秘密の部屋
おしゃべりに区切りがついたところで少し狭い螺旋階段を上がり、二階の廊下に出た。ひときわ立派なレリーフの施された扉の前にやってくると女主人はポケットの鍵束から古い鍵を引っ張り出して、鍵穴に差し込んだ。ずずず、と木製のそれが鈍く動いて、中が露わになる。
内部は壁から天井までそびえる本棚が壁にいくつも備え付けられており、本を取り出すためのはしごもある。床には色落ちしたカーペットが敷いてあり、採光しやすい窓際に古びた書き物机が鎮座している。
「天井を御覧になってみて」
老婦人に従って上を見上げると、思わず感嘆の声が出た。
天井画だ。漆喰を塗った天井にフレスコ画が施されていた。三割ほど剥落しているようだが、金を背景に古今東西の植物と鳥がまるで戦うように絡み合い、一種独特の世界観を作っている。
「亡くなった主人はここを気に入って購入に踏み切ったの。凝った作りだったから無理もないわ。ただわたくしには価値がわからないものだから、掃除もできていないのよ。いかが?」
「面白い部屋ですね。入っただけで四方からの圧迫を感じます。元から書斎だったのですか?」
「さあ。主人が買った時にはもうこの状態だったから」
夫人はしきりに肩に羽織ったショールの上から肘の辺りをさする。
「この本棚には主人の本もぎっしり詰まっていたけれど、わたくしには小難しい本はとんと疎くて。主人が亡くなってから全部古本屋に売り払ってしまったのよ。それにこの部屋も改装するつもりでいたの。この部屋は館の中でもかなりの割合を占めているから、住みづらい時もあって」
「まだそんなことを言っていたの。もったいないよ。せっかくの天井画なのに」
レオ青年は明るい調子で返した。
「壊すよりも別の活用方法だってあるよ。ユースホステルとして貸し出したり、一般の見学者を受け入れたりしてさ。きれいなものはみんなで分かち合うべきだよ」
「とんでもないことを言わないでちょうだい。そんなおぞましいことは許されないわ」
「どこがおぞましいの」
「全部よ。全部が全部……許せないの」
堅い声で何度も否定するミュラー夫人。その様子に私は不安を覚えた。こういった人に何回か出会ったことがあるが、いつも楽天的で鷹揚かと思いきや、ふとした瞬間に印象を裏切ってくる。この女性にも注意が必要なのかもしれない。
「そういうものかな?」
「正直、気味が悪いの。主人がこの館をはじめて訪れてから全部おかしくなったわ。今まで田舎暮らしをしたいとは口にしたこともなかったのに、一度見ただけですぐに購入を決めたし、引っ越したら途端にわたくしを放り出してこの書斎で生活しはじめたの。話しかけても上の空。元々はきはきしていた人なのに、人が変わったみたいに神経質になったわ。突然、『人を探しているんだ』と室内を歩き回ったりすることもあったわね」
「それははじめて聞いたなあ」
レオ青年は頭を掻き、考え込むような顔をした。
「ちょっと怖いね。おばちゃん、引っ越してもいいんじゃない?」
「いやよ。人を探しているから(・・・・・・・・・)。いまさら動くのも億劫だもの」
「え?」
レオが戸惑った顔になるが、無理もない。私も変なふうに聞こえた。ミュラー夫人の声が男性のように響く部分があったのだ。
「あら、妙な顔をしてどうしたの?」
老婦人は可憐な少女のように小首を傾げる。
「今、『人を探している』って……」
「わたくしがそんなことを? 言うわけないじゃない」
その反応があまりにも自然体だったものだから、私も何も言えなくなってしまった。
「そうだわ、フロベールさんがいるのに怖い話ばかりしていてはだめよね」
老婦人は少女のように無邪気に言う。
「館の外はとても景色がいいのよ。今はまだだけれど、夏にはきれいな花がたくさん咲くし、昔の庭園の名残で石畳の道もあるわ。その小道を辿っていけば小川もあるし、小川を渡るための石橋もある。ぜひ夏にもいらしてね」
「ええ、ぜひ」
「では、レオ。あとはお願いしてもいいかしら。さっきから寒気が止まらなくて……。家政婦たちに三人分の夕食をお願いしておくから、本を見せてあげてちょうだい」
「わかったよ。あまり無理しないでよ」
「ええ」
ルチアちゃんもそろそろ探してくるわ。ミュラー夫人はそう言いながらぱたぱたと書斎を出て行った。「ルチア」とはあのポメラニアンの名前のようだ。
