過去と未来
『ムーラン・グロッタ』の夜。高いテーブルの上に、空のグラスが並び、客たちが思い思いに酒を呑んで楽しい時間を過ごしている。
静かなトーンでたわいのない話をしていたヘクセンが「しっ」と口元に人差し指を立て、鋭い視線を背後に向けた。どうしましたか、と私の声も掠れる。
「たぶんこれから面白いことが起こるぞ。後ろの男女に注意してみて」
「はい」
背後のテーブルに腰かけていた男女は恋人同士のようだ。笑いが絶える様子はない。しかし、男の方が真顔になる。椅子を降り、その場で膝をついた。紺のジャケットから出した小箱からダイヤモンドの輝きが放たれる。
男性は「僕と結婚してくれる?」と言い、女性は驚いたものの、感激したように二度、三度と頷いた。店内から湧き上がる拍手。私も釣られて手を叩いた。
「どうしてわかったんですか?」
手品のタネを知りたがる子どものような気持ちでヘクセンに訊ねれば、たいしたことじゃない、と前置きしてから、「人を見るのが癖なんだ。彼は笑顔のようでいて、緊張している様子で、しきりにジャケットのふくらみを気にしていた。目の前の恋人とも順調そうにみえたし、プロポーズでもしそうな気がしたんだ」と答える。
細かいことかもしれないが、実際に当ててしまえるのだからすごい。
「ほかにもわかることはあったりするんですか?」
「もちろん。君の秘密のこともね。目は雄弁に物を語るから」
鞄から頭をひょっこり出していたテディベアが「マリーのこと?」と言いつつ出てこようとした。なんと無防備な。綿の詰まった頭を押さえる。
彼は私とマリーの攻防を微笑ましく見守っているようで気まずい。ただその時に、漠然と違和感を持った。私を見るヘクセンの目。黒い瞳に私が映っているだろうに、そこからにじみ出る感情がない。それはさきほど、プロポーズした男性のした眼差しとは熱量が違うように思えた。
この人は何を考えているのだろうという疑問が小さな棘のように心に刺さっていつまでも抜けないでいる。
だからこうも思った。彼は好意を態度で示そうとしているけれど、その実、私に恋をしていないのかもしれない、と。
表向きは平和な日々だった。有給休暇を終え、仕事に復帰する。空き巣が入ったことは職場にも知られており、口々に労われた。当の空き巣はまだ捕まっていない。盗まれたものもないため、警察もそこまで熱心に捜査している様子もない。
一方で世間は選挙の終盤戦だ。選挙動画が携帯端末の動画サイトを席捲し、演説番組が放送され、拡散された。閲覧数に比例して、さまざまな人々がコメントを書き込み、自由に議論を戦わせている。
私は単なる興味でマクレガン氏の演説を閲覧したものの、思いのほか引き込まれてしまい、最後まで見てしまうことがあった。普段は軟派な印象なのに、演説での彼はまるで遠くの知らない人間のように映るのだから不思議なものだ。
さて、マクレガン氏の対抗馬として出てきたブラックロペス・ゴッドフリート氏は演説動画を出しておらず、もっぱら街頭での演説や選挙チラシで地道に活動しているらしい。一時期は熱狂的な信者もついているようだが、今は下火になっている。
それは彼のカリスマ性を支えていた神秘性が薄れたことも関係あるのかもしれない。
つい先日のことだ。とある週刊誌がゴッドフリート氏の記事を出した。『ゴッドフリート氏の過去はエリート軍人で、精神疾患と飲酒を理由に懲戒処分にされていた』という趣旨の記事だ。
見た目には顔面が髭で覆われているゴッドフリート氏だが、週刊誌に掲載された写真の彼はいかにも清潔感あふれる知的な青年である。現在の彼と面立ちも通じており、本人であることが明らかだった。
私をオフィスに呼び出した上司はこの記事を示しながら、「うん。これでもう大丈夫だろう。よかったね」と言った。
「あの、説明してください」
「……それは必要かなあ」
「必要ですよ!」
そんな問答を経た後、上司は「端的に言えば、君に預けた小型メモリのことだよ」と言った。
「あれですか」
私はテディベアを持って戻った。上司は渋い顔をしながら、ワンピースのポケットに手を突っ込む。わあ! とマリーが大声を上げる。上司は渋い顔のままでびくっと肩を揺らした。
「なんてハレンチなおじさんなのかしら。乙女の身体に無断で触るんだもの、地獄に落ちればいいのよ」
