ムーラン・グロッタにて
午後七時。パブ《ムーラン・グロッタ》前。目的の人物はガラス扉の向こうで私に気付き、手を挙げた。
「こんばんは」
「どうも、フロベールさん。何を飲む?」
カウンター席にいる彼は隣の椅子を引くので、私はそこに腰を下ろした。
「ではラドラーを一杯」
「今日も一杯だけ? 割合も一対一?」
「はい」
「そうか」
彼は顔を綻ばせて、店員に注文をした。すでに彼の手にはウイスキーのグラスが半分ほど残った状態で握られていた。
ラドラーとはビールにレモネードを加えた飲料である。口当たりがよく、アルコール度数も高くない。「一対一」の割合とはビールとレモネードが半々で入っているということだ。
「いつもラドラーを頼むの? カクテルの品揃えも豊富なのに」
「ラドラーが好きなんですよ」
「好きな割には、注文は一杯だけだよね」
「家の外では飲まないようにしているんです。酔う姿を見られたくなくて」
「わかった。大きな失敗をしたことがあるんだな?」
「失敗しかけたことならありますよ。まずいと思って、父に慌てて連絡して迎えに来てもらったの」
「それなら間違いない」
彼は機嫌がよさそうにグラスを空ける。
「私にはこれぐらいのジュースでちょうどいいんです」
店員が折よく注文品を持ってきた。「乾杯」と言いながらグラス同士を合わせると甲高い音が鳴る。
少しだけ口をつけただけでテーブルに置く。
「まだ二十歳だからあんまり味がわからないかもな。そのうち俺みたいな酒飲みの気持ちもわかるようになる」
「そうかもしれませんね」
彼はかすかに笑いながら、「今、適当なことを言っただろ?」と告げてくる。警察官をしている彼は、嘘には敏感だ。適当な返事をしようものならたちまちに見抜かれてしまう。
「試しに一口飲んでみるか?」
ウイスキーの入った飲みかけのグラスを差し出される。やめておきます、と首を振る。
「それ、かなりアルコール度数が高いものではありませんか?」
「ウォッカほどでもないさ」
気分を害した風でもなく、付け加える。
「でもフロベールさんは賢明だよ。最近、こういうふうに酒を勧められたのを飲んだら、その酒に薬が入っていた、なんて事件も多いんだ。そのぐらい注意深い方が安心できる。その酒も、飲みかけのまま席を立つのはやめておいた方がいいぞ」
「そうします」
「あ。今のは嘘じゃなさそうだ」
彼は皿のナッツ類を適当に掴んで口に入れた。
「フロベールさんに恋人は……いないか。いたらこんなところに来ないし、弟と見合いみたいなこともしないか」
「取り調べですか?」
「あくまでも個人的興味だよ。パブで男女が二人連れで並んで座ったら、多少なりとも気にするところだろ?」
「そうですね。世間話のついでによく出てくる話題ですよね」
「それで答えは?」
一拍遅れた後で、私の恋人の有無についての問いだと理解した。
「ご想像にお任せします」
「ならいないんだろうな」
彼はますます確信を深めたらしい。私はむき出しの心を手探りでまさぐられているようで楽しい気分にはなれない。口の中をラドラーで潤した。
「安心してほしい。俺にもいないよ。だからここで会ったところで誰にも咎められることもない。弟に会うのもやめたんだろ?」
「ええ、一度も会うことなく終わりましたね」
父に見せられた写真の主は、熱で倒れた後に断りの連絡を入れてきた。たまたま看病をしにきてくれた同僚の女性とそういった関係になったから、会うのをよしたいということだった。もちろん、申し出は快諾した。
会う前に判明してよかったと思う。もしかしたらとんだお邪魔虫になっていたかもしれない。
「弟を許してやってくれ。あれはあれで誠実なところもあるんだ」
「いいんですよ。まだ何も始まっていなかったんです。そんなことでいちいち傷ついてはいられません」
「フロベールさんもまだまだこれからなんだからしょげるな。そのうち、いいこともある」
「そうであってほしいと思います」
ヘクセンは空になったグラスを揺らしている。
「そういえば、初めて会った時に腹話術をしていたな。かなりの腕前だと思ったな。いつ頃から始めたんだ?」
「え……?」
唐突に彼が切り出したのは、マリーのことだった。彼はテディベアが話しているところを目撃していた。
予想もしていない状況に取り繕うのを忘れてしまっていた。もちろん彼がそれを見逃さないはずがない。
「何だ?」
しばし見つめ合う。彼は笑みを消して、低い声で「へえ」とよくわからない相槌を打つ。
「事情がありそうだ。気になる」
「それは……」
『ふふふ』
テディベアがカウンター上の鞄から頭を出していた。どうしてそんなことを!
鞄にしっかり押し込み直す。
私は誤魔化すように「ふふふ」と笑った。
「そのテディベア……ちょっと見せてもらえる? そこから声が聞こえた気がするんだ」
警察官が酔っ払いに声をかけるような感じで彼が言う。完全に興味を持ってしまっている。
「だ、だめです。これは大事なものなので」
「前も持っていたよね? テディベア、好きなの?」
「ええ、好きなんです! もう大人ですが、趣味は自由でしょう?」
必死に弁解すると、彼も眉を下げた。
「別に馬鹿にしているわけではないよ。個人的にはかわいらしい趣味だと思う。気分を害してしまったなら申し訳ない。ただ、どうしてもそのテディベアが気になって。もしも問題を抱えているようなら力になりたい」
「……お気持ちはありがたいのですが、今のところは特にありません。本当ですよ」
「そうか。勘が外れたな」
話が収まりかけたその時、とんでもないことが起きた。
『ねえ、リディ。話してみたらどうなの。助けてくれるかもしれないじゃない』
鞄から上半身飛び出たマリーが小首を傾げてヘクセンを見ていた。
『マリーはこの人を気に入っちゃったの。だから話してみてよ』
ヘクセンと言えば、これ以上ないほど目を見開いている。やっとのことで「嘘だろ」と呟いた。
「今の技術でもここまで精巧なロボットはないだろ?」
『違うわ。マリーは幽霊だったから』
ああ、つまり、と彼は驚きを隠せない様子だ。
「フロベールさんはホラー小説の主人公だったのか」
『マリーはホラーじゃないわ。純粋で可憐な妖精さんなのよ』
テディベアはぽん、と自分の胸を叩いた。
もう収拾がつかない。何をもってマリーが口を挟んできたのかさっぱりわからないが、私の心労は増すばかり。
マリーのことがヘクセンに知られてしまった。これからどうしたらよいのだろう?