驚異の部屋
【マリー=テレーズ人生劇場・第三幕】
真っ白なシーツに血が一滴零れると痕が残るように、あなたはもう後戻りできないところにいました。
「美しい、私の女王陛下」と男はあなたを呼び始めました。そのたびあなたの心には恐怖、畏怖、嫌悪、憤怒、諦観といった様々な感情が入り乱れます。
大人にさせられてから初めて、それまでの自分が子どもだったことに気付いたのです。
男の目的はあなたを弄ぶことにありました。本当に女王としてあなたを敬うのなら、あんな恥知らずな真似はできないはずです。
領主の館には日々、大勢の人が訪れていましたが、あなたはそれを普段、目にすることがありませんでした。あなたの自室は館の中でもっとも奥まったところにあります。
《驚異の部屋》というものをご存知でしょうか? 当時のドイツ諸侯が自然科学や人文科学の分野にまつわるコレクションを集めて飾った蒐集部屋のことを言います。ガラスの厨子の中に、ホルマリン漬けの奇形胎児と南方の奇怪な食虫植物の標本が共に並べられているのは現代ではまずありえないことですが、彼らの収集は自身の興味関心を映す鏡であるのと同時に、中に入った者を混沌の小宇宙へと誘う原初の博物館の形でもあったのです。
あなたはこの《驚異の部屋》の奥の部屋で寝起きしていました。狭い部屋でしたが、「あなたを守るためです」と言い聞かせられていたのでそんなものだと納得していました。本当は毎日、壁を這うワニの剥製や今にも動き出しそうな十字軍時代の鎧の横をすり抜けて部屋に戻るのが億劫で、外できれいな花を摘む方が何倍も楽しかったのです。
たまにこっそりと一階の窓から外に出ることもありました。その時も井戸の近くで使用人の女たちが疲れた顔をしながら話し込んでいます。話していたのはおおよそこんなことでした。
「旦那様はすぐ怒る。近ごろ、また気が短くなったらしいね」
「なんて言ってるのさ」
「さあ。旦那様はアルデンヌの言葉が嫌いだからね。まったく! あんな調子でご領主様なんだからさあ。父親の方がまだ話が通じたのにねえ」
「そういえば今日も押しかけてきたんだろ、あの親。いつまでたかるつもりなんだろうねえ。どうせ実の娘じゃないのにさ、あつかましいったらありゃしないね!」
「あの子は気の毒な子だよ。まだ旦那様を信じてる。自分は女王なんだ! と偉ぶっているけどさ、本当のことを知ったらどう思うのかねえ。ただの孤児じゃないか」
「あたしは胸がすかっとするね! 横暴で殴りたくなるだろ。しょせん、あたしたちと大して変わらないのに、宝石がたくさんついた綺麗な服を着られて、いいものを食べられるんだからさ」
「あれは宝石じゃないんだって」
「うそ! 本物だと思ってたよ!」
「出入りの仕立屋に聞いたら、あれは粗悪なガラスの模造品だと。そもそもあんな大きさの宝石を持てるのは大貴族や王族だけらしいね。あの子は本物の宝石を見たことがないから、宝石だと思い込んでいるんだよ。可哀そうに。あの子は養い親に売られて、旦那様の愛人になったんだからねえ」
この会話を盗み聞いたあなたはどのように思ったのでしょうか。想像してみてください。あなたが幼心に信頼していたものが土台から崩れ落ちたさまを。
ややあってドレスの裾をからげて駆け出します。館の裏口から押し入って、廊下の使用人や花瓶にぶつかりながら《驚異の部屋》にいた男を探し当てました。これからされることをわかっていない男はあなたを出迎えるために両手を広げる仕草を見せましたが、そんなことはどうでもよかったのです。
鋭い張り手一つであなたの怒りは収まるわけではありません。あなたがしなければならないのは、男を地獄へと突き落とすこと。そのためだったら何でもする、そう決めました。
「私に愛されたいなら、これぐらいの痛みに耐えてもらわなくちゃいけないわ。だってタダで愛してくれるのはあり得ないもの。ねえ。私に愛されたい?」
あなたはこの夜、その時のことを思い返して笑ってしまいました。笑って笑って笑って……泣いてしまいました。
男とあなたの仲がいよいよもって歪になってゆきました。彼女は彼の支配者となって好きにしはじめます。男の召使に流し目を送り、わざと挑発的な態度を取ることもありました。そのたびに男は注意していたのですが、ある夜、男の外出時にあなたが使用人をベッドに連れ込んでいたことがばれ、男の