「すみません、リディさん。話についていけなかったっすよね。ええーっと、ああいう人なんすよ」
「いえ、気にしないでください」
「じゃ、さっそく本のあったところを見てみましょう。今、本も発見されたところにそのまま置いてあるんすよ。よいせ」
彼は本棚の一つを持ち上げる。壁に固定されていると思いきや、そうでなかったらしい。本の入っていない棚は彼の手で軽々と持ち上がり、別の棚に立てかけるようにして安定させる。
どかした本棚の奥に崩れた漆喰の壁と、真ん中に開いた大きな穴があった。奥には空間が広がっているのがわかる。
「おばちゃんはこの場所の改装のために業者を呼んで見取り図を描いてもらったんすよ。そうしたらちょうど、この西の壁に不自然な空洞があることに気付いたらしいんす。で、取り壊してみたら秘密の部屋の御開帳です。ロマンがある話でしょ?」
どうぞと言われるがままに穴の中を覗き込む。外からの光が縦一筋差し込んでいる以外、真っ暗だ。レオ青年が懐中電灯を差し出した。それに照らしてみると、ほとんど何も置いていない直方体の部屋のようだった。
「元々嵌っていた窓が上からまた漆喰で塗り込められていたそうですが、今回の改装工事の調査で内側と外側から手を入れたので両方に穴が開けられたんです。この時点でおばちゃんが気味悪がったみたいでやめにしたらしいっすけれど。なんでも業者が言うには、貴族の館に時々こういう隠し部屋が見つかるそうっすよ」
「なるほど」
「中に入ってみてください。先にハンカチを口に当ててくださいね。相当埃っぽいっすから」
穴は一人がどうにか入り込める大きさだった。身体を丸めながら入り、懐中電灯で辺りを照らしてみる。さきほどまで死角だった部屋の隅にひざ下ほどの高さの木箱を見つけた。それ以外、部屋には何もない。
「何の部屋だったのかしら」
「まだよくわかっていないんすよ」
レオ青年が私に続いて穴をくぐる。
「元住んでいた人の親戚に訊ねても、何もわかりませんでした。地元の新聞に取り上げてもらっても収穫なし。木箱から黄金でも見つかれば隠し財産の場所だとはっきりするんすけれどね。その木箱から見つかったのは、たった一冊の手記です。それもアルデンヌ女王の生の声がわかる希少な資料っすよ。これはきっと何かあるに違いないっすね」
ふふふ。コナン・ドイルの生み出したあの世界的に有名な名探偵が浮かべるようなニヒルな笑みをする彼。
「ああやって窓までしっかりと壁に塗り込んで隠してある部屋……。発見された秘密の恋を記した手記。俺たちはさながらミステリー小説の主人公っすよ」
「探偵役がいませんよ」
「女探偵ならここにいます」
レオ青年は私へ向かってにかっと笑う。
「ただ、俺にも自由に想像することぐらいできるっす。たとえばここは、お姫様がひそかにかくまわれた部屋でした。たぶん美人で可愛いお姫様っす。この部屋でお姫様は守られ、穏やかに日々を暮らした……とか!」
私はカビ臭さが鼻につく殺風景な部屋を見回して言う。
「こんなところで穏やかに暮らせたのかな」
狭く重苦しいこの部屋に住んだ人が幸せだったようには思えない。
「え、ダメっすか。あぁ、でも贅沢に慣れたお姫様にはきつい生活かぁ。ロマンがあると思ったんすけど」
「そうですね」
「あっ、ドン引きしないで! わかりました、わかっているっすよ。すんません!」
彼は顔の前で手を振りながら否定した。その顔はまた熱を帯びている。やだなあ、ついぽろっと言っちゃったよ、と一人で羞恥に耐えている。彼の人生はとても楽しそうだ。
「手記を見てもいいですか?」
「あ、それは俺が出しますよ」
埃が蔓延する室内で彼は木箱に近寄る。私は彼から受け取った懐中電灯で辺りを照らした。木箱には無骨な錠前がついていたが、今は錆びついて壊れているようだ。あっけなく蓋が空く。その中には本が収まりそうな平たい直方体の箱が一つ。彼はそれを慎重に取り出した。
「出ましょう」
穴を再度くぐって書斎に戻る。書き物机の上に小さな箱を置き、彼は慎重な仕草で蓋を持ち上げた。
中には一冊の手記が箱にぴったりと納まる状態で入っていた。気合を入れた様子で彼はポケットから出した白い手袋をつける。私も同じく持参した手袋をはめる。
