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晴れ渡る空

()・マリー=テレーズ人生劇場・終幕】

 これにて終幕です。

 最後に一つだけ、隠された事実をお話ししましょう。

 あなたが自分の身の上に疑念を抱くきっかけになったのはある老人でした。彼が驚いたのは、あなたの風貌があまりにもある女性に似ていたためです。

 彼は主人の男に忠告しました。

「死者は戻らない。たとえ外見が同じでも、同じ環境、同じような人物に囲まれて育つことができようか。魂はひとつきりで、同じものにはならないのだ」

 男は聞き入れませんでした。

「あなたにはわかるまい。恋い焦がれた人と同じ時を過ごすことさえできなかった男の苦しみなど。……私は、たとえ地獄に堕ちようとも、あの崇高な魂を呼び戻してみせよう。邪魔はさせぬぞ。あなただけには、絶対に」

 老人は諦めざるを得なかったのです。

 翌日、彼は馬車に乗り込み、最終目的地のイーズへ旅立ちましたが、馬車の中の彼は懐かしい思い出に浸っていました。

――ああ、彼が知る中でもっとも困難な道を生きた教え子よ。

彼は心の中で呼びかけました。

 君主の道はとてつもなく辛く険しい。死の床についた彼女に終末の秘蹟を施した時、やつれた彼女の顔は忘れられません。戦って、戦って、擦り切れて。ぼろぼろに自分を削りながら前へ進んだことが顔に現われていました。

彼女は短い人生で孤独を癒す友を得られたのだろうか。得られていたらいいと願います。

――よい教え子だった。彼女は最期まで師の教えを守ったのだから。

――『人生は戦いです。……笑いなさい。それこそが、女王の持つ武器なのです』。

――先生。ヘンドリクス先生。

彼を呼ぶ教え子の声が聞こえた気がして、老人は微笑みました。

「ああ、君ですか? 懐かしい……本当に」

 何もない宙に手を上げます。

「どうかお許しを。あの男を断罪できなかったのは、わたくしの罪でした。見て見ぬふりをしたのです。あの男の心を少し、理解してしまったがために」

 そして、と苦しそうに言うのです。

「陛下を殺害した犯人がいたとしても、それを責められないのです。陛下がだれのものにもならなかったからこそ憎らしいと思う者たちもおりました……」

 お許しを、と呟いた彼。

 ……男の手は力尽きて、落ちました。



私は、静かに目を開けた。

目の前に、青髪の青年が座っていた。ふわりとグラーシュの匂いが鼻をくすぐり、窓の外に街灯が灯っているのが見えた。

とても長い夢を見た。懐かしくて、でも胸が切なくなる夢だった。

「レイマンさん。……私は、何を?」

 あなたは、とレオはおそるおそる私を窺いながら告げる。

「今、俺と付き合わないか、と。そう言ったところっすよ。そうしたらいきなり俯いて、黙り込んでしまって」

 まるっきり覚えていない。

「なら、忘れて。きっと私でない人が言ったものだから」

 ふと、視線を感じた。

 テーブルの上に見覚えのないテディベアが転がっている。黒い瞳が濡れたように輝いているのが気になった。

 ぐう、とその時、お腹が鳴る。スプーンを持ち上げた。

「とにかく、食べませんか? 私の知らない記憶についてのお話は食べながらうかがわせていただけませんか?」

 その言葉に、青年はほっと胸をなでおろした様子だった。

「はい。……おかえりなさい、リディさん」



「あらかわいいテディベアね。新しい友達?」

「えぇ、まあそんなものです」

 金糸雀館(カナリアハウス)の女主人は朗らかな顔で訪問者たちを受け入れてくれた。かつてのほの暗い雰囲気は見受けられず、顔つきもいっそう優しくなった。元々の彼女の人柄だったのだろう。

