小指の爪ほどの秘密
午後、国立国民議会図書館の調査室。上司が珍しく私のデスクまで呼びに来た。
「フロベール君、ちょっと」
「なんでしょう?」
自分のオフィスまで私を連れてくると、彼はデスクのボタンを操作する。ガラスの壁面の内が外から見えないように遮断され、外側は鏡面になる。ずいぶんと仰々しいことをする。
彼は黒いデスクチェアに座って、両手を組む。
「警戒しておくに越したことはないだろう?」
「警戒? どういうことですか?」
重々しい口調であったから、私もにわかに緊張してきた。彼がこの先何を言うのか見当もできない。
「これは秘密の話だがね。私はとある組織の幹部として世界平和に貢献しているんだよ」
「……新手のジョークですか?」
上司ははっはっは、と軽快に肩をゆすって笑う。
「いいだろう? 僕も子どもの頃は正義の英雄に無邪気に憧れたよ。おもちゃの剣と盾を振り回してさ。ああいう遊びは大人になった今でも全部忘れられるものじゃない。心の奥底に眠っているからふとした瞬間に蘇るんだよね」
それはそれとして、と私のものよりも数段立派な作りのデスクをごそごそと探り、何かを取り出した。
「はい、手」
「手ですか?」
手のひらを上に向けると、そこにあるものが無造作に乗った。
黒い小型のメモリだった。個人で持つような携帯端末に直接繋いで使うタイプで、小指の爪ほどの大きさしかない。
彼はふと真剣な顔になる。
「これには機密情報が入っているんだ。公開されれば国中がパニックになるほどに重要な情報だよ」
「……失礼ですが、室長はとうとう頭の方が」
「本当に失礼だなあ。真面目に話しているのに」
「室長があまりにも荒唐無稽なことをおっしゃるから」
「うーん」
彼はまだ腹の中に溜め込んでいるようだったが、すぐに飲み込んだようだ。
「それで、国中がパニックになる重要な情報とはどんなものでしょうか。うちの館でもさすがにそこまでの情報は取り扱わないですよね?」
国立国民議会図書館は議員からの調査依頼をこなすことから重要な情報を取り扱うこともあるが、基本は平等な情報公開を目指す公共機関なのだ。軍人や政治家ほどの守秘義務は求められていない。
「いいや。君が知らないだけで色々あるよ。職位が上がれば、手に入る情報も格段に多くなる。ここはエリート中のエリートが集まる国立国民議会図書館なんだからさ」
言葉の真偽は不明だが、ことなかれ主義で済ませたかった私ははい、と頷いておく。
「ともかくね、フロベール君はこのメモリを秘密裏に預かって欲しい。僕がいいと言うまでね。誰にも言ってはいけないし、中身を見てもいけない。わかったね?」
「はあ」
誰にも言ってはいけないのはわかるとしても、情報の中身を教えてもらえないというのは、妙に好奇心がくすぐられるものだ。
正直に言えば、知りたい。ものすごく。
「さすがに犯罪の片棒を担がせようとしているわけではありませんよね?」
「もっと僕を信用しなよ。これでも良い上司をやっているつもりなのに」
頼みを断るのは許さないという雰囲気を上司から感じる。
「……内容を見てはいけないのですよね?」
「そうだ。簡単だろう? もしも誰かに取られることでもあれば、僕ばかりでなく君も死ぬかもしれないね」
そんな厄介なものを持ち込んでほしくないのが本音だが、メモリの返却を上司は決して認めなかった。
十分に渡る口論の末に私は敗北を認め、メモリを持ち帰ることにした。
小指の爪先ほどの黒くて小さなメモリ。机上に無造作に置けばたちまち落下し、自分の足で踏み抜きかねない代物だ。
自分のデスクに戻った私は、机の角を占領するテディベアを見つめると、彼女の真新しいワンピースに縫い付けたポケットにそのメモリを入れ、真鍮のボタンで蓋をしっかり留める。
『何それ』
「預かりものだよ。もしも誰かが持っていこうとしたら私に知らせてね」
『えー?』
「ワンピース、作ってあげたでしょう? ギブアンドテイクでどう?」
『まあいいけど』
小声の会話でどうにかマリーの了承をもぎ取ると、ふたたび溜まっていた仕事に手をつける。
初めの内はメモリのことが気になって仕方がなかったが、だんだんとそれも減っていった。
私はもう一度メモリを想起することになるのは、半分ぐらい存在を忘れている頃になる。
今日の仕事をひと段落させると、窓から斜光が入り込んでいた。日没までの時間が遅くなりつつあり、時計を確認すれば意外に時間が経っていた。鞄に荷物とテディベアを詰めて、建物を出る。
路面電車の停留所にある公共掲示板には催し物のポスターが何枚も貼られている。美術館や博物館の展覧会であることが多いのだが、この日、新しく貼られていたポスターに目が吸い寄せられる。
旧王宮にある王宮博物館で行われる展覧会のものだ。日時と場所を確かめると、すぐさまスケジュール帳に書き込む。次の休日に行けそうだ。
ポスターの中央には女性の肖像画。
太陽のように輝く美しい金髪と深い蒼の瞳、林檎のように赤い唇。
当代一の美貌を持つとされた姫君の姿を映しとったものだ。その姫君こそがこの展覧会の主役である。
国民は時を越えてもなお、この悲劇の姫君を愛さずにはいられないのだと実感する。
三百年前。女王はある処刑命令書に自らの署名を施した。
罪人は女王の従姉妹。一つ年下で、一度は私よりも女王に近いとされていた女性だ。
かつての私は彼女を羨んでいた。その美貌や気品、才能や優しさといったものはどれもこれも私が求めても持てなかったから。彼女と比べると私は、どれだけつまらない人間なんだろうと何度も落ち込んでいた。
彼女が死に、私が女王となったことでコンプレックスは多少改善されたものだと思っていたが、ふとした時にぶり返したものだ。
女王の記憶を受け継いでしまったリディ・フロベールとしても気にせずにはいられない。彼女の足跡を追おうとしている私がいる。
待っていて『ジェーン・アンナ』。今行くから。