選挙運動
あのペンダントを手に入れてから、妙な夢を見るようになった。
自室で寝ていると、その頭上でカラスとフクロウが血みどろの戦いをしている。
カラスは大きな嘴でフクロウの腹や翼を突こうとするし、フクロウはフクロウで猛禽類のがっしりとした爪で応戦する。
フクロウの綿のように柔らかな羽毛が血に染まる。カラスの黒い羽根が剥がれていく。
絡まった二体は部屋中のあちこちにぶつかった。作業机にあった本や筆記用具がばらばらと落ちる。照明用の置きランプが倒れて、粉々のガラス片になる。
眺めていると、フクロウは以前見たメンフクロウであるような気がするし、カラスは私にペンダントを渡してきたワタリガラスのような気もする。どちらも「キィキィ」とか「ガァ、グエッ」といったけたたましい鳴き声を上げていた。
戦いは互角で、決着つかず。
いつの間にか、目が覚めてしまう。起き上がって部屋を見渡せば、そこは昨晩寝た時と同じ風景。荒れた様子もない。
ただ、作業机にハンカチを敷いた上に置いていたはずのペンダントが床に落ちているばかり。
枕元のテディベアはなぜか、ふわふわの毛を震わせてヘッドピースにへばりついていた。
『リディのバカっ! 死んじゃえ!』
という具合に、人間であれば涙を浮かべて居そうな声音で叫んでいる。彼女は何を見たのか、教えてくれない。
ところで、私ことリディの通勤手段は路面電車である。
首都の旧市街の一部地域では景観保持のために自家用車の通行は原則禁止されている。その地域を車で通るには、特別な許可証が求められる。大体が、国賓級の人々や大臣クラスの人々の公用車、警察や軍の警備のための特別車両、内部に持ち込む大型貨物運搬のためのトラックなどに限られる。
そのため、今も路面電車の利用者はかなり多く、朝の通勤時は赤い鉄の箱にぎゅうぎゅうづめになることもしばしば……。
慣れた人は目的の停留所の一つ手前で降りて歩くことも多い。
そうなると、国民議会場の、まるで巨大な神殿にも似た厳かな佇まいを目指すことになる。
国民議会場のさらに奥には大統領府が構えている。こちらは元王宮。華麗な雰囲気がある。
周囲には官庁街と、合間を縫うように木立や広場が点在していた。その広場の一つに差し掛かったところで、人が大勢集まっている。これからイベントでも始まるらしい。皆が赤や青、緑といったカラフルなポロシャツを着て、屋台の設営をしている。
それを見て、思い出した。
『何かお祭りでもするの?』
カバンから顔だけ出したマリーがこっそりと、しかし興味津々な声を出す。
「違う。これから下院議員選挙なの。もう二週間後だから使用許可が下りたみたいね」
ひとまずあとで顔を出すことにして、職場に向かった。
昼食の頃合いになると、国立国民議会図書館からぞろぞろと人が出ていく。私もカバンを持って人波についていく。
辺りの官庁街からも官僚らしきスーツ姿が一斉にあの広場に向かっていた。
広場には、すでに選挙スタンドが出来上がり、スタンドが無料配布している飲食物も順調にはけているらしい。お祭りのような盛況ぶりだ。いや、実際にこの国の人々にとって、選挙とはお祭りなのだ。
この国の選挙は世界的に見ても規制が緩いと言われている。選挙年齢、被選挙年齢はともに十八歳。そのため、十八歳の高校生が議員に立候補することもあるし、四十代のホームレスが一念発起することもあるし、普通の主婦が当選することもある。
選挙とは生活に密着したカジュアルなものとして認識されている。それを表しているのが選挙スタンドの存在だ。
選挙スタンドは各政党が地域ごとに設置する屋台のようなものだ。飲食物などが無料で提供されることがあり、その内容は党のポリシーに従って多様である。ただ、どこも選挙スタンドに立ち寄る人々に対して、候補者や政党が自己の主張を伝える場として機能していることは間違いない。
私も選挙権を持つ国民の一人として次の大統領が誰になるのかは気になるところ。今日は選挙スタンドをのぞきに来たのだ。
どの政党の選挙スタンドもすでに盛況であったが、私はホットドッグ目当てに赤い選挙スタンドへ。
シンプルに真っ赤なペンキで塗られたスタンドは、現在の与党、労働党のものだ。看板にも『ホットドッグは我が血肉なり!』というスローガンが派手に掲げられていた。
昼食代わりにホットドッグを平らげながら、ボランティアの政党スタッフの話に耳を傾ける。
「今回の選挙はどうなりそうですか?」
「労働党が一番だよ! と言いたいところだが、実際のところは難しいだろうねえ。政府の会計不正の問題が響くだろうし、何よりもこの選挙区には有力候補を立てられなかったのが痛いね」
ほら、と言って顎で示されたのは観葉植物で飾り付けられた青い選挙スタンド。スタッフはみんな青のポロシャツを着て、あちらこちらへと飲み物を配っている。この労働党の選挙スタンドと同じぐらいに人が集まっていた。
