過去は変えられない
首都カールブルクから高速鉄道で約二時間。アルデンヌの南西部、フランスとベルギーの国境のほど近く。中世から続く街並みが美しい街、イーズに着いた。ここには世界的に有名なイーズ大学がある。イーズ大学は十五世紀に成立した国内最古の大学で、ノーベル賞受賞者をはじめ、数々の著名人を輩出してきた名門大学だ。
特に文学部は神学部に次ぎ長い歴史がある。建築物もそれに応じて、赤茶けた外壁に緑の蔦が覆っており、幾度も修復を施された跡がある。吹き抜けの中央玄関から二階へ上った先にある講義室がシンポジウムの会場だ。
革のショルダーバッグとチラシを手に持って、講義室前まで辿り着いた。ちょうどくたびれたジャケットを着た先生が出てくる。丸眼鏡の奥の目が見開かれた。
「誘ってはみたけれど来ないと思っていたよ」
「観光ついでです。有名な都市なのに、今まで行ったことがなかったので」
「なるほど。なら楽しんでいくといい。ここはとても雰囲気がよいところだ。どこも歩くだけで絵になる。流れる時間も首都などよりはよほどゆったりとしている。そこを流れる川のようにね」
イーズは街近くに大きな川が流れている。晴れた今日のような日には、川面が小金色に光る。時間を忘れさせる美しさとなっていた。
「建物もとても歴史がありそうですね」
「ああ。ここは四百年も経つ。よく見ると学生同士の決闘や大学闘争の名残で弾痕が残っていたりするよ。落書きも多いね。でも私のようにテクストを研究対象にしている人間には大好物だ」
「歴史に囲まれているわけですね」
いいだろう? 先生は自慢げな顔つきになる。
「終了後には近くのバーで懇親会があるんだが、どうかね」
「やめておきます。観光する時間が無くなってしまいますから」
「そうかい。君のことをみんなに紹介したかったのに」
「すみません。今日は日帰りのつもりなので」
それならば、と先生は胸ポケットから出した手帳に何かを書きつけ、千切って私に寄こした。
「私のおすすめのレストランだ。カジュアルで美味しい料理を提供してくれる」
「ありがたく使わせていただきます」
すり鉢状の会場には、人がまばらに座っている。先生の仕込みらしい学生が何人か退屈そうなあくびとともに席にいる。イースター休暇で時期が悪いとはいえ、シンポジウムのテーマそのものに魅力がないからではないかと疑った。
机の上にある資料をめくりながら発表がはじまるのを待っていると、件の『女王の手記』に関する資料にも行き当たる。
表題は『女王マリー=テレーズの恋の手記に関する考察 ―女王の恋人の存在について』とある。覚悟していたとはいえ、息が止まりそうになる。
恋の手記? なんだそれは。そんなものを残した覚えはない。なぜなら……。
司会者が登壇し、シンポジウムがはじまった。件の青年は二人目の発表者だ。
登壇した彼は、子どもが好きなチューインガムのような濃い青髪とシルバーのピアスをした個性的な青年だった。平日は音大生、休日は地下鉄の通路で型破りなヴァイオリンを弾いていそう。彼はいささか緊張した面持ちで、会場を見回す。
「レオ・レイマンです。どうぞよろしく。本日は女王マリー=テレーズの実像に迫る発表をします。つきましては、お手元の資料と、《レポジトリ》の起動をお願いします」
彼が壇上に用意した端末を操作すると、彼の手元に本のホログラムが浮かび上がる。それと同時に、参加者が受付時に渡された端末も連動して、同じ本のホログラムがそれぞれの席の前に現われた。
これは近年一部の大学や研究機関で試験的に導入されている《レポジトリ》という技術で、電子資料を三次元的に投影できるというもの。親端末と子端末があり、親端末が指定したデータを子端末で共有することができる。子端末のホログラムはタッチパネルのように触れることで操作する。
スキャンした古い本のデータを《レポジトリ》で投影させ、本を傷めることなく大勢で利用できるために、学術分野では話題になっていた。
なお、この《レポジトリ》は国立国民議会図書館でも導入が検討されている。一足早くここで使用できるとは思わなかった。こんな時でなければ心ときめいたに違いない。
《レポジトリ》に現われた茶色の革表紙の本をめくる。手記そのものは茶色に変色した牛皮に背表紙と右下の角がワインレッドの革で装丁された味のある品だ。ホログラムの投影は実寸大になっている。それによると、手記の大きさは片手に収まるほどでメモ代わりに書き付けやすい。見返し裏の右下に『マリー=テレーズ』のサイン。めくって手書きの筆跡を確認する。
中身は蜂蜜づけの砂糖のように甘ったるい言葉がアルデンヌ語で羅列されている。書き手はお花畑で呼吸しているような恋愛脳だろうが、それが間違いなく見覚えのある筆跡に思えるというのが不思議だ。
青年の発表に耳を傾ける。
「マリー=テレーズはリエージュ王朝最後の国王ですが、一般国民にはあまり知られていない……むしろ奔放な噂や風聞が当時の記録書や文学に現われています。そして女王像がどのように人々に受容されていったのかを考察する際に、時代によって異なることもあるでしょう」
