存在しない手記
図書館員には、議員のレファレンス対応のようなストレスのかかる仕事もあるけれど、まさしく知に奉仕するような誇らしい仕事もある。
図書館内の閲覧室。書見台と椅子があるだけの簡易的なガラス張りの部屋に入り、経年劣化した大型図書を書見台に慎重に置く。
「ありがとう」
椅子に座る老年の男性。彼は国立国民図書館に足しげく通う大学教授だ。研究のため、古文書の閲覧を申請することが多い。私ともちょっとした顔見知りになった。
「今日は閲覧申請が少なかったので、この閲覧室も閉館まで使用できますよ」
「ほお、それはいい!」
先生は大層喜んだ。学問に没頭する人びとの顔はどれもが充実している。図書館で働く醍醐味のひとつだ。
「今日は七時閉館だったね。ありがたく使わせてもらうよ」
「以前におっしゃっていた論文は順調ですか?」
「ああ、もう少しで結論を導き出せそうだね。こういう時が一番楽しいよ!」
そうだ、これを、と先生は言いながら、愛用のリュックサックからよれよれの紙を差し出した。
受け取って広げた瞬間、言葉を失う。
「今度、イーズでシンポジウムをするんだよ。そのチラシだ。よかったらどうぞ。君、こういうのは好きそうだと思って。いつも楽しそうに話を聞いてくれるものね」
「……ありがとうございます」
「僕はこの機会に、もっと人びとに知ってもらってもいいと思うんだよ。マリー=テレーズ女王とその時代を」
「先生も、発表されるのですよね?」
私は、自分が変な顔になっていないかばかり気にしていたが、先生は気づく様子もなく、ぺらぺらと話し続ける。
「もちろん。私が中心になってやるんだ。うちの大学でやるんだけれどね、イースター休暇と重なったから学生が集まりにくいんだよ」
「わざわざそんな時期にしなくても……」
先生は、いや、と首を横に振る。
「その時期じゃないと会場が押さえられなくてね。そんなわけで人数が足りていないから、来てくれると助かるよ」
「わかりました。考えておきます」
シンプルに文字のみが印刷されたチラシから目を離して答える。
「そうしてくれ。けっこうおもしろいと思うよ。私がやろうとしていることはアルデンヌの歴史の再定義に繋がるものなのだが、その鍵となる人物がマリー=テレーズ女王だと思っていてね」
先生は上機嫌だった。ほら、右手に持っていた鉛筆さえ放り出して、椅子の背もたれに体重を預けている。鼻の上にちょこんと乗った丸眼鏡の奥に、少年の瞳があった。
「アルデンヌの原形はかのカール大帝の孫にあたるカールが父のロタールから譲り受けた領地だ。初代国王カールから、公国や王国に名前を変えながら近隣国のフランス、ドイツ、ベルギー、イギリスに飲み込まれないままほとんど持続的に今日まで国の形を維持できた。ヨーロッパ諸国を見てもかなり稀有な現象だね」
歴史上、それぞれの強国の影響は多大に受けた分、アルデンヌの公用語はアルデンヌ語やフランス語、ドイツ語、英語、ベルギー語と多い。今の人口の二割、首都に至っては四割が外国人。国際的に開かれた国家になっている。
「歴史的には何度も危機的状況に陥っているのに関わらず、その都度に為政者が奇跡的な舵取りを行って危機を脱することに成功している。まあ、実際にはナポレオンの侵攻時にはさすがに一回国が無くなっているけれど、すぐに不死鳥のように復活したしね」
僕が注目しているのは、と先生は続ける。
「フランス革命より遡ること百年。今から三百年ほど遡った時代だ。十七世紀と十八世紀の狭間にあったマリー=テレーズ女王の時代だよ。ドイツ語ではマリア=テレジアだが、ハプスブルグ家の女帝とかぶるし、当時の言語状況を見るとマリー=テレーズと読むのが適当だろう。