べえっ、と言うマリー。どうやら舌を出したつもりらしい。
「フロベール君。これは机の上に戻してきなさい」
「はい」
話が進まないと思ったので、自分のデスクに戻してくる。
上司は小型メモリを指でいじっていた。
「これには機密情報が入っていたんだよ。もっと具体的に言えば、我が国の軍隊の中にある、諜報機関に属していた人物たちのリストだ」
「諜報員の情報ですか……」
なんという危なっかしいものを預けてくれたのか。
「改名前のブラックロペス・ゴッドフリート氏の情報もここにある。どういうことかわかるかい?」
「彼が軍関係の、それも諜報員だということですか」
「そう。やっぱり、昔から軍隊というものは国政にも力を及ぼそうとしてきたからね。時に与えられた権力を望まない方向に使おうとする」
彼は軍の強硬派が、選挙を機に国民を二分化して争いを生じさせようとしていたと語った。
「ゴッドフリート氏の手法は、国民に潜在的に存在する暴力的な思考を喚起させようとするものだ。我々が世間に揉まれる中で得てきた常識や道徳観念を捨てさせ、感情的な理由だけで他人を淘汰させようと仕向けている。厄介なところは、多くの人が心のどこかで本当に思っていることだよね。ゴッドフリート氏の言葉は不満を持っている人に対してその思いを解放しても構わないと促している。魅力的な誘惑だよ」
「そんなことをしなければならない理由がありません」
「今が平和だからじゃないからかな。軍に費やす予算は年々削られていることは君も知っているだろう? 彼らは自らの存在意義を証明しようとして、自作自演を試みようとしたんだよ。ゴッドフリート氏というカリスマ的指導者を誕生させることによって」
「無茶苦茶ではありませんか」
「でも、ありえない話でもない」
我々には理解しがたい思考だがね、と上司は付け加え、コーヒーカップを傾けた。
「小型メモリが狙われたのは、彼が軍籍にいて、諜報活動に従事していたという証拠でもあるからだ。ただし、それはもしもの時のスペアだけれどね。オリジナルは今、スクープを出した週刊誌の会社の秘密金庫の中にでも仕舞われているだろう」
「諜報員の死は、自らそれと知られてしまうことですから、私がもう狙われる必要もないわけですね」
「正解」
上司はにこりと笑う。
「ちなみにこれは本当に君への試験も兼ねている。君は機密情報を漏洩せず、無事に守り切った。ようこそ、国立国民議会図書館へ」
差し出された手を、お世辞代わりに握り返す。私が何かを成し遂げたという自覚はなかったけれど。
「一つ教えていただきたいことがあります」
「何かな」
「『チューベローズ』をご存知でしょうか?」
「僕は会ったことがないなあ」
上司はのんびりと答えた。
「ただ、リストに名前はあるよ。どうやらハニートラップが得意な諜報員らしいね」
心臓が、不穏さを敏感に感じ取って激しく鼓動する。
もし仮に、と前置きしてから彼はこう言う。
「君の近くにそれらしき人物がいたとしても、それはそこまで不思議なことじゃない。君は、自分が若くして国立国民議会図書館の職員になれた理由をわかっているよね?」
「それは……」
「自分では言いにくいか。これでも僕は感心したことがあるんだよ。君が入館する前に作り上げた、子供向け図書館教育プログラムの出来に。君は古い書物にも精通していながら、高いプログラミング技術も有していた。全国プログラミング大会のプログラム部門で一位になった優秀なプログラマーでもあった。今はおくびにも出さないけれどね。しかし本人の意向を置いておいても、軍にとって引き入れたい人材だということだろう」
入館した当時、新聞社の取材を受けることになった。彼らの関心は、私が最年少で試験に合格したことと、プログラミング大会で優勝した猛者が、より待遇のよい民間企業でなく古いものを取り扱う図書館に就職を決めた理由についてだった。
『これから求められる人材は、過去と未来、両方に通じる必要があると思っています。国立国民議会図書館では、国民のための最新技術を駆使しながら情報を提供し、一方でこれまで隠されてきた昔の書物の秘密を解き明かすことができます。私は、その成果でもって広く世間に問いたいと考えています。本当に、過去を振り返らず、未来だけを見つめるだけでいいのか、と』
私は今、職務倫理を問われているだけではなく、自分の生き方も問われている。