専門家はかく語りき
意外にも事態は午後遅くに動いた。突然の訪問者が興味深い情報をもたらしたのだ。
「みんな、ジェーン=アンナ王女が好きだよね。まるで熱病にかかったみたいに熱狂してさ。マリー=テレーズ女王とどうしても絡む人物だから僕も研究せざるを得ないけれど。やっていて燃えないんだよね。彼女の人生についてはすでに様々な学者が多方向からアプローチを試みているから。ありていに言えばつまらない」
一息に言い切った専門家はずり下がってきた丸眼鏡をぐいと上げた。
「けれど先生はジェーン=アンナ王女に関連した学会にも参加されていますし、学会誌にも寄稿されていますよね」
「そこが雇われ人の悲哀だよ。まあまあ面白い伝手が手に入るから捨てられないんだよねえ。この世界は人とのつながりも大切だ」
「大事ですね」
私の相槌に、先生はふと思いついたように言う。
「ところで君は幽霊を信じる?」
「幽霊、ですか? さあ、どうでしょう」
腕の中にいたテディベアがもぞもぞ動こうとした。だめ、静かにしていて。
「もしいたら、いろいろ聞いてみたいと思わないかい? 僕の感じている疑問の答えはあれですか、これですか? って」
「女王マリー=テレーズの幽霊に?」
「ジェーン=アンナ王女の幽霊がいるなら、いてもおかしくないさ。でも、彼女の死に方は悲劇的とは言えないし、心残りなく死後の世界に飛び立ったのかな。
ああ、でも君はこういう話は嫌いだっけ。ロマンがないから」
言葉に少しだけ棘がある。近頃、研究が進んでいないのだろうか。
「先生、落ち着きましょう。効率が落ちますよ」
「そうかい。……そうだね」
先生は大きく息を吸う。
「ああ、そうでした、先生。少しこれを見ていただけませんか?」
首に下げていたペンダントを取り出す。
「なんだい、これは。ずいぶん古そうだけど……君、これをどこで手に入れた」
蓋を開けて「わたくしの最愛」「ジェーン=アンナ」の文字を見つけた彼はぎょっとする。
「私のものではありません。預かりものです。私自身も出所はわかりませんし、預かった人はこれを表に出さないことを望んでいます。先生の私見をお伺いしたくて。……『ジェーン=アンナ』の最愛は誰のことでしょう?」
「最愛と言えば、夫のリシュム卿と考えるのが自然だが」
先生はルーペを出した。ペンダントの傷一つまで丹念に観察する。
「彼女に関する膨大な研究史によればあの二人の同居期間はほぼなく、手紙のやり取りも事務的で簡素なものだった。少なくとも、リシュム卿の方はね。またリシュム卿は他に愛人がいたようだから、可能性としては低い。
歴史に名の残らない誰かだったら、僕たちにはどうしようもない」
手元のメモ帳に関連書籍や学術雑誌のタイトルを書きつけると、破ってこちらに寄こした。ざっと十冊はある。
「ありがとうございます、先生」
「たいしたものじゃない。それに、君が求めている答えはなさそうだ。王女の幽霊に会った方が手っ取り早いと思わないかね」
「会えたらこんな妙なことにはなっていませんね」
「たしかにね」
名残惜しそうに先生はペンダントを返し、頭を人差し指で叩く。彼の思考が煮詰まった時の癖だ。
「僕も宝飾品の専門家ではないから詳しいことはわからないよ。ただ、僕には当時作られた本物に見える。細工や形状からも何も不自然なところがない。うーん、由来も気になるし、どういう経路を辿って君の元に辿り着いたのだろう。ペンダントにまつわる物語、か……。これを王女本人が身に着けていたと考えると、わくわくしてくる。夢のある話だね」
「ええ、そうですね」
私はまたペンダントを服の内にしまい込む。
「『わたくしの最愛』の謎を解けたら教えてくれ。僕も知りたい。そうだ、君はこんな話を聞いたことはないかね。ジェーン=アンナ王女の生前最後の肖像画の話だ」
「生前最後の? いえ、存じ上げません」
「ならちょうどいい。あまり一般には知られていないだろうと思っていたが、正解だったようだね。
今残っている王女の肖像画は、ほとんどが死後に描かれたものでね、後世の美化が混じっているともいわれている。他に生前で描かれたものも、少女の頃の彼女だ。
でも一作だけ、世に知られていない肖像画がある。この肖像画は、処刑に赴く王女の直前の姿を書き写したものだそうだ。そしてその姿は我々の想像している王女の肖像とはあまりにもかけ離れていたために、いまだに世に出ることなく、ひそかに保管されている。もしかしたら、その知られていない肖像画の首には、そのペンダントも描かれているかもしれない。――そう、想像できないかね?」
「ええ、できます。……可能性は、ありますね」
わきあがる興奮を抑えながら、頷いた。
切れたと思った糸がつながった。
「その肖像画はどこにあるんですか?」
「場所は知っているよ。首都から二時間ほど車で走った山頂にひっそりと立つ小さな城だ」
「わかりました。どうにかしてアポイントを取ってみます」
「それは厳しいね」
先生はきっぱりと告げる。
「個人所有の城で、肖像画はその中にある。外部の人には絶対に見せない。僕の知る研究者が何人もその高い壁に挑もうとしたが、全員失敗した」
「大変そうですね」
頭の中はフル回転で城の持ち主へのアポイント方法を考え出していた。
「君、急にやる気が出てきたね。今日は元気がなさそうだったのに」
「あの、先生。その城の名前は?」
「フォルテンシア城。『赤き獅子城』とも名付けられている。王女が幼い頃に住んでいたこともある城だ。今は旧王族の所有で、パーティーや会合の際に使用されるんだそうだ」
「パーティー?」
「シモン騎士団だ」
シモン騎士団は、旧王族を中心に結成された慈善団体である。騎士団員は国内外関係なく、素晴らしい人物だと認められた名士ばかり。他国の首相や王族、貴族もそこに名を連ね、騎士の称号が与えられる。
世界中で、たった五百人ほどの集団だ。本部はこの国に構えているが、メンバーになることも、同伴者として会合や晩餐に参加することもかなり難しい。しかも秘密主義で外部に閉ざされており、内部を知る者はかたく口をつぐむ。
大部分の国民は、庶民に無縁の世界だと思っている。私だってそうだ。ふつうに生きていて踏み込む場所ではないだろう。
「我々が雲の上へ行くのは厳しい。悔しいことにね。騎士団のメンバーに知人がいれば話は別だろうが……」
「知人が騎士団のメンバー……わかりました。ありがとうございます。大変参考になりました」
先生が驚いたように私を見た。
「当てはあるの?」
「多少は」
笑みを作ってみせる。
「以前、どこかの雑誌の記事で読んだことがあります。彼が騎士団のメンバーになったという記事です。あとは誠意をもってお願いしてみようと思います」
えっ、あるの。
先生は「ははは」と声を上げて笑う。
「さすが国立国民議会図書館所属だ。有能だね。いってらっしゃい」