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何者

 神学部はイーズ大学最古の学部だ。イーズに点在する大学のキャンパスのある区画は観光客の喧噪から離れた静かな通りの突き当りにひっそりと門を開いていたので中に入った。

 イースター休暇中のため、人をほとんど見かけない。門の傍らでモクレンが塀を越えるようにして花を咲かせていた。

 神学部の建物は何度か建て直されているようだが、私の探していた礼拝堂は古くからの姿をそのまま留めていた。

 幸いにも入り口の鉄扉は開かれていた。そっと中を覗けばキリストを讃える十字架と祭壇がある。オレンジ色の電飾で照らされた内部に人の気配はなかった。

 さして広くない礼拝所の床に大きな石板が嵌められている。これにはこの礼拝堂の地下墓地で眠る遺骸の人物の名が刻んである。ラテン語だ。長い時間経つうちに摩耗した石板に目を凝らし、五つ目か六つ目でようやく見つけた。

 しゃがんで表面の細かい砂を払いよける。名前、生きた年代、功績、生前の顔が彫り込まれていた。花束は石板の上に置く。生前の年老いた顔をじっくり眺めた。

――初めて会った時、彼はまだ三十代。はじめはイーズ大学で教鞭を取る教授だと聞かされていた。十代のある少女は見慣れない年上の男性に不信感がぬぐえない目をしていたはずだ。しかし、彼は反抗的でないにしろ積極的でもなかった生徒に対して、呆れず、媚びず、激高しなかった。根気強く帝王学やその他の学問を叩き込み、少女の不信感まで鮮やかに拭い去ってみせた。「私」の知る中でもっともすぐれた学問の師は彼だったように思う。

『先生、お元気ですか? ご無沙汰しております。マリー=テレーズです』

 私の中から自然と彼女の言葉が出てきてしまい、違う、と首を振る。また記憶がとっちらかっている。

彼は女王の死から四十年以上生きた。女王の家庭教師を務めた後、大学に戻り、イーズ大学総長まで上り詰めた。これで世俗の権力にまみれて野心家になっていればただの凡人だが、先生は生涯を高潔な人柄で通せたのだからすごい人だ。

『ヘンドリクス先生は大往生なさったんですね。しかも大学の特等席での埋葬だなんて。最期まで慕われていたのですね』

 自分にも厳しかったが、他人にも厳しかった。そのせいでかなり怖い人に見られていたようだが、彼に教えられた生徒は彼の言葉の裏側に潜む優しさに気付いたはずだ。

 法律、経済、官房学、数学、天文学、神学、哲学、文学、弁論術。彼自身はカトリックの聖職者であったけれど、宗教上の偏りがないように異端とされたアリウス派や東方正教会、他宗教のユダヤ教、イスラム教のことも極めて理性的に教えてくれた。

 彼はヘンドリクス・マグヌスという。

『あの頃から三百年経ちました。このアルデンヌもずいぶんと変わりました。もうあの時代を覚えているのは私だけだと思います。死んだ後でも、記憶を手放すことができないで。どうしてなのかはわかりませんが……先生ならなんとおっしゃるのでしょうね』

『先生は青いヒヤシンスがお好きでしたよね。昔、宮殿に咲いていた青いヒヤシンスをじっと見つめたまま動かないでいたのを覚えていますよ。先生も美しいものに心動かされる時があるんだと妙に感動したものです』

『ご挨拶が遅れて申し訳ありません。本当はもっと早く来るべきだったのに、勇気が出ませんでした。イーズは先生と深い繋がりがあったのに』

 辺りはしん、と静まり返っている。だから言ってしまおうと思った。

『本当は、淡い初恋を抱いた人の墓をわざわざ目の前にしたくなかったんです。現実を見てしまうでしょ? でも、今は来てよかったです。懐かしい思い出として穏やかな気持ちでいられるんです。私、冷たいでしょうか?』

