飛び去った金糸雀
【マリー=テレーズ人生劇場・第四幕】
あなたは人を殺した男を吐きそうな思いで上から見下ろしていました。あなたは魂だけとなって、館を彷徨うことになります。館からは出られません。手記の傍から離れられません。
男は気が狂ったとして親戚たちに別の部屋に押し込められた後に死にました。男の魂が肉体から解き放たれたことが、あなたにとっての脅威でした。息を潜めて、彼から隠れなければなりません。早急に。
幸いにも手記は不吉なものとして厳重に仕舞われることになりました。彼の気配は感じますがまだ大丈夫。
息を殺しながら時が経つのを待ちました。いつか館から出られると言う一縷の望みを託していたのです。
機会が訪れた頃には世界は大きな変貌を遂げていました。
三百年ほどの時が流れていたのです。手記について外に出た時に、石のようだった心が軋みながら動き始めたのを感じたのです。
あなたは必死に目に見るもの、耳に入るものを感じ取り、世の中のことを把握しました。その間にも運命的な相手と出会うことになります。
マリー=テレーズ。あなたには因縁の相手です。
彼女の周囲はあなたがついぞ触れることのなかった優しさに溢れていました。それが悔しくて妬ましかったのです。どうして自分だけこんな理不尽なのだろうと思うと、許せない気持ちになりました。すべて奪い取ってやろうと思いました。
あなたは執念深く機会をうかがいました。その時、彼があなたの気配が消えたことに気付いていたことも都合よく働いたのです。そうだ、あなたの身代わりにあなたを置いていけばいい。
目論見は成功しました。新しい生を手に入れたあなたにもう怖いものはありません。人を殺したようなものですから、どんなことだってできるでしょう。
新たな出発とともにこの舞台の幕は下りることでしょう。幸福への道筋はもうすぐそこまで来ているのです。
「また偽物の人生を送るつもりなの、マリー」
凛とした声が割り込みました。
はっとなって舞台上から客席を見下ろします。たった一人の観客が席を立って、一歩一歩舞台へ近づいてきます。
「あなたは仕立て上げられた人生を生きて、死んだ。そして今度は私の人生を奪う。そうすることで奪われた人生を取り戻したつもりでいるのね。でもね、あなた自身の人生にはならない。私自身がこれまで生きた二十三年がすべて無しになるわけじゃないから。あなたは世間に本当の自分を隠して生きることになる。人生すべてが舞台となり、あなたは女優であり続けなければならない。私なら我慢できない。そういうのは前世だけで十分でしょ?」
あなたは震える声で問いました。
「どうして、あなたが。あなたがいる……?」
「舞台の観客として全部見せてもらったから」
「やめて! 言わないでぇ……!」
舞台の脇にあった階段を上がり、彼女はあなたを見下ろします。その姿は女王のものではありませんでした。栗色の髪に榛色の瞳をしています。
「ずっと私の傍にあった気配はあなたのものだったのね。はじめまして、マリー。私の名前はリディ・フロベール。国立国民議会図書館で働いています」
彼女はあなたに片手を差し出しています。白くてきれいな、何にも汚れていない手です。
「やめて!」
その手を夢中ではねのけました。彼女の眼光に耐えられなかったのです。
「同情なんてお断りだわ。あ、あなたが誰だろうと関係ない。ぜんぶ、奪いとってやると決めたのよ。今はそう、私こそがリディ・フロベール……。うまくやってみせる」
「声が震えているのに」
彼女はいっそ優しい声であなたの手を取り、頑なに結ばれた拳をほぐします。
「本当はわかっているのよね? あなたは辛い気持ちをだれかに聞いてほしかっただけ。だれかから気にかけられて、愛してほしかっただけなのよね?」
「え……」
あなたは驚きます。だって、急に視界が揺れて、あなたの目からあたたかなものが零れ落ちたのですから。
ねぇ、マリー、と彼女は微笑みます。
「世の中には切り拓く運命と理不尽に受け入れなければならない運命がある。私たちはいつだって理不尽に受け入れなければならない側だったね。でも、そんな中であったとしてもよく頑張っていた。――だって、私たちは(・・・・)女王だものね」
「私たち」と彼女は言いました。
「マリーも懸命に生きていたんだね。ごめんね、今まで気づかなくて」
「そんな……」
ちがう、ちがう、とあなたは首を振ります。自分の決意が揺らぎそうでした。心の底に沈澱した黒い泥がすっと溶けてなくなってしまう心地さえしたのです。
本物の女王がこんなに思いやりのある優しい人だと知りたくありませんでした。人々の期待と栄光の中で生きた彼女は、自分を気に留める義理さえないはずです。それなのに自分に落ち度があったかのように謝罪します。
そのことがとても惨めで、自分がちっぽけなような気がしました。ここでも抵抗していたら、それこそあの男と同じひとでなしになってしまうのです。
どうせ汚い体だからと娼婦のように快楽に溺れた自分をも肯定してくれる人は今までいませんでした。
彼女の慈愛に縋ってしまいたい、そう思ってしまったのです。
「近づかないで!」
スポットライトだけが当たった舞台の上。あなたは必死で叫びます。舞台の主役はあなたです。人生の主役はもうあなたなのです。悪魔だと罵られようとも、もう引くには遅すぎました。
「賽は投げられた! 奪ってみせる、なにもかも! たとえ、マリー=テレーズ女王、あなたを殺してでも!」
あなたの手には軽い銀のナイフが握られていました。以前のように、他人をそそのかしてそうするのではなく、自分自身で手を下さなければならないと強く感じていました。
「死んでえええええッ!」
彼女に向かって突進するあなた。
突如、足が宙に浮きました。
「え」
足を何かが掴んでいます。一瞬であなたは舞台に開いた奈落の端にへばりついていました。
「マリー!」
彼女が必死な顔でマリーの片手を引っ張っていました。
「ナイフを離して、私の腕に捕まりなさい! 早く!」
右手には銀のナイフが握られていました。足の方が焼けるほど熱いことに気付いたあなたは奈落の下を覗き込めば。
マリィィイィィィィ!
「やだやだやだやだぁ!」
焼けただれた顔があなたを見て、にい、と嗤います。あなたの足を掴んで下へ引きずり込もうとしている男を知っています。
「渡さない! 渡さないわよ、アレッサンドロ! 地獄に落ちるなら一人で落ちなさい!」
あなたを懸命につなぎとめようとする彼女が叫びました。
「金糸雀はもう飛び去った! 自由を求めてアルデンヌの空へ羽ばたいたのよ!」
ギィイイイイ!
鳴き声とともに白い何かがあなたの傍らをさっと通り過ぎます。この世のものとは思えない断末魔が下に向かって落ちていき、足を引っ張っていた力が消えました。
ほっとした途端。あなたの目から熱いものが一筋流れました。するりと右手からナイフが抜け落ちました。空いた手で彼女の腕を掴みます。あなたの体は舞台上へ引き上げられました。
「ご……ごめんなさ……」
喉から漏れる嗚咽をこらえきれずに泣き出すあなたを彼女はしっかりと抱きしめ、「大丈夫、大丈夫」と繰り返します。
視線の先にはフクロウがぽつんといて、物言わずに二人を見つめます。
「死にたくなかった。……死んでまで死にたくなかったの! あたしは……あたしは、あの部屋にいるほど自分が見えなくなっていくみたいで怖かった……!」
あなたはいつまでも泣き続けました。舞台にはあなたとリディ、そしてフクロウだけが残りました。
……するすると、舞台の緞帳が下がりました。