カラス
展覧会を観覧した後、今度は旧王宮の見学に向かうことになる。
『楽しみだわ!』
テディベアのテンションが明らかに上がっていた。
入口の案内板を見ると、スタッフによるツアーガイドの時間には合わないようだったのでイヤホンガイドを借りることにした。
イヤホンの片耳は私の耳に、もう片方はテディベアに聞こえるように垂らしておく。彼女はそっとふかふかの耳の辺りに腕の先を当てて固定した。まるで初めからそういうポーズをとっていたみたいだ。
ガイドをスタートさせると、女性の声が流れてきた。
『こんにちは。旧王宮ツアーへようこそお越しくださいました。まずは入口前の掲示を御覧ください。ここに入る前に、皆さまにお願いがございます。まず一つ、こちらの施設での喫煙、飲酒はご遠慮いただいております。また、見学の際は、展示品に触れることや、大声を出すこと、その他、他の見学者のご迷惑になる行為は禁止されております』
こんにちは、はい、はい、とテディベアは機械に向かって律儀に返事をしている。ひそかに笑いを噛み殺しながら、そしらぬ顔で順路を進んでいく。声の指示に従っていくだけだからスムーズに行けそうだ。見学者の波に交じるようにして、王宮奥深くに入り込んでいく。
だが、マリーはね、と見学開始十分後に腕の中の彼女が震えながら言い出した。
『マリーは待つのがきらいなのよ……! 大回廊はどこー!』
「しっ」
『ごめん……』
もう一段声を下げる彼女。
『だってまどろっこしいんだもん。説明長いし……』
「その方がたくさん勉強できるからいいじゃない」
そういっている間にも音声ガイドは進む進む。いろいろと聞き逃してしまってもったいない。
『マリーはきれいなものをみて、わぁー、きゃー、ってなりたいだけだもん。美しいものに言語はいらないわ』
「でもたくさん知った方が実物見たときのありがたみが増す気がしない? 深い理解を得られると思うよ?」
『そんなだから、リディはおばさん臭いのよ』
「おばっ……そこまで言わなくても」
うっかり過剰反応を見せてしまうところだった。
『リディに足りないものは若々しさだもの。いつも陰気な顔をしているし』
「していないわよ。落ち着きがあるとは言われるけれど」
『ふふふ』
なんとも意味深な笑いを漏らす彼女。次に何を言い出すかと思いきや、
『ねえねえ。もう一回ぐらい、このテディベアにキスしてみない? 上手く入れ替わったら、マリーがリディの陰気さを証明してあげる』
「しません」
油断も隙もない。彼女はつい先日も私が寝ている間にキス未遂事件を起こしている。辛うじて防いだからいいものの、もしも以前と同じように中身が入れ替わってしまうのであれば大変なことになる。
マリーが器用にテディベアを操り始めたのに合わせ、私はやむなく小動物用の飼育ゲージを購入した。夜間の間はテディベアを中に入れ、鍵をかけておくしかないのである。
『しくしくしく。リディは不自由なマリーのことを何とも思っていないんだわ。マリー、すっごくかなしい』
「残念だけど、ぶりっ子はかわいい子でないと効果がないの」
マリーの人間姿というのは、あのマリー=テレーズ女王と同じである。私にはかえって逆効果。むしろ顔を引きつってしまう代物だ。
彼女はわざとらしい泣きの声をやめて、端的に「けち」とののしり始めた。
わがまま娘を持った母親の気持ちが今ならわかる。これはかなり面倒だ。
『リディにはマリーの気持ちがわからないんだわ』
私はため息をついた。彼女と話すとため息の数が増える。
「……わからないよ。そういうものでしょ? 人の心が全部わかるなんて幻想だもの。私たちは、言葉でその心をあらわにしていくしかないんだわ」
「そうね」
ぷつん、と会話の糸がそのまま途切れた。彼女はうんともすんとも言わなくなる。まるで死んでいるみたいだと思うが、そもそもテディベアとはそういうものだった。
彼女はテディベアにとりついた幽霊だが、元は三百年前に生きていた十五歳の少女だ。紆余曲折あって、同居人となった彼女は私に対して複雑な思いを抱いている。
だが何よりも彼女が恐れているのは退屈なのだ。私が仕事に出た後、一人部屋に残ることに耐えられない。閉じ込められているみたいだと主張するのは、自身の身の上と重なるように感じられるからかもしれない。
彼女は外に出るのを好んでいた。私の行くところに連れて行くと口に出しはしないが、弾んだ声を出す。
そんな彼女の心の動きが透けてみえるようであったから、私は職場や外出先にも連れていくようにしていた。朝と夕のおしゃべりにも付き合うし、携帯端末の映像を共に眺める。
あまりにも手に負えない振舞をしない限りは、そうしようと決めている。とはいえ、たまに大人げなく、イライラしてしまうこともあるけれど。
『むむぅ。むむ。むんっ!』
腕の中のテディベアがもぞもぞしている。
全身で構ってくれ、と言わんばかりに唸ってもいる。
マリーは言い争いになってむくれると大体そういうふうになる。精神的な幼さが前面に出てくる。これは彼女なりの甘え方なのだろうかと最近思い始めたが、どうだろう。
「マリー」
『……む』
「別に、マリーのことを何とも思っていないなんてことはないからね。一緒に暮らしているんだし、喧嘩しないで仲良くしよう?」
『む……ま、許してあげる!』
「はい。じゃあ、仲直りの握手ね」
テディベアの手を握る。彼女はまたぶつぶつと、『ぜったいにその体をもらうんだから。それまでは仲良しのふりをしてあげてもいいわ』なんて言っている。
「いちいち棘のある言い方をしなくちゃ気が済まないんだね……」
『ふんっ』
通路の隅でテディベアを相手に話しかけている私はまさに不審者だった。背中に視線が突き刺さる。警備員を呼ばれる前でよかった。
ふと、足元に黒い羽根が落ちていることに気付く。
他の見学者のカバンについていたアクセサリーが落ちたのだろうかと思い、拾い上げてみる。
しかし、予想外に大きな羽根だった。本物の鳥の羽根に見えた。それもカラスの羽根。公園のような野外ならともかく、こんな室内にカラスがいるとも思えないのに。
腕から、『リディ』と震える声がした。
『……ここ、なに?』
「え?」
私ははじめてこの時、周囲に頭を巡らせた。
誰もいない。直前まであんなに見学客でざわめいていたのに。人影一つも見いだせない。
しん、と辺りは静まり返り、縦長の窓からは穏やかな光が差し込んでいる。光の届かない奥の方は薄暗く、天井から吊り下がるクリスタルのシャンデリアが不気味に輝く。開け放たれた扉の奥にはまるで延々と別の部屋へと続くように思えた。
左腕にテディベア、右手に鳥の羽根を持ったまま立ち尽くす。状況が飲み込めなかった。
ガア、と背後で鳥の鳴き声がした。
振り向けば、一羽のカラスがちょこんと絨毯の上から私を見上げていたのだ。