チューベローズ
下院選挙の結果が出た。青の国家民主党が赤の労働党に議席数で勝り、政権が交代、大統領も変わることになった。地元の選挙区では、大方の予想通り、マクレガン氏は地区の首位当選を果たし、二期目の議員生活を確保した。ゴッドフリート氏は票が伸び悩み、落選。彼の落選はさして大きなニュースにもならなかった。
職場近くで設営されていた選挙スタンドが次々と解体されていくのを眺め、このお祭り騒ぎが終わることにほっとする。
当選した議員は明日には議会に集まり、まもなく新しい議会が始まる。結果、国立国民議会図書館への調査依頼も増え、私の知る日常に戻っていくのだろう。
その日、私は用事があって、はやめに国立国民議会図書館の門を後にした。
路面電車に乗ろうと停留所へ歩きかけた時、腕の辺りを叩かれた。
そこには背広姿の見知らぬ紳士が立っている。「渡し忘れたものがあったから」と言って、苺柄の包み紙にくるまれたキャンディーを掌に載せてくる。
「予言しよう。あなたはすぐに待ち人に会えることだろう」
その意味を問う前に、紳士は颯爽と歩き去っていく。その際に、胸元で金色の十字架が揺れている。ぶるりと悪寒が走る。
包み紙をほどいてみると、市販のストロベリーキャンディが入っていた。食べようという気も起きない。
その男は、若いころのゴッドフリート氏にとてもよく似ていた。
まもなく、向かい側からある人が現われた。彼が『待ち人』だったのか。
「……チューベローズ」
ふらふらと歩いてきたその男は、にこりと柔和に笑う。私の知る彼とは入っている魂そのものが別のものに入れ替わって見えた。表情も、目つきも、纏う空気感そのものが違っている。
彼の唇にはピンク色のリップがつやつやと塗ってある。
「あら。ばれていた?」
今の彼はとても女性的……いや、中性的だった。歩き姿、首を傾ける仕草、声の張り方。すべてが柔らかみを帯びている。自然なようであり、高度な演技をしているようでもある。彼の素がわからない。
「もう私に用はないと思っていました」
「そんなことはないよ。あなたに会いたくなった。これは本当。でもどこからその名を聞いたのかは気になる。大方、あの上司が言ったのかな。『チューベローズ』という名前も使えなくなってしまうわね」
「あなたを何と呼べばいいですか?」
「なんでも。ヘクセン・クォーツでもチューベローズでも。どちらの名前でも返事をするわ。わたしの名前ではないけれどね」
「はじめからそのつもりで私に近づいてきたんですか。あの、繊維街から」
「運命の出逢いだと思った?」
「……いいえ」
否定する声が固くなる。
「そうだね。あなたはいつも慎重だった。どうにもあなたの好みの男にはなれなかったみたい。あなたはああいうのが好きだと思ったんだけれどな」
「けれど、私には見破れませんでした。諜報員が身近に潜んでいるなんて、普通に生きていたらありえません」
見合いの席で彼に会った後、送ってもらう際に彼の職場に連絡したが、それも彼の携帯端末を借りてかけたものだ。いちいち番号を確認していなかった。それ以降、私は彼を微塵も疑わなかった。ふつう、警察官ならシフト勤務しているのに、彼はいつだって午後七時に『ムーラン・グロッタ』にいた。あまりにも大きい嘘に思考が及ばなかったのだ。
「ふふっ。それはどうかしら。あなたは自分が普通の人だと思っているの? 他には滅多にいない特別な人なのに」
視線が斜め下に動く。鞄から頭の上半分だけ見せていたテディベアへ行く。彼はマリーが言葉を話すことを知っているのだ。
「空き巣が入ったのも、あなたが……」
「関わっていないと言えばウソになるわね。わたしが仲間に指示したの。相手がなかなか心を許さないからって」
「小型メモリの隠し場所に、心当たりはなかったようには思えません。マリーのワンピースについたポケットには気づいていたはず」
