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幕間

【幕間】

 彼の朝はとても早い。夜明け前に起き、燭台の薄暗い明かりの元で身支度を整える。召使の持ってきた盥の水で顔を洗う。剃刀で髭を剃る。整髪料で髪を整える。わずらわしいので(かつら)は付けない。アッシュブラウンの地毛を大きなボゥで後ろに結ぶ。着替えまで済ませてから彼女を起こす。

 彼女の部屋に入る時はノックを欠かさず二回行う。返事がないのはいつものことなので構わず入る。ベッドの上の眠り姫を上から覗き込み、「おはよう、マリー」と声をかける。

 もそもそ起きだした彼女はすぐに紅茶を飲む。あらかじめカップには蜂蜜を小さじ一杯分入れる。カップを受け取ると彼女はすぐさま飲み干す。

 それから顔を洗い、着替えをする。コルセットのひもを結ぶのは男性の役目だ。後ろ向きに壁に立たせてひもを引っ張る。侍女にださせた数点の胴着(ボディス)やガウンから彼の選んだものを着させる。彼女にはストライプに花柄のガウンがよく似合う。

 金色の髪はこてで巻いておいて、一部は顔の両側から垂らし、後ろ髪は花と羽根の飾りをつけてまとめる。白粉をはたいて、頬紅を軽く乗せる。くすんだローズピンクの口紅を唇に塗る。

 侍女が宝石箱を持ってくると、彼は彼女に似合いそうなとっておきの宝飾品を選ぶ。指輪はダイヤモンド、耳飾りは真珠、開いた胸元を飾る首飾りはサファイア。

 朝食を摂るために彼女を連れて食堂に移動する。食卓に並べられたプレートにはパンやチーズ、白ソーセージが並び、召使たちが恭しく給仕を行う。

 食事の会話はもっぱら今日の予定のことだ。彼女を淑女とするための教育は道半ば。必要な教養は多い。毎日毎日、彼女のために教育計画を考え、実行する。彼女は非常に優秀な生徒だ。砂地が水を吸収するように簡単に教えたことを身に付ける。とても誇らしい。

 食事の後は勉強の時間だ。

 日中は彼自身がラテン語を教え、夕方からはダンスの講義をする。曲を演奏する演奏者も確保してあったのですべてが順調に進む。合間の休憩時間には軽くビスコッティなどをつまませる。彼は彼女の傍にずっといる。気分転換の散歩にも付き添い、日に三度ほど行う着替えにも付き合う。

 晩餐はまた食堂で摂る。前菜のスープからはじまるコース料理を時間かけて味わう。デザートには季節の果物が出てくるのだが、これを毎回彼女は心待ちにしているのだ。

 夜には手記をつけるのが習慣だ。彼女の日々の思いを綴られる。彼女がどんなに彼のことが大切で、愛しているのか。彼にとっては至福の時間だ。

「さあ、もうお眠り」

 燭台の蝋燭の火が消えるころに就寝を促す。彼女は化粧や着替えを済ませる。静かにベッドで横たわり、目を瞑る。これを見届けると、彼は燭台を持ち、部屋を出る。丈夫な木の扉には頑丈な鉄の鍵がついている。彼は腰のベルトについた鉄の鍵を取り出して、鍵穴に差し込んだ。

 鍵は内側から開錠できない仕組みになっている。部屋の窓には鉄格子が嵌っている。照明となるものもすべて出してしまう。彼女はここから逃げられない。

「おやすみ、マリー」

 彼はひっそりと呟き、唇に笑みを刻む。彼の幸福はここにある。彼女は何も知らなくともいい。俗世間の醜さも息苦しさもこの中にいる限りは感じなくていい。

 無骨な鉄の鍵を回した。ガチャン。ああ、今日もこれで終わりだ。

ガタンッ、ガタンガタンガタンガタンガタンッ!