眺めているだけで心臓が締め付けられる心地がして、机の上に本を乗せた彼が「どうぞ」と言う声まで遠くに聞こえる。
手袋に包まれた指が震えていた。何かが起こる予感がしたのだ。
「どうっすか?」
手記を手に取った私にレオ青年が心配そうな声をかけ、手元を覗き込んだ。
「まだ表紙を見ただけですよ。中身も見ないと」
赤い革表紙の手記は、書籍と同じくしっかりとした装丁をしており、最高級品とされる子牛の革が使用されている。これはかなり珍しいことだ。普通の手記にするなら、染色しないまま装丁した方が安価な上に実用的で好まれるのに。
大きさは片手で持てるほどだが、重厚感がある。
頁をめくれば、『マリー=テレーズ』という署名がある。どこをどう見ても見覚えのある筆記体だ。
「何かわかりましたか?」
「うん。まだ……かな」
手記の内容自体は発表時に《レポジトリ》に表示されたものと同じだが、生の資料は情報量が多い。たとえば使用されている紙の質や厚み。インクの変色具合。粗い画素数ではわからない微妙な筆跡の癖や、書き損じを誤魔化すために丁寧に削り取られた頁の跡。どれも時代特定に必要な情報になる。
「判断が難しいですね。装丁の仕方も材質も、十八世紀初頭にも存在していたものです。見ただけではすぐに結論が出ないかもしれません。ただ、こんなに密閉された空間にあって傷みがほとんど見られないのが不思議です」
「俺もそう思いました。三百年前にしてはきれいなんです。虫食いの跡もほとんどないです。先生もそこが不可解に思ったようっすよ」
頁の端の方こそ擦り切れてぼろぼろになっている箇所があるが、読む分には問題がない。一見して三百年の月日を感じないのだ。
ざっと頁を繰りながらところどころの文章を拾ってゆく。後で持参したルーペで確認するが、このままだと自分自身で自分の筆跡だと断定しそうで怖い。ますます釈然としない気分だ。
ふと、手袋で覆われた指先にひっかかりを感じた。探ってみると不自然に厚みのある頁がある。手記の最後だ。頁同士が糊でぴったり張り付いている。
「ここは?」
指さした箇所をレオが横から覗き込む。
「ああ。そこは剥がれないんすよ。下手にいじると資料が破損しそうでやめました。《レポジトリ》にも反映できなかった部分なんすよ」
「先生は何かおっしゃっていましたか?」
「そのうち特殊な紫外線スキャナにかけてみたらどうかとは言いました。おばちゃんはいやそうにしていたけど」
「気になりますね。何とかきれいに剥がれる方法があればいいのに」
諦め悪く、その頁の角に人差し指の腹を当てる。頁を隔てる薄い布が煩わしい。
たとえばこの頁を開いてみたら手記を書いた人物の『声』が書かれているのかもしれない。私自身がもう忘れてしまった埋もれた記憶か、あるいは私以外の人物の心か。
どんな思いで綴られたのだろう? こんなにも似た筆跡であるのになぜ今の『私』は覚えていない? リディ・フロベールとは、マリー=テレーズの何?
答えは目の前にあるような気がしているのに掴めない。もどかしさが募る。
その刹那。奇跡的に、頁が、剥がれた。
「うおっ、え、えっ! リディさん? 破っちゃった? どうしよ、おばちゃんに怒られる!」
「ま、待って、破ってない、破ってないからっ!」
途端に二人で大慌てだ。ミュラー夫人を探して頭を巡らせる。
やってしまった。資料を扱うプロであるはずなのに、とんでもないミスだ。資料を破損させるのは、図書館に働く者としてありえない。
――腹を決めてあとで謝罪しよう。そうしよう。
自分に言い聞かせながら新しく顕われた頁を細目で見る。
ところがぴったり貼りついていた頁は破れた形跡もなく、貼り跡が見えないほど綺麗なものだ。破損したとは思えず、奇妙だ。
しかし、それ以上に奇妙なのは、新しい頁に大きく殴り書きされた言葉。
死にたくない。
しばらく黙り込んでしまう。心の叫びを振り絞って書かれた文字だったから。
かつて『私』はこんな言葉を書き残しただろうか。いつ?
「『死にたくない』……」
その意味を噛みしめるように手袋に包まれた指を頁に滑らせながら呟く。
開いていないはずの窓から、冷たい風が首元を撫でた。背後に誰かの気配がくっついてくる。冷たい息が耳の後ろから吹きかけられているのに、私は一歩も動けない。
みつけた(・・・・)。
前触れもなく響く女の声。ぞぞぞっ、と背筋が凍った。