彼は手の甲を口元に当てて笑った。
「彼女は最強の防犯装置ね。知っていて、手を伸ばしたら馬鹿みたいでしょ? すぐにばれちゃう。でもね、いいのよ。今回の任務は失敗した方が正しい。空き巣の件も失敗したと印象づけるために必要だった」
「……え?」
不審に思っていると男はいっそう笑みを深める。
「わたし、全然国家に対する忠誠心はないの。誰がわたしの能力を買ってくれるか。それだけ。知ってる? 諜報員が一番輝く時は平和な時。戦争中になったらどちらがどれだけの血を流すか、ただそれだけのこと。スマートじゃないから嫌い。この仕事が好きなのよ。たくさんの人間の仮面を付け替えて、器用に世間を渡っていく。誰にも縛られないわ」
彼はとても楽しそうだ。ヘクセン・クォーツだった時よりも。
「……その話し方も、仮面ですか?」
「どうだと思う?」
わかりません、と正直に首を振る。彼は秘密を打ち明けるように人差し指を唇に当て、首をかしげてみせる。
「君もこっちの世界へ来たらわかるよ」
きっと、これは私への誘いなのだろう。承諾すれば今まで見たことのない刺激的な日常が待っている。それが彼にとっては何より楽しいことで、人生を賭けるにふさわしいことなのだ。
けれど私には二人の間に透明な壁が張られたような気がした。私と彼は違う。地に足を付けようとする私の生き方は、彼の生き方と交わらない。
「そんな器用なことはできそうにありません」
「そうか。今、満たされているんだね」
はい、と言いながら、身を絞られるような寂しさも感じていた。このやりとりが終わったらこの人はいなくなるだろう。チューベローズ。『危険な誘惑』という花言葉を持つ花の名で呼ばれている彼は、今ここで最後の誘惑をしているのだから。それは私への好意が裏打ちされているのではない。彼はあくまで彼自身のためにそうしているのであって、来たら助かる程度の軽い気持ちなのかもしれない。そう、気持ちの重さに差があることが私を決断させなかった最大の理由なのだ。
「ある本で読んだことがあります。人間が相手に好意を持った時、話していると瞳孔が開くんだそうです。だから相手の目は大きく見え、一層魅力的に見えます。だから『瞳に吸い込まれそうな』という表現があるのだと思います。でもあなたはそうは見えませんでした。ずっと、変わらない目をしていました」
彼の反応はあっけらかんとしていた。朗らかに「ならもう用はないね」と告げて、私とすれ違うように歩き出した。
さようならの言葉もないが、これが本来の距離感なのかもしれなかった。私だけが彼の後ろ姿を名残惜しく見つめている。
そして幻を見た。ドレス姿の金髪の女性が、彼と腕を組んでいる。彼を見上げたその横顔が、不思議と鮮明に見えた。
人生の幸福を得た女性アン。
稲妻のように脳の回線がスパークし、反射のように首から下げていたネックレスをむしり取っていた。
ああ、そうか。本当ははじめから繋がっていたのかもしれない。それこそが『運命』だったとしたら、受け入れられる。
「チューベローズ!」
「おっと」
叫ぶのと同時にネックレスを投げる。振り返った男は目を見張りながらとっさに右手でキャッチした。
「それはあなたのものだったみたい。あげる!」
「はっ……? え……?」
立ち止まった男はネックレスを掲げた。その傍らには女性が優しい顔で寄り添り、夕陽に照らされて鈍く輝く金色を見上げている。
やがて男はネックレスを包み込むように握る。こう言った。
「返してくれてありがとう。リディ・フロベール!」
ネックレスを握った手を大きく上げて、彼らは去った。
ふと足元にはカラスがいて、グワア、と啼いたが、目をこすったらいなくなっていたからこれも幻覚に違いない。
次で第二部最終話です