「あっちの国家民主党にはセドリック=マクレガンがいるからさ。まず顔がずるいだろ、賢いのもずるいだろ、人柄がいいのもずるいだろ? セドリック=マクレガンが十人ぐらいに分裂すれば労働党は選挙区で一議席も取れないよ。こっちとしては本当にやりにくいんだよね。あ、よかったら、これ僕の名刺だから。この選挙に出るわけじゃないんだがね」
赤いポロシャツに蛍光色のベストを着た紳士からフランクに渡された名刺。ざっくばらんに話をしていた彼は、現労働党党首だった。
飲み物が欲しくなったので、今度は青い選挙スタンドに寄った。青のポロシャツがトレードマークの国家民主党は、野党最大の党だ。今回の選挙で与党への返り咲きが囁かれている。労働党はメラメラと燃えるような情熱的なイメージのある党だが、国家民主党はどちらかと言えば、保守的でクレバーなイメージがついている。それを象徴してか、選挙スタンドにもチェスブースが設けられているのが特徴だ。
アイスティーのカップを受け取ると、そこでもスタッフの話を聞く。
「今回の選挙はどうなりそうですか?」
「ま、ぼちぼちじゃないですか? 与野党が逆転すればそれでよし。そうなれば首相も交代するしかない。労働党の政府も悪くない方だけど、ちょっと首相がダメだからね。説明責任のなさがちょっといただけない」
「ああ、会計不正の問題ですね。たしかにずいぶんと叩かれていたようでしたが」
「国家民主党のマクレガン先生も最前線で批判していんですよ。あの人がいるだけでうちは結構安心できる。ちょっと前は女のことでもめていただけど、若いうちだからそんなこともあるさ」
また彼の名前が出てきた。こういう選挙の際には、彼が著名人であることを認識する。
「そういえば、今日もそろそろここに顔を出すはずですよ。せっかくだから会っていかれてはどうですか?」
「いえ、私は大丈夫です」
空のカップをゴミ箱に入れていると、目の端を自転車が横切った。
「リディ、リディ」
キッ、とブレーキ音。自転車がじりじりとバックする。よっ、と自転車から降りて私の前に立った青いポロシャツ姿の人がこちらへ向かって両掌を上げる。その素振りで思わずハイタッチ。
「応援ありがとう!」
爽やかな笑顔ときらりと光る白い歯。半ば騙された気になった。
「こんにちは。選挙活動ですか?」
「もちろん。今日、君に会えてよかった。今度、うちの党の演説会があるからよかったら来て」
ヘルメットを取り、ショルダーバッグからビラを出したセドリック・マクレガン議員がいる。お礼を言って、ビラを受け取る。
「もうすっかり怪我が治ったようですね。安心しました」
「まあね。治りが早いから選挙活動も全力でやらなくちゃいけないけれど。君の方はどう? 元気?」
「ごくごく平凡な毎日ですよ。むしろ少し前より余裕があるかもしれません」
「ああ、そっか。君たちの仕事相手の大体が選挙活動中だからかな」
「国民議会も閉会中ですから」
「なるほど」
「議員はお忙しいでしょうね」
「『議員』なんて呼ばないでくれ。今はただの候補者に戻っているんだから。ぜひ、親しみを込めて『セディ』と呼んでくれ」
「呼びませんよ。でもたしかに今は議員ではありませんし……ただのマクレガンさん?」
「うん、まあ、合ってはいるんだけれどね」
腕組みをしたマクレガンさんがもの言いたげな目を向けてきた。
「もう一回呼んでみて」
「マクレガンさん、ですか?」
「うん、これはこれでいいかもしれないね」
「あの……愛称ならいくらでも呼んでくれる方がいると思いますよ。さっきからたくさんの美女がマクレガンさんを見つめています」
おや、と思い出したように彼は笑顔で片手を振った。こちらを窺っていた女性たちが大勢手を振り返す。すごい人気だ。
「そろそろ休み時間が終わりますので、私はここで戻ります。選挙活動、頑張ってくださいね」
「そうか、残念だ。もっと話したかったのに。また会える時を楽しみにしているよ。選挙が終わったらデートしよう。絶対だよ?」
「しませんよ」
「ひどいなあ。他人と君とでは、ブロッコリーと雪の妖精ぐらいに違うのに」
ひらひらと手を振る「ただのマクレガンさん」に別れを告げる。
少し歩いたところで後方を振り返れば、すでに周囲に彼を取り囲む輪ができている。今度の選挙でも、彼の当選は堅い。
広場の隅に、小さな選挙スタンドがあるのが見えた。墨で塗られたように真っ黒な選挙スタンドだ。
その前に、黒いローブを纏い、叢のように生い茂る黒ひげの男が立ち、私を見ていた。
「お嬢さん」
気が付けば、男が目の前にいた。だいぶ距離は離れていたはずなのに。
元は黒目だったらしいが、今は白濁している目が私の姿を映した。わけもなく、嘔吐感に襲われる。
「真理の党へ入らないかい。君が生まれた意味を教えてあげるよ」
「け、結構です!」
生理的嫌悪感に襲われた私は腕を掴まれる前に走って逃げた。
あれは何だ。怖い。
言い知れぬ不安を抱いた私だが、やがてこの勘は当たることになる。