ヘクセン・クォーツ
父の用意したお見合いの日。
待ち合わせ場所は、黄昏の光が眩しい小さなレストラン。ディナーの予約がされていたため、すぐに角の二人席に案内された。白いテーブルクロスの上にオレンジの薔薇が一輪飾られている。
お見合いと言いつつも、父は双方の約束を仲介しただけで当人同士は食事をしながら軽く話をするだけだと聞いている。父の意図も本当に結婚してほしいというよりは、この機会に娘の交友関係が広がることを狙っていそうだ。
実のところ、私の交友関係は極端に狭かった。途中からまともに学校に通わず、ほぼ独学で大学の単位などを取ってきたため、同世代に友人や知人は本当に少ない。
いざ、お見合いの現場で着席すると、久しぶりにむずがゆくて落ち着かない気持ちにさせられた。就職して早々に風邪で熱を出した時、父に看病されて以来ではないだろうか。
何の意味もなく、視線が店に入ってくる客や他の食事している客、さらには広いガラス窓の外の景色の間を行ったり来たりしてしまう。
父が紹介する人物は、父の仕事関係で知り合った建築士らしい。何でも名門大学の建築学部も出ているし、仕事はできるのだが、学生時代は男性に囲まれる環境にあったため女性には奥手で、なかなか交際には発展しないのだという。娘が国立国民議会図書館職員と聞いても引かなかったところに、父は好感を抱いたらしい。
約束まで時間があったため、自分の心を落ち着けるために地元の公立図書館から借りてきた流行のミステリー小説を読むことにした。
今はテディベアもアパルトマンに置いてきているので非常に読書が進む。
小説はかなりスリリングな展開で頁から頁へとめくりたくなる推進力があった。夢中で読みふけるうちに結末まで読み切ってしまった。
相手は来なかった。
時刻は約束の時間を過ぎてとうとう午後九時。ディナータイムの客もピークを過ぎて、店のテーブルも閑散としつつあった。
携帯端末を確認しても連絡はない。
少し落胆もするが、そんなものかと思いなおす。何事も上手くいかない時もある。お見合い相手には会えなかったが、緊張せずに済むならそれでも良し。
気持ちも楽になったのでいそいそと店員を呼ぶ。
「このロゼワインと……あとはシェフのおすすめの料理をお願いできますか?」
「予算などはございますか?」
これぐらいで、と金額を言えば、店員は「かしこまりました」と告げて、店の奥に消えていく。
すぐに店員がロゼワインを持ってきて、グラスに注ぎ入れる。
それから前菜から順に運ばれてくる長い名称の料理を出てきた順に食べていく作業に勤しむ。店員が出すたびにいろいろと長々とメニューを紹介してくれるのだが、シェフのこだわりのせいか異様に長すぎて右耳から左耳へと流れてしまった。オードブルが魚だったのはわかった。
食事を終え、ワインの最後の一口を呑み終えた時。ノーネクタイのスーツを着た、大柄の男性がぬっと目の前に立った。
「すみません。リディ・フロベールさんですか?」
「はい、そうですが」
相手を見あがると、首が痛くなる。私もさして低身長ではないはずなのだが、それ以上に背が高いようだ。
黒髪を後ろに撫でつけた男は眼光が鋭く、どことなく怖い。どこかで見たような気もするが、どこだっただろうか。
「申し訳ない。うちの弟があなたと約束をしたらしいのだが、今日は急に熱が出て、約束のことをすっかり忘れてしまったらしいんだ。それで俺が代わりに行くことになったのだが、俺の仕事終わりがずれ込んでしまい、こんなにも遅くなってしまった」
腕時計を確認すると、針はそろそろ店の閉店時刻を指している。構いませんよ、と答えた。
「確かに待ちましたが、その間に読みたかった本も読めましたし、今ちょうど食事も終わって帰るところだったんです。入れ違いにならずに済んでよかった。ところであなたは?」
「あなたが約束していた、カール・クォーツの兄です」
「そうだったんですね」
以前見せてもらった写真の彼と比べてみると、だいぶ雰囲気の違うお兄さんだった。弟の方はもっと大人しく中性的な顔立ちだったのに対し、兄の方はいかにも男性的な顔立ちをしている。
「長い間待たせることになってしまい、申し訳ない。弟のことを含めて謝罪するよ」
「ええ」
彼の差し出す握手に応えると、彼は思い出したように「ヘクセン・クォーツです」と名乗った。
「リディ・フロベールです。よろしく」
「ところで……どこかで会った気がしますね。それも最近に」
「そうですか? 実は私もそんな気がしていましたが」
最初に思い出したのは彼の方だった。
「もしかして、近頃、繊維街で会った……」
「あっ、なるほど。あの時、生地を譲っていただいた方ですね」
「そうだ」
ほっとしたように彼は親しげな笑みを浮かべる。
意外な巡り合わせに少し驚いた。
「たしか、ぬいぐるみの服を作ると聞いていたんだ。完成した?」
「はい、何とか一着仕上げることができました。あの時はどうもありがとうございました」
「いや、たいしたことじゃないさ」
「クォーツさんの方は?」
「あれから良い生地を見つけた。カフェカーテンを作って、もう使っているよ」
「繊維街までいらっしゃるなんて、こだわりがあるんですか?」
「ああ。結構こだわる方だ。身の回りにあるものを自作したくなるんだ。皿もそうだし、棚やベッドのような大きなものも」
「へえ」
職人気質の父も同じようなところがあった。木製製品はたいてい自作しようとする。料理で言えば、パスタに異常なこだわりを見せる。
チリン、とその時、レストランの扉のベルが鳴った。どこの客もほとんど帰り支度をしている。
「私、もうそろそろ帰りますね。弟さんに『お大事に』とお伝えください」
店員に預けていた上着を受け取り、清算したい旨を告げると、チップも合わせてすでに会計済みだと首を振られる。
男が言った。
「うちの弟のせいで待ちぼうけさせてしまったんだ。これぐらいは払わせてもらわないと」
「しかし、それでは……」
「いいんだ。文句なら弟に言ってくれ。あいつに払わせるから」
「……それでは、受け取らせていただきます。御馳走様でした」
レストランを出たところで、後ろからクォーツさんもついてきて、隣に並んだ。
「暗いから送ろう」
「一人でも大丈夫ですよ。治安も悪いわけでもありませんし、まっすぐ家に帰るだけですから。お酒もたいした量を飲んでいませんよ」
だから十分に帰れると告げたのだが、彼はやめなかった。
「それはわかっているさ。なんというか、職業柄なんだ。申し訳ないが、付き合ってくれると嬉しい。もちろん、部屋まで入ろうという気は毛頭ない。ほぼ初対面のようなものだからな」
「職業柄?」
「そう。警察官なんだよ。大統領府近くの地区の警察署に勤めている」
大統領府は新王宮と呼ばれているところである。国立国民議会図書館にも近かった。意外と生活圏が重なっているのかもしれない。
彼は警察身分証のIDカードも提示した。階級は巡査部長。所属は『西地区ガリバルディ警察署』になっている。
これで信用してくれということらしい。
「ちゃんと警察官だろ? まだ信用できないのなら、君の携帯端末からガリバルディ警察署に連絡を入れてみるといい」
言われるがままにガリバルディ警察署に連絡を取ると、ヘクセン・クォーツという人物がしっかり在籍していることがわかった。
「だろ?」
「ですね。ではお言葉に甘えます。アパルトマンの前までお願いします」
「もちろん」
最初からそのつもりだった、と彼は当然であるかのように言った。