レオ青年はその例を示すように紙の資料に抜粋された文章を読み上げる。
「……以上のように私が解き明かしたいのは、大衆が統治者を受け入れる際の伝播に働くダイナミズムです。彼女はその点で非常に興味深い例だと考えます。
彼女はアルデンヌ初の女王であることから、他の国王より当時目立つ存在であったのは間違いありません。ですが、彼女は当時と後世、どちらを見てもその功績に比して評価されていません。たとえば、イギリスのエリザベス一世などは彼女と生き様がとても似ているにも関わらず、国民から支持されていました。国が違うとはいえ、この差は何なのでしょう」
青年は聴衆を見渡しながら声を張る。
「人々は国王が代わるたびに、それぞれに国王像を抱きました。女王がどのように記録されてきたのか、つまりどのような女王像が流布していたのか。現代の研究者にはその客観的な証拠ばかり目が付くこともあるでしょう。しかし、私が解き明かしたいダイナミズムを知るためには、なぜマリー=テレーズ像が歪められたのかという疑問をもたねばなりません。すなわち、マリー=テレーズという、十八世紀初頭に生きたこの女性の実像に迫ることは大いなる意義を備えているわけです。
幸い、私には伝手がありまして、マリー=テレーズの手記を入手することができました。これはまだ世に知られておらず、今この場で初めて公にするものです。……私は、これを暫定的に『マリー=テレーズの恋の手記』と呼んでいます」
参加者の眼前にある本が自動的にめくられていく。彼は手記の記述をもとに女王の人物像を推測した。
「……このように女王の素顔を読み取れることでしょう。このように、彼女は素朴で、愛情深い女性だったと思われます。なお、この手記には全体を通して恋人の存在がほのめかされておりますが、特定には至っていません。何かご意見がありましたら御教授願います」
レオ青年は大きく息を吐いて発表を終えた。まばらな拍手が上がった。私は拍手をしなかった。
演壇の左側の席に座っていた先生を見ると、渋い顔。温厚な顔しか見たことがなかったので意外に思う。生徒にはこんな顔を見せるのか。
「レイマン。前にも言わなかったかね。この発表タイトルは死ぬほどダサいからやめろって。内容は置いておいても、聴衆を意識できていないようだ。興味を引くような話し方をしなさい」
ディスカッションに入った途端、先生はレオ青年への批判を開始した。熱意を通り過ぎて怒っている。
「正直言って、ガッカリした。私の疑問に思ったことがちっとも解決していないじゃないか。君の前には魅力的な資料が集まっていて、あとはそれをうまく解釈していくだけだろうに。
第一、私は言わなかったかね? 君の探し出してきた手記は、当時の貴族女性の心の動きを示している点で興味深いが、サインの通りに『彼女』の物であるかは、厳密に判断しなくてはならないと。君が今、していることは根拠のない仮説だよ。私はまったく説得されなかった」
レオ青年はこの間、落ち込むこともなくニヤニヤしている。軽薄そうな印象のため、あまり好感が持てなかった。
「先生は、女王の筆跡だとおっしゃっていたっすよね?」
先生は不機嫌そうに、紙の上を人差し指で叩いている。
「そうだよ。だがね、これまで女王の時代に係る様々な文献を読み研究してきた研究者の勘にはあまり引っかからないんだ。女王はそんなに色恋に情熱を燃やしていただろうかね。素顔の彼女はもっと合理的で、打算的、時には冷酷にも見える人物ではなかったかと思われるのだがね。君の主張はその手記に根拠を頼りすぎている。レイマンはまず価値が認められた資料から手を広げるべきだと思うね。今のままでは難易度が極端に高くなるし、女王の新たな人物像を開拓するには色々なものが足りていないよ」
「うえー……」
「大体だ」
青年の呻きを遮るかのごとく先生は告げる。
「そのお菓子の人口着色料みたいな髪で発表したところで君の論の説得力が著しく損なわれるとは思わないかね。あんまり礼儀だなんだとは言いたくないが、君の髪色ばかり気になって集中力がそがれるぞ」
「これは俺の主義っすよ」
「その主義を引っこ抜いて粉砕してやりたい」
「うえー……」
先生は呆れたようにため息交じりの息を吐く。青年は肩を落とし、自分の席にぐったりともたれかかる。
私の思う違和感は大体、先生が述べてくれたからよしとする。が、素朴な質問を思いついて、質問者としての名乗りを上げた。
立ち上がって人の注目を浴びる。
「一つだけ。なぜマリー=テレーズを研究テーマに選んだのかお聞かせ願いますか」
発表内容からずれた質問に、強張った顔色が緩んだように見えた。私をまっすぐ見ながら口を開く。
「はい。私にとって《彼女》は……他人より少しだけ近しい存在だったからです」
シンポジウムは約三時間で終わった。例の青年に声をかけてみようかと考えるが、会場に彼の姿はない。手記のことは気にかかったままだが、先生の教え子であるならいずれまた尋ねる機会もあるだろう。
前世は前世でしかない。今の私が前世の私に対してできることはないのだ。過去は変えられないのだから。