「そうだわ。今ちょうど薔薇の木が花を咲かせたところよ。花束を作りますから持っていってちょうだいね」

「ありがとうございます」

 鋏を持った彼女は鼻歌混じりで館の裏側へ歩いていく。三本の薔薇の木が仲良く並んで植わっていた。

 パチン、パチン、パチン。彼女は慎重に花を選んで切っていく。

「真紅と、白と、黄色。フロベールさんはどれがお好き?」

「赤いものです。一番良い匂いがしますから」

「それはオールドローズですよ。昔から植わっていたんですって。だから誰も名前を知らない薔薇なの。もしかしたらここにしか咲いていないのかも」

 真紅の花弁がフリルのように折り重なっていて、芳香が強い。花を摘み取りながら「ではこの赤いのだけ多めに入れておきましょう」と告げる。

「ミュラーさん。今日は借りていたものをお返しに来ました」

「いいのに……」

 彼女は振り返るとにこりと笑う。だから私も笑い返した。

「でも、一応は見てみるわね。花束を作ったらお茶にしましょう」

 園芸用のエプロンを外した夫人は花を摘み終えると館に入る。玄関先で簡単な花束を作って、私に差し出した。今度はその背後に目を移す。

「なあに、レオ。あなた、今日はちっとも喋らないじゃないの。髪色まで変えちゃって。青髪は自己表現の一種だとか、自分の魂だと言っていたでしょ?」

「いや」

 レオ青年はさらりと額にかかる茶色い前髪を払い、

「こうしていると妙な気分になるというか、何というか。俺自身の問題だけど」

 困惑の視線が私に向けられるが、目が合う前にすっと逸らされる。

「……おばちゃんは、ずいぶん元気になったね。まるで別人を見ているみたいだ」

「そう? たしかにとても気分はいいの。長年頭にあったもやが一気に晴れたみたい。したことは戻らないとしても今なら正面から受け入れられる気がする」

 彼女の胸には、館に関わった夫のことや私を襲ったあの夜の出来事が去来している。彼女は自分のしたことを呑み込んで生きることに決めたのだ。

 そんな彼女にあの手記を見せた。老婦人は「まあ」と品の良い驚き方をして目を見張る。

「ぼろぼろだわ」

 本は染みだらけで、頁も痛み切って触るだけで粉のようなものが出てくる。破損のために素手で開くのもためらわれる。

「はい。保管には最善を尽くしたのですが申し訳ありませんでした」

「いいのよ」

 じっと本の革表紙を見つめていた老婦人は柔和な声で答えた。

「どんな物にも寿命があるでしょう? わたくしはあなたが中途半端な扱い方をしたとも思っていません。これがあるべき姿だったのですよ」

 彼女は本を受け取った。

「これを国立国民議会図書館(ポンパドーラ)に寄付することは可能かしら」

「いいえ。おそらく認められないでしょう。国立国民議会図書館(ポンパドーラ)側はこれを女王の名を僭称した者が書いた偽作と断定しますから」

 それなら、とミュラーさんは笑って、本をレオ青年に差し出した。

「レオ。あなたにあげるわ。もう好きになさい」

「おばちゃん……?」

「あなたは研究者になるのでしょう? ならばどんな些細な資料も大切にしなくちゃ。もしかしたらこの中には誰も見つけていない宝物が隠されているのかもしれないわ。あなたがするべきなのは、そんな夢のある仕事なのよ」

 ひたすら驚いていた青年は彼女の言葉を、時間をかけながらゆっくりと咀嚼している様子だった。

「そっか。宝探しか」

 彼は満面の笑みを浮かべた。

「そういうのは大好きだ。子どものころみたいでわくわくする。簡単なことだったんだね、おばちゃん。俺の来てみた道は何も間違っていなかったんだね」

 リディさん、と彼は男らしい力強い表情を私に向ける。

「俺は研究者になるのが夢なんです。いつか、あなたが驚くほどの成果を上げます。……負けませんよ」

「私だって負けませんよ。国立国民議会図書館(ポンパドーラ)という場で素晴らしい結果を残すつもりです」

 茶目っ気たっぷりに返せば、彼は大笑いした。釣られて私まで吹き出してしまう。

 くしゅん、と胸に抱いた枯草色のテディベアがくしゃみをしたけれど、それはご愛敬だ。

 金糸雀館(カナリアハウス)の空はどこまでも青く澄んでいる。


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