金糸雀館
次の休暇。いつもの革のカバンを肩にかけ、再びイーズへの列車に乗り込んだ。
高速鉄道の駅前のカフェでエスプレッソを飲みながら読書をしているうちに、レオ青年が携帯端末の画面をちらちら見ながらやってきた。ガラス越しに目が合い、機敏な仕草で手を挙げた。
「こんちは。リディさん」
「こんにちは。今日はよろしくお願いします」
「あっ、こちらこそよろしくっす。車を持って来たんで乗っていってください。手記が見つかった場所は少し郊外なんすよ」
彼は朝食を食べ忘れたとのことで、いそいそとカフェで販売していたレタスと生ハムを挟んだベーグルを腹に納めた。店を出たところで少し待っていると、通りにブリキのおもちゃのようなレトロな黒い車がやってきた。前方についたまあるいライトがトンボの複眼を思わせる。
「コイン一枚で友達から買ったビートルっすよ。いい車でしょ。よく壊れるけど」
「……大丈夫?」
「これがね、女の子を乗せた時には機嫌がいいっす。女好きの車っすよ」
信用できない根拠を並べられてますます不安な気持ちになる。二人乗りの助手席に腰かけると、運転席のレオ青年が黒いサングラスを装着した。ぶるるん、とうなりを上げ、車が動き出した。おしりに伝わる振動が最悪に不快だ。
それでも我慢を重ねて四十五分。拓けた小麦畑と森の中を走る。窓から入る風が春の気配をはらみながら吹き込んできた。やがて道路から未舗装の脇道に入る。壊れかけの車がガタガタと左右に揺れる。
レオ青年ととりとめのない世間話を交わしているうちに、これから行く場所についての話になった。
「手記が発見されたのは、元はアルデンヌの名家が住んでいた館で、この先のモナークという小さな村の一番奥にあるんすよ。でっかい館でびっくりしますよ」
地方貴族が代々所有していた館なのだが、大戦中に直系が絶え、不便だし維持費もかかるとかで売りに出されたという。
「そこから色んな持ち主を経て、俺の遠縁に当たる人が買い取りました。それが今の館の持ち主っす。俺をちっちゃい頃から知っている人なんで、何でも見せてくれるんすよ」
「ああ、だからあの手記も入手できたんですね」
レオ青年はそうっす、と頷き、ハンドルを握りなおす。車は村らしき集落の脇を通り抜けた。
半分森に覆われたような場所にそれはあった。
牧歌的な風景の中に現われた古めかしい館。外観はバロック様式で、元は白かった壁が黒ずんでいる。直方体にカットした石材を何十段も積み上げた壁面は横に長く、玄関を中央に右翼と左翼の距離は左右対称になっている。その玄関は神殿の入り口にも似た四本の柱が立ち、馬車を止めるために張り出した屋根を支えている。
「あ、着きました」
車は館の目の前の草原に止まる。レオ青年が車のドアを開け、外に出て新しい空気を肺に取りこむがむせる。
館に近づいていくと、長年雨風に晒されて傷のついた壁面には何十もの窓があり、さらに近づくと聖人のレリーフが壁に掘りぬかれていたことに気付く。
一目で芸術的と評したくなる館であることは間違いなかった。だが館の佇まいは陰気なものだ。吸って吐いた息にカビが混じっていそう。到着とともに晴れていた空の雲が厚くなったからかもしれないが。
こんなところで手記が見つかったのかと思うと、「らしい」と言えば「らしい」。アルデンヌ貴族の城館は現在も国内のあちこちに点在しており、調査の手が及んでいないものも多い。特にこのような中小規模の城館は貴族の子孫が大切に守り続けていることがある。
レオ青年が得意げな顔で館へ大股に歩きだしていた。
「ここは金糸雀館と言うらしいっすよ。綺麗な名前でしょ?」
私は彼の背中を追いかけたのだが、じくじくと胸の内に不安が溜まっていく。
どうしてだろう。なつかしささえ感じるのに、中に入るのが躊躇われた。
彼が羊頭を象った木製のドアノッカーで扉を鳴らす。中からは白いショールを羽織った白髪の老婦人が出てきた。腕にポメラニアンを抱えている。
「おばちゃん、どうも」
レオ青年は気楽な挨拶をする。その斜め後ろから顔を覗かせる形になった私も「はじめまして」と軽く自己紹介をした。
「リディ・フロベールと申します。本日はこちらからの不躾なお願いをこころよくお受けくださりありがとうございます」
ええ、と夫人は口元を片手で覆い、目元をくしゃくしゃとさせながら微笑む。
「いらっしゃい。レオ坊ちゃんとフロベールさんね。聞いているわ。ようこそ、金糸雀館へ」
「失礼します」
青年に続いて内部に一歩踏み入れる。途端にキャンキャンキャンッ! と犬が怯えるように吠えだした。……私に向かって。
「ごめんなさいね」
老婦人は一言断ってから赤ん坊をゆするようにポメラニアンを抱えなおした。首に結ばれた赤いサテンのリボンが頼りなく揺れる。
「変だわ。いつもはもう少し人なつこい子なのよ? フロベールさん、どうか気にしないでね」
「ええ、お構いなく」
「うーん、おかしいなあ。俺には結構寄ってくるのに。いたっ!」
犬は頭を撫でようとしたレオの手を噛もうとした。驚いた婦人が小柄な身体を取り落とす。玄関ホールから奥まった廊下へと一目散に逃げていった。
