそ『あなた』が幼い日々を過ごした場所でした。『あなた』に物心ついたのは、母と名乗っていた女が「生きているだけでも感謝しな! お前のような捨て子を拾ったあたしたちを神様だと思え!」と『あなた』の頬をぶった時です。その家にはあなたより年上の兄と姉が十二人いました。途中で死んだ兄や姉もいましたが、とにかく『あなた』は夫婦の十三番目の子どもでした。「拾った時も誰もいない夜道にいたんだからおまえは親に棄てられたのさ。人の目が気になるから置いてやっているが、その分こきつかうしかないよな」というのが初め父と名乗っていた男の言い分です。
だから『あなた』は家の召使として他のどの子どもたちよりも働きましたし、食事を盗まれても服を破かれても淡々と受け流しました。兄の一人に顔に一発当てられた時にはさすがに激高してぼこぼこにしてやりましたが。その兄は前歯が一本欠けて、もう『あなた』に近寄ってこなくなりました。
これを知った夫婦は揃って『あなた』を怒りました。自分たちの子どもに何をしてくれているんだ、今度こそ追い出してやる、もう戻ってくるなと言い放ちました。
「悪魔め!」
『あなた』は夫婦の剣幕から逃れるように家から走り出しました。その道端で、たまたま馬車に引かれそうになりました。御者が慌てて手綱を引いたので事なきを得ました。
御者は突然飛び出した『あなた』にカンカンでしたが、尻餅をついたままの『あなた』には聞こえていません。その眼は今まで見たこともない立派な馬車に注がれます。まるで巨大な怪物のようにも思えてならず、御者に無理やり立たされるまで動けませんでした。
「どうした」
馬車の扉がほんの少し開き、中にいた人物の顔が半分だけ見えました。茶色の口髭を蓄えた男でした。男は『あなた』を汚らしいものを見たような眼で見ましたが、はっとなって馬車からそのまま飛び降りました。
馬車の中で折り畳まれていたように思えるほどのっぽな男でした。蒼褪めた顔をしています。そうとわかるのも、男が『あなた』を見ていたように、『あなた』もまた男を見る時間を与えられたからです。
男は御者に向かって何かを告げたようでしたが、御者は渋い顔。『あなた』には理解できない言葉で話しているのです。
御者は嫌々『あなた』へ向き直り、今度こそわかるように言いました。
「どこの村の者か、どこの家の者かを言うように。ご領主がそこの者に用がある」
ご領主というのがあの男のことを指すことは『あなた』にもわかりました。
夫婦との間でどのような話し合いが行われたのかは知りません。ただ『あなた』はまもなく新しい養父の元に引き取られることに決まりました。運命の手が『あなた』を救い上げる時が訪れたのです。
はじめて目にする綺麗な服を着せられ、養父の使いだという男に馬車に乗せられました。馬車は森を抜け、田園地帯を抜け、人里から離れていきました。最後に辿り着いたのは、大きなお屋敷でした。エントランス前につけられた馬車の扉が開きます。立派な身なりをしたあの男が『あなた』の右手を取りました。
彼が養父になる男です。不思議なことに、養父は『あなた』に跪き、うるんだ瞳で「ようやくお会いできました、未来の女王陛下」と感極まったアルデンヌ語で告げました。
「これまでお迎えできなかった我が身をお許しください。まかり間違っても王女殿下をあのような下賤なところへ行かせてしまい、不徳の致すところです」
養父は『あなた』に信じがたいことを告げるのです。『あなた』は王室の血を引く正当なる王位継承者であるのだと。
「許しがたいことに、王室に賛同しない政敵らが生まれて間もない王女殿下をかどわかすという悪辣な手段にうって出たのです。王女殿下がご無事であったのは何よりのことです。少し痩せていらっしゃるようですが、美しさに照り輝くそのお顔立ちは、母君とうり二つ、『あなた』が王家の血を引いている証拠。間違いますまい。かくなる上は、このわたくしめがあなたさまの庇護者となりましょう。教養を得て、いずれは国を統治するのです。さあ、女王陛下。お勉強をはじめましょう」
養父は本当の『あなた』の名を教えました。『あなた』はその名を呟きます。耳にしたことのない名ですが、自分にぴたりと合っているような気がして嬉しくなりました。
ああ、悲劇の運命へ至る一本道を歩みはじめたことを小さな『あなた』はまだ知る由もなく。突然、王女という身の上を知らされたことに驚き、子どもながらに心ときめかせていたのです。
これは『あなた』がある舞台の主役として演じた物語。【マリー=テレーズ人生劇場】の開演です。
「リディさん?」
気が付くと両肩を掴まれ、揺さぶられていた。目の前には、意外と整っている青年の顔。焦点が合ったところで、彼は正面のソファーに座りなおした。
ここは金糸雀館のサロンだった。
「まだぼうっとしているみたいっすね。さっきから上の空で全然返事もしていなかったんですよ。ホントーに大丈夫っすか?」
「え? ……あ。そうだった? ごめんなさい」
ホットミルクのカップを手に取ったことさえ覚えていなかった。
「顔が真っ青。ほら、手も震えているみたいですし」
私はバツが悪い思いでブラウスの袖を引っ張った。
古びた柱時計がチクタク、と時を刻む音が耳に入った。身体の奥が凍えていた私はまたカップを手に取った。
「レイマンさんには何か聞こえなかった?」
「何を?」
彼は不思議そうな顔になる。
「何か聞こえたんすか。たしかにヤバイ絶叫でしたけど。リディさんからあんな声が出るとは思いませんでした。カエルを両手で捩じり切った時の断末魔みたいな感じ。……すみません」
私を見た彼がなぜか謝罪してきた。
「そんなに怖かったんすか」
「そうだね」
手記を手にしていたあの時。突如、女の声が「みつけた」と囁いたのだ。空耳にしてはあまりにも鮮明だ。たしかに吐息が耳に触れ、誰かの気配を感じたのだ。
あれは何だったのか。目が自然とテーブル上に置いた手記に走るが、開ける気力が湧かない。それより今は人の弱さに無遠慮に触れてくる彼の無神経さが気に障る。
「キャンキャンキャン!」
少し離れたところで老婦人のポメラニアンがふわふわの毛を逆立てて威嚇した。尻尾を股の下に入れ、ひどく怯えている。犬にまで追い打ちをかけられて、ますます気分が沈む。ミュラーさんは愛犬を置いてどこに行ったのだろう。
「よくわからないっすけど、元気出しましょうよ。俺、ここに幽霊がいるという話は聞いてないですもん」
彼が気を取り直したように言うが、どうしても腑に落ちない。
「本当でしょうか。 もしかしたら私たちが知らないだけであるのかもしれません。とにかく今日は早めに休ませてもらってもいいですか?」
「もちろんっすよ。無理はしないでください。夕食は難しいですか? 難しいならおばちゃんに言っておきますから」
「軽めの夕食なら。ランチも食べていなかったから胃に物を入れておきたいです」
「わかりました」
レオ青年は意外に優しい声音で言う。
「あまり思いつめないでください。俺じゃ、頼りないかもしれないけど。もし何か気がかりなことがあれば言ってください。助けてと言われれば、助けに行きます。本気っすよ。そもそも俺がここに誘ったようなものですから。最後まで責任を取りますよ」
彼は犬をひょいと小脇に抱えた。
「おばちゃんは気分が悪くて部屋で休んでいるっす。夕食は二人でとりましょう。家政婦さんの料理はなかなか旨いんすよ」
屈託のない笑みが閃き、彼はすたすたと出入口へ歩いていく。振り返った。
「リディさん、行きましょう」