突如、鍵を閉めた内部でけたたましい音がした。

 震える手で開錠して扉を開けた。ぼんやりとした燭台の火が部屋の中を照らす。足元に壊れた椅子があった。

 ワンピースの寝間着を着た彼女が立っていた。生まれたままに流した金色の髪。青い目。

 だが、何かが違う。どこかが違う。鉄格子の隙間から流れ込む月光を浴びて、彼女の白い肌が真珠の粉を振りかけたように輝いていた。そしてそんな彼女の肩には……不気味なフクロウが乗る。仮面のような貌。黒い眼で彼をひたと見据える。

 彼女は隅々まで部屋を見回す。

『ここは狭いね。外に出るのは食堂や散歩ぐらいで自由に出歩けない。傍にはいつもあなたがいる。ほぼすべての時間がこの部屋で完結しているのなら、息がしにくいと思っても不思議じゃない』

 ギィ、と相槌を打つようにフクロウが啼く。

 詩を朗読するかのごとく女は言う。

『空気が重い。色味が感じられない。匂いがない。味がない。美味しいはずの白ソーセージもまるでぶよぶよの芋虫を引き裂いているようだった』

「なんだと?」

 烈しい怒りを感じた。足音高く彼女に詰め寄る。だが女は彼を睨み返すのみ。彼女ならそんなことしない。彼女ではない。

「誰だ、おまえは誰だ」

『私こそ言いたいです。あなたは誰ですか、あなたが『マリー』と呼ぶ人は誰のことですか』

「黙って質問に答えろ!」

 彼女は肩を揺らして窓辺を見た。突如、稲光が閃き、雷鳴が鳴り響いたためだ。

『驚いた……。こうしていても埒が明きませんね。私の名前はリディ・フロベール』

 再びの稲光と雷鳴。閃いた一瞬で、彼女の目が爛々と猫のそれのように光る。

 激しい雨音が窓ガラスを叩いている。

『次はあなたの名前を教えてください。物事を進めるためには建設的な話し合いが必要です。知っていることを教えてください。私も話します』

 長い長い沈黙が二人の間で横たわる。彼は書き物机から椅子を引っ張ってきて、乱暴に足を組んで座った。

「ほう。おまえならマリーの居場所がわかるのか?」

『あなたよりは知っているかと。探しているのでしょう? ならばこの話し合いは有意義なものになりますよ』

「よろしい。乗ってやろう。話せ」

『はい。でもその前に答えてください』

 彼女は燭台をベッドのサイドテーブルに置き直し、ある物を引き寄せた。

『この手記はあなたが書かせているものですか?』

「それが彼女の習慣でね。彼女は私のことを愛しているから」

 マリーと同じ顔の彼女が眉根を寄せるがマリーならそんな顔をしない。

『彼女の名前は……マリー=テレーズ?』

「そうだが?」

『今は西暦何年ですか?』

「西暦1737年だ。昨年、ロレーヌ公がハプスブルグ家の王女と結婚した。答えて何になる」

『大事なことです。西暦1716年。この年の出来事を覚えていますか?』

「覚えていないね」

『女王マリー=テレーズが死んだ年です』

 ピカッ。また稲光が走った。すさまじい轟音が響く。

「彼女は私の傍にいる。公には死んだことになっているが、ひそかに私とともに生きている」

 女は困った顔をした。俯いて、燭台の光を元に手記をめくる。

 私の知る限りは、と彼女は告げる。

『彼女は自分の肩に背負った責任を途中で投げ出すような真似はしませんでした。自分にしかできない仕事を真剣に取り組み、走り続けるしか道はなかったんです。そのためにたくさんの犠牲を払ったけれど、それさえもう覚悟していました。昔、恩師にも教えられていたことだったから。本人なら不快に思ったでしょうね。自分自身の生き方を否定されるようなものだから』

 女は手記を閉じ、ベッドの上に置き、男を見上げた。

『女王マリー=テレーズはたしかに死にました。西暦1716年の冬、カールブルクの王宮で』

 だから、この手記は『偽物』以外の何物でもありません。女が断言した。

『私の中には私の知らないもう一人の私がいる。そんなふうに思ったこともありました。それほど本当によく忠実に再現できている手記でした。書き癖も、文章から滲む思考パターンでさえ、そっくりです。記憶しか持たない私には、判別しがたいものがありました』

 でも、と愛する女と同じ顔をした別の女が静かな怒りを湛えた目で男を批難する。

『手記が偽物だとわかった今、私が知りたいことはひとつです。この手記を書かされた人についてです。その人があなたのお探しの『マリー』という女性なら……私はあなたを許しません』

 ここで過ごしていた間、私は人形だった、あなたの意のままに操られるお人形だった。

 女がそう訴えてくるのだが、男にはどれもこれもぴんと来なかった。そんなことよりも『マリー』だ。愛しい人はどこにいる?

「マリーはどこだ?」

 彼には信じられないことに、それよりも、と女は遮った。

『あなたはどうして彼女に逃げられたのかを考えた方がいい。……別の器にマリー=テレーズという名前を付けても、本人になれるわけがないのだから』

「マリーはどこだ」

『知りません』

 稲光と雷鳴が交互に訪れた。彼は微動だにしないが、女は時々、驚いたように肩を震わせる。しかし、態度だけは男に対して一歩も引いていない。それが彼のカンに障る。

「……逃げた、と世迷言を申したな」

『事実でしょう。彼女は私を使って金糸雀館(カナリアハウス)から逃げました。でも、ヒントはおそらく残っている気がしています。たとえば、この手記』

 女が手記を持ち上げると、とたんにおぞけが立った。男はようやく、女が閉じられた世界の破壊者として現れたことを自覚したのだった。

「やめろ!」

 女は男をひと睨みして黙らせた。黙らせてしまった。その刹那、彼は天啓のように悟った。その青い目。見たことがある。

かつてのアルデンヌの王宮で。彼の話を聞いたかの(ひと)は同じ目をした。彼が女王に惚れた瞬間に時が巻き戻る感覚。

アルデンヌ女王マリー=テレーズ・リエージュ!

「うそだ。……うそだうそだうそだうそだ!」

『あなたは教え子を裏切ったのですね。無邪気な信頼をふみつけにして、自分の欲を優先した。彼女の先生でありながら』

 彼のうろたえを気に留めない女王は、肩に動かぬフクロウを乗せたまま、手記をめくり続け……最後の頁に辿り着く。

『『死にたくない』。この言葉が、ずっと引っかかっていた。あなたならその意味がわかりますか? 私には書いた人の心の叫びが聞こえるようだったのだけれど』

 認めてたまるか! 彼はとっさに叫んでいた。

 彼が作り上げた彼のための世界。優しく、幸せなだけの世界だった。そこにやってきた闖入者は女王の名を騙り、彼を脅かそうとする。

 すぐさま彼は自らの敵を認定した。敵ならば排除する。たとえ、相手が『本物』であっても!

 男の手にすぐ取れたのは、書き物用の羽ペンだ。金属の先は鋭く尖り、簡単に心臓をひとつきできるだろう。

 女は抵抗するだろう、だが殺す。泣き叫ぶだろう、だが殺す。女が女王かもしれない、だが殺す。マリーの行方を知っているだろう、だが殺す。

 ベッド傍に立つ彼女を襲おうとしたその時。彼の眼前で羽根が舞う。

隙間からフクロウが女との間に入り、鋭いかぎ爪で逆に襲い掛かる。攻撃を避けているうちに、女が手記に手をかけたのがわかった。

 ビリビリビリッ。

あの手記が、背表紙から縦に裂けていく。彼の拠り所が破壊され、心が絶望に染まる。

見えなくなる、何もかも。

 声がする。泣き叫ぶ人々の断末魔が。旦那様、お助けください、とすがりつく声。逃げ惑う寝間着姿と激しい足音。その脳天へ振り下ろした斧から伝わる重み。

 手も足も肩も腰も頭も何かに引っ張られている。全部、白い人の手だった。彼が殺した召使たちだ。

 チッ、と舌打ちをする。

「忌々しいザコがいまさら私に逆らうのか。私を誰だと思っている……! 私はド・ワロキエの当主アレッサンドロ。誇り高き貴族だ! 平民風情はみすぼらしく惨めに死ねばいいんだよ!」

 手足がもげようが関係ない。人に運ばせればいい。頭が無くなろうが魂だけでも飛んでいく。

 マリー、マリー、マリー。彼の可愛いお人形。彼が創り上げた最高傑作を永遠に手にするためならば地獄に堕ちてもいい。彼女を道連れにして、地獄の業火で炙られよう。


「戻ってこい! マリィィィィー!」


 男の姿は闇の中に掻き消えた。

 ひとり残された私の前に、また無骨な扉が現れた。

 招待券を握りしめ、扉をくぐる。

 幕間はおしまいだ。


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