この時も王国には危機が迫っているね。フランスは当時、領土拡大を目指し次々と戦争をしていた。かの太陽王、ルイ十四世の時代だ。治世が長かった王は彼女の祖父、叔父、そして彼女と、三代の王に対峙することになったが、アルデンヌだけは支配下におけなかった」
これは三代に渡る巧みな外交戦略とフランスに対して警戒した周辺諸国が団結し、フランスとの緩衝地帯たる地位を望まれた結果だと一般的には思われている。
「この三人の中で女王の評価はかなり低く見られてきた。アルデンヌ初の女王だったためか、在位中もかなり悪質なデマが飛び交っていたらしいし、今でも彼女をよく思っている国民は少ないかもしれない。芝居や映画ではたいてい悪役になるね。贅沢好きで男好きなキャラクターとして、気の強そうな女優がキャスティングされる」
ハリウッド女優だったらイングリット・バーグマンかな。先生は笑いながら言う。
「彼女が女王になれたのは、国王の直系で女王たりえた人物がすでに女性しかいなかったのが大きい。当然、反対も多かっただろうが、それを死ぬまで抑えておけたのだから悪い君主ではないはずだよ。
アルデンヌが今日に至るまで生き残ることができたのは、この時代が最大のターニングポイントだと思う。この解釈で歴史を読み解いていくのは、私の人生をかけた大仕事になると確信しているんだ」
すごいですね、と私は言った。一職員がひとりじめするには惜しいほど含蓄深い話を拝聴できたのは間違いない。ただ、私の中で疑念といたたまれなさと否定とがないまぜになるのは仕方がないことなのだ。
「また余計な話をしてしまったかな。私はこういうところがあるからいけない」
だけれどね、と先生はまた語る。
「三百年前、このカールブルクに君臨した女王マリー=テレーズ。彼女を想うと心が高鳴る。これはロマンだ。知的な冒険だ!」
国王の姪として生まれた彼女は天然痘で叔父の国王と従兄弟の皇子を亡くし、やむなく王位を継承した。結果的に彼女は時代の潮目にいた。彼女の死とともにリエージュ王朝は滅び、貴族議会の力が増し、議会は次代でアルデンヌ初の憲法を承認させることになる。イギリスに次ぐ立憲君主制国家の誕生だ。
「前後の時代の華々しさのせいかあまり注目されてこなかったが、文化面では豊穣だったんだ。特に宮廷文化では、女王と《円卓の騎士たち》の存在がある。皮肉にも彼女が男好きだとされることになる逸話だが、女王の周囲に侍った男たちと女王との間にあった、切ない悲恋の数々は、意外にも世間に知られていない。私はね、あの中には真実の種が落ちている気がするんだ。それを拾い上げるのが私の夢」
私はつっかえ気味になりながら「が、がんばってください……」と呻いた。この手の話題になるといつもこうなる。
女王マリー=テレーズは後世に《円卓の騎士たち》と呼ばれる側近たちを用い、アルデンヌを統治した。だが優秀なのは《円卓の騎士たち》で、女王は何もできないお人形だと後世には思われている。
おおむね、間違っていない。間違っているのは、《円卓の騎士たち》との関係だけ。そんな色っぽい関係であったためしがないし、どちらかと言えば自由奔放な彼らに振り回された人だった。
私の持つ前世の記憶は、このマリー=テレーズ女王のものだった。
先生が焦がれてやまない歴史ロマンの真実は、私の胸の内にある。けれど、過去は美化されるからこそ美しく、蜃気楼のように手にできないからもどかしいものではないか。
『ねぇ、話が盛られていませんか?』とか、『そんな事実ありませんでしたよ』などとは言えない……!
「そういえば」
先生は思い出したように言う。
「私の受け持っている学生で、今度、面白い発表をする子がいるんだ。はちゃめちゃで荒唐無稽で、信憑性は皆無だと思うけど、出してきた資料がすごい。それはね――女王の遺した手記だよ」
手の中のチラシは、気づけば手汗でよれていた。
女王の遺した手記? そんなものは……ない、はずなのに。