「あら、どこへ行くのかしら?」
おっとりと犬を見送った婦人は、客人二人に向き直り、サロンへ誘った。
温かみのある暖色の絨毯やタペストリーに囲まれた廊下を通り抜け、大きな窓に面するサロンの長椅子に腰をかけることになる。
「ルチアはどこに行ったんだろ」
犬の名を呼びながらレオは頭を巡らせる。女主人は鷹揚に言う。
「いいのよ。しっかり戸締りをしてあるから外には逃げられないの」
その視線は私へ向いた。
「すっかりそこのお嬢さんに自己紹介するのを忘れていたわ。わたくしはハンナ・ミュラー。今、この館に住んでいる住人なの。ここは亡くなった主人が十年前に購入した物件の一つで、以来、ずっと住んでいるわ。こちらの坊ちゃんはわたくしの父方の遠い親戚に当たるの。小さな頃から知っているわ」
「おばちゃん夫婦は不動産業で成功しているんだ」
彼の補足も入った。成功しているからこそ、このような城館を購入できたのだろう。
「そうなんですね。ミュラーさん、よろしくお願いします」
私は彼女と握手を交わす。レオ青年は少し恥ずかしげな様子で「やだなあ。もう坊ちゃんという年齢でもないのにさ」と頭を掻いた。
「だってわたくしからしたらいつまでも可愛い坊ちゃんなんだもの。あなたったら昔からちっとも変わらないし。見ていると安心するわ」
「成長してないってこと? それもやだよ」
レオは渋い顔をしているが、どこか茶目っ気があった。彼の冗談も理解した様子の老婦人はほほほ、と笑う。
「良いところが変わっていないということよ。そうだわ、リディさんはご存知? この子、こう見えてよいおうちの坊ちゃんだから育ちもよいの。のんびりしているところもあるけれど、ぜったいあなたを裏切ることはしないから大丈夫」
くすんだ緑の目が私へと向く。どうやら彼女は誤解しているらしい。
レオは慌てて否定した。
「ち、違うよ、おばちゃん! この人は俺よりもずっと優秀な研究者なんだからさ。ほら、国立国民議会図書館に勤めている人と言っておいたでしょ!」
「ええ、聞いたわよ。彼女の気を引きたくて、わたくしに協力を求めてきたのでしょう?」
「違うよ!」
レオが否定しているのに、ミュラー夫人は聞いていないのか、いいわねえ、とうっとりした口調になる。
「若い人は情熱に身を任せるべきよ。失敗をしたって構わないわ。その経験こそがいい男やいい女へ磨くことになるのだから」
「いや、だから……。まあいいや。リディさん、ごめん」
私は苦笑いで応じてみせる。彼の赤く染まった頬には気づかないふりをした。
「こちらに興味深い文献があると伺ったので参りました。さっそくですが、見せていただけないでしょうか?」
「ええ。そういうお話でしたものね。ちょっと待っていてね」
席を立ったミュラー夫人はすぐに紅茶とビスケットの乗ったプレートを両手に戻ってきた。
「フロベールさん。せっかくですからお茶に付き合ってくださらない? こんな辺鄙な場所にいると、普段は決まった人としかおしゃべりしないものだから」
「先にあれを見せてあげたら?」
レオが苦言を呈した。
「リディさんにも予定があるだろうし。夜に移動するのは危険なんだからさ」
「ええ。特に今晩は嵐が来るのですって。通いの家政婦が言っていたの」
「だったらいつもより早く帰らないと」
「もう遅いわ」
老婦人はにこりと笑んだ。
「今から帰っても雨に降られてしまう。あの車でイーズに戻るのは難しいでしょうね」
「アプリの配車サービスを使えば……」
「こんな田舎まで迎えに来てくれるドライバーはいないわ。どちらにしても二人とも今晩は泊まることになるわね。もう別部屋を用意してもらっているから安心なさい」
「え、えー……。リディさん、大丈夫っすか?」
「もちろん」
私はすぐさま承諾した。本の所蔵者が望んでいるのだから。元々、イーズのホテルで一泊するつもりだったのだが、ここに宿泊する方が何かと都合がいいのは間違いない。
「ホントは寮に帰るつもりだったんだけどなぁ」
レオがぼやくと、老婦人はぴしゃりと「諦めなさい」と告げた。
「こういう時は動かないのが一番なの。嵐の夜には使者の魂が生者を死後の世界へ連れていこうとするものだから」
「またイーズの迷信の話?」
夫人は神妙な顔つきになる。
「ええ、そう。主人が亡くなったのも嵐の夜だった。迷信は何か理由があるから迷信になるでしょう? この古い館にもそれなりのいわれはあるらしくて、村の人は近寄らないの。これもまた理由があるのかもしれないわね」
老婦人はソーサーにカップを置いて、四角く切り取られた窓の外へ身体を向けた。すでに窓には雨粒の筋がついている。むせび泣いているような激しい雨音が耳につく。
「主人は嵐の夜に外出して、『死者の列を見た』と興奮気味に語ったの。その翌朝にはもうベッドの中で冷たくなっていた。もしかしたら今夜は主人があの死者の列に加わっているのが見られるのかもしれないわね……」
この時の彼女の横顔を忘れられない。自分の夫のことなのに、まるでさして親しくもない顔見知りの近況を淡泊に語っているような印象を受けた。なんてつまらなさそうな顔をするのだろう。