『先生。これまで助けていただきありがとうございました。マリー=テレーズだった時はお礼を言えず仕舞いだったので気になっていたんです。じゃあ、さよなら』

 頭がずきずきと痛むのをこらえ、立ち上がった。

 照明が電気になったこと以外、この礼拝堂は三百年以上ほとんど姿を変えていないのだろう。

 だから、女王の記憶に引きずられてしまうのかもしれない。私の心までもが過去に飛んで、女王の気持ちと重なって、勝手に口が動いていた。

 私にとって『生まれ変わり』は、呪いだ。近寄ってはいけないとわかっているのに、心惹かれて、近寄ってしまう。ろくなことにならないといやというほど知っていたのに。

 熱くなった目元を拭っていたら、カチ、と音がした。反射的に振り返ったのだが。

 鉄扉は閉じたまま。誰もいない。背後で小石が転がった気がしたのに。



 イーズの街を軽く散策しているうちに、午後五時を回っていた。乗車時刻のことも考えて早めの夕食を取ることにする。先生にいただいたメモを頼りに店に向かった。

 先生のおすすめのレストランは、ノスタルジックな木造の一戸建ての一階にある。人気店なのか、席はすでに半分ほど埋まっている。

 ウエイターに通されたのは通りに面した一階の窓際の二人席だ。オーク材のテーブルの上には黄薔薇の一輪、ガラスの花瓶に挿してある。インテリアはアンティーク調でとても居心地がいい。

 注文を取りに来たウエイターが「ここのおすすめは牛肉の煮込み料理ですよ」というものだから、そのまま従った。

 一人で頬杖をついて、窓から外を眺めればまだ明るい。近頃は日照時間も長くなり、日の入りも遅くなった。季節はすでに夏に向けて走り出していた。

 表の石畳の道はひっきりなしに人が通る。たまに観光用の馬車も過ぎていく。若者が多い気がしたが、イーズは大学の街だからだろう。

 その時、ふいに声がかけられた。

「あー、すんません」

「はい?」

 窓から視線を移すと、テーブルの傍らに人が立っている。派手に自己主張する青い髪に、リング状の銀色のピアスが鈍く光っている。近くで見ると、顔立ちは素朴だが整っていた。人懐っこくにこにこしながら、椅子を指さした。

「ご一緒してもいいっすか?」

「いいですよ」

「どうも!」

 彼は椅子を鳴らしながら腰かけた。私の正面の席だ。ウエイターには慣れた調子で私と同じメニューを注文し、あらためて私に向かって身を乗り出した。

「俺、レオ・レイマンって言います。イーズ大学の大学院生で。あ、今日のシンポジウムでの発表をしました! 覚えてますか?」

 はい、と頷くと、彼はほっとした顔になる。

「そうっすか。なら話は早いっすね。あなたはうちの先生とお話ししていた人で、シンポジウムで最後の質問をした方ですよね?」

「そうです。あの先生はよく私の職場まで調査にいらっしゃる関係で知り合いなんです」

「そうっすか。だったら……」

 彼は躊躇うように私を眺め、口をもごもごとさせ、右耳のピアスをいじる。強そうな外見に反して、繊細な青年のようだ。

「あの、変なことを聞くようっすけど、いいっすか?」

 了承すると、それに勇気を得たように、強く言葉を区切って、こう言った。

「俺、今日昼間に見たんすけど。神学部の礼拝堂で」

「礼拝堂? ええ、まあ、行きましたが」

 少しだけどきりとする。ヘンドリクス先生への言葉を聞かれたのかもしれない。客観的に見れば奇妙なことを喋る女に見えただろう。

「……青いヒヤシンスを」

「はい?」

「どうして、青いヒヤシンスを置いていったんすか。俺、どうしても気になって!」

「え、と。私、何かまずいことでも?」

「え、いや。そういうわけでもないっすけど。うん、全部俺の勘違いで、偶然なんだと納得したいだけなんすけど」

 だんだんと俯きがちだった目がふいに私の顔まで戻ってきた。

「うちの家は少し特殊で。祖先の遺言で、代々、あの礼拝堂に青いヒヤシンスを供えているんすよ。墓の人が好きな花だったから。でも、そんなことは内々しか知らなくて、他の人が花を供えることも滅多にないんすよ。俺はしきたりだから定期的に花を買って、シンポジウムも早く抜けて行ったら。先にあなたがいて、青いヒヤシンスが置いてあった。こんなことははじめてで、不思議で仕方がなくなって、あなたに声をかけようと思いました。……つまり」

 チャリリ、と来店を告げるドアベルが鳴る。常連客がウエイターに軽く声をかけているのが店内に響くが、緊張を漂わせた彼の耳には届いていないのかもしれない。

「あなた、何者っすか」


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