亡霊の首
時刻は午後八時過ぎ。
現代の都市は星の数の照明器具が地上世界を昼間のように演出しているが、空の堀に囲まれた大鴉の塔の一帯はブラックホールとなって、周辺のあらゆる光を吸収している。生き生きとした都市の息遣いをひっそりと下から観察するような不気味さがあった。
《大鴉の塔》は、マリー=テレーズ女王の生きた時代にはすでに牢獄としての機能を有していた。
だがどうしてだろう。私の知らぬところで、陰惨な歴史が掘り起こされ、剥製となって展示されている。
この場所は、本来国の守護を担う要塞であり、一時は王宮として使用された輝かしい史実もあったのに。
柵の下には石の階段、下に広がる砂利、半円形の門がある。
現在、その門が開くことはけしてない。
反逆者の門と言われたそこは、舟で入獄する囚人を出迎えたところ。《大鴉の塔》でもっとも忌むべき出入口。囚人たちのため息が染みついている。
「大鴉の塔でもっとも有名な囚人は? 著名な学者や修道士、王族たち、近世の軍人やスパイたちが収監されてきたものだが、私はあえてジェーン=アンナ王女について語ろうと思う。なぜなら、大鴉の塔でもっとも儚くも美しく、悲劇的な死を遂げた人物として大勢の記憶に今も残るから。
時はおよそ三百年前。これより誘うのも三百年前の世界。夜の闇はいつの世も変わらない……。諸君はこの夜の帳のうちでジェーン=アンナ王女の亡霊に出会うことだろう。だが、注意せよ。亡霊に魅入られたら、地上世界には戻れない。闇を通じてあの時代に引きずられないよう、どうか案内人の私から離れないように……見知らぬ隣人に気付かれないために息をひそめているとよろしい……」
行先を照らすランタンはあまりにもこころもとなかった。
集団のほんの三歩先にしか光が届かない。一人はぐれたら戻れない。彼の警告は参加者たちを威圧するのに十分だ。
「王女がこの門をくぐったのは1675年6月。しとしとと雨の降る夜間に侍女一人連れただけという、人の目に触れない形で行われた。その少女の心臓は小鳥の心臓と同じくらいに早く脈打っていた。『ああ、どうしてこんなことに。今頃、王宮では親愛なる従姉妹が戴冠式を行っているのかしら……』。心優しい王女は、自分から王位を奪った従姉妹を恨んでいませんでした。ただただ悲しかった。それだけなのでした。美しい容姿にふさわしく心根も優しい王女でありました」
一人ランタンを持たない予言者は長いローブの裾を翻す。淡々とした語りを交えながらも歩調に迷いはない。むしろ少し速いとすら感じられた。
自然、選ばれた十人の参加者たちの口数はだんだんと減っていった。集中しなければ知らない世界に置いて行かれる。そんな切迫感がそれぞれの胸にあったのかもしれない。
私は集団の最後尾にいた。最後に選ばれた参加者であったため、縦一列となった集団の最後になってしまったのだ。
夏が近いと言っても夜は肌寒く、わずかな風でも肌が粟立つ。
「みなさまも興味があることでしょう。ここは地下の拷問部屋。人を張り付ける拷問器具も、ほらそのまま残っている。犠牲者の悲鳴はそこの高窓から高く細く響いた。幽閉中でも庭の散歩が許されていた王女はその声を聴き、明日は我が身だと涙を流しました。そして犠牲者のために祈りを捧げました……」
「ここは赤い花の塔。この細く蛇行した階段を上っていけば八角形の漆喰の部屋に辿り着く。
この部屋はジェーン=アンナ王女が幽閉された場所。寒い冬にはあそこの暖炉の火に当たりながらその日を生き延びられることを感謝しました。彼女は高貴な囚人でしたからこのような大きな部屋を与えられ、侍女まで付けられたものでした。しかし、彼女は壁に刻み付けられた文字で現実を突きつけられたのです。文字を刻み付けたのは、彼女より前に囚人であった人々。彼らだってすべてが凶悪な犯罪者というわけではありませんでした。むしろ宗教的なあるいは政治的な理由で排除された敗者でした。
ことごとく塔で死者となった者たちの念がこもった文字は王女の心にまっすぐに届きました。『かわいそうな方たちのために私は祈りましょう。国の平和と、国民の安寧も……』。
そしてこうも嘆願しました。
『どうか女王陛下、お願いいたします。このわたしの身の保証よりもわたしを守ってくれていた者たち、わたし個人を守るために動いてくれた者たちをみだりに罰しないでください。お願いです、親愛なるお姉さま……』。
ジェーン=アンナ王女の純粋な願いは裏切られることとなりました。彼女の夫と義父の処刑の知らせが届けられたのは次の日のことです」
「《大鴉の塔》の中心に位置する《白の宮殿》。今は旧王室の宝物が展示されていますが、かつては中世の王宮として用いられたものです。王女はここで裁判を受けることになりました。潔白を示すように、真っ白なヴェールを被った彼女は、腹心の侍女に身体を支えられながら法廷に臨みました。すべての嫌疑を否定し続けた彼女でしたが、残念なことに裁判は王女に死を与えるための手段でしかありませんでした。彼女自身もそれを承知しながらも言わずにはいられなかったのです。『私は無実です、お願いです、お姉さまに会わせてください……』。
三日間というおそろしく短い審議ののち、陪審員一致で死刑が確定しました。仕方がありません、時代がそう望んでいたのですから……。では最後の場所へ向かいましょう……」
「ところで《大鴉の塔》では国同士で交換されてやってきた動物たちが飼われていました。中でも獅子はもっとも喜ばれる贈り物で多い時には十頭飼われていたこともありました。そういうときに、往々として世話係が獅子にかみ殺される《事故》が起こったものです。獅子はすぐさま処分されましたが、死体は《大鴉の塔》のどこかに埋まっています。今となっても夜に獅子が庭を歩き回り、獲物を探しています。五十年前までこの塔で行方不明者が相次いだのも、獅子に食い殺されたためでしょう。だからここに勤める《牛食い》たちは必ず魔除けの銀の鍵と銃を携帯しているのです……」
「貴人の処刑方法は、当時斬首刑でした。髪を短く刈り取られ、むきだしになった首を断頭台の前に横たえます。外国人の処刑人がそこに大きな刃物を振り下ろす。下手な処刑人は一度で首を落としきれず、二度、三度と罪人を苦しめながら斧を振り上げたものです。王女の処刑もこのように行われました」
前方で、無言のランタンの列が揺らぎながら進んでいる。黒髭のゴッドフリート氏の姿は闇色に溶けて見えないが、声だけは私の耳朶を強く打つ。
『リディ、リディ。どうかマリーの手を離さないで握っていて……』
テディベアの尖った鼻づらが私の胸に押し付けられる感触。
ようやくマリーの存在を思い出した。
『さむい、さみしい』と彼女は震えた。
『連れていかれそう。でも行っちゃいけないのよ……。目蓋の裏よりももっと深くて怖いところだから二度と帰れなくなっちゃう』
「気を強く持って。そうしないといつもなら怖くないものまで怖く見えてくるから。天井や壁のシミが人型に見えることだってあるじゃない」
暗闇を怖がる気持ちはわかるけれど、相手が怖がっているとこちらは冷静でいなければという気になる。励ますつもりで口に出したのに、想定外の反応が返ってきた。
『ちがう、ちがうわ、ばかリディ。ああもぅ……』
マリーは今にも泣きだしそうな声音で小さく叫ぶ。
『リディは気づかないの?』
事態は切迫している。言外に告げるようにマリーは早口になる。
『本当に連れていかれようとしているのはマリーじゃない。彼らが呼んでいるのは……! リディ、手を離したらだめっ!』
ゴトン。
「王女の首はこの場所で落ちた! まさにあなたが立っているところですよ、お嬢さん!」
ガスランタンの灯りがフッ、と消える。
一人きりになっていた。
テディベアは腕の中でくたくたになっている。まるで抜け殻のよう。
燭台の蝋燭に火が灯り、銀色の十字架とその下の古い祭壇を照らしていた。
《大鴉の塔》には礼拝堂があるのだ。今も高貴な身の上でありながら非業の死を遂げた人々が祭壇の下で眠っている礼拝堂が。
小さな足音が何重にも増幅されるような空間だった。
後ろから近づく音が一つ、二つ、三つ……。
右肩に、真っ白な手がかかる。細い女の指。振り向きたくとも、振り向けない。
私の躰は白い手の冷気が伝わってまるで氷の彫像と化している。
自分の唾を呑み込んだ音が大きく聞こえた。
首元を握りしめる。不思議なカラスから受け取ったペンダント。あれ以来、ずっと忘れず身に着けている。
ジェーン=アンナ。マリー=テレーズとは因縁の従姉妹同士ではあったけれど、意外にも生涯を通じて直接顔を合わせることはなかった。
しかし、たった一度だけ遠目に見たことがある。
背筋がぴんと伸びた流麗な金髪の後ろ姿だけ。
私は地上にいて、彼女は建物同士を繋ぐ高い渡り廊下にいた。
たった一つの年の差なのになんて大人っぽい子なのだろう。一方的に相手を見上げた私は自分自身と比べて嫌になった。
彼女は年上の従姉妹をどう思っていただろう。どうしてペンダントが私の手に?
「ジェーン=アンナ……?」
名を呼んだその時。手は私の肩を恐ろしい力で掴んで前へ突き飛ばす。
つんのめった鼻先でランタンが揺れる。
おや、とひっこめた声の主は、さきほどまで語っていたゴッドフリート氏だ。彼も一人だった。
「あなたは死者に出会われたようだ」
彼は私に振り向くようにと伝えた。
「そこにいる白い靄の女性。あれこそがジェーン=アンナ王女の亡霊だ。どうやら今回の交霊会でもっとも幸運な参加者はあなたであったらしい」
何を言われているのかさっぱりわからなかった。
たしかに私にも祭壇の傍でたたずむ女性の姿は見える。
女性には首がなかった。首は、彼女の腕の中で抱えられている。今にも血が滴り落ちそうなショッキングな姿に、一瞬我を忘れた。
しかし、ゴッドフリート氏が語るように白い靄がかかっているように私には見えなかった。むしろ首が落ちている以外に、生きている人との差がわからない。
さらにその首は。その髪色は。
ジェーン=アンナ王女の髪は誰もがはっと羨む金髪だった。
その女性の髪は、濃く茶色がかっている。
何よりも決定的だったのは女性の服装にあった。幽閉中の王女だとしても簡素な麻のドレスだった。
首を持った女性は地面を這うような低い声で呟きながら祭壇前を氷上をすべるような動きで横断していく。
王子様私は秘密を守ります王子様私は秘密を守ります……。
彼女の面立ちは肖像画に伝わるジェーン=アンナのものではない。
要は、《大鴉の塔》にジェーン=アンナは現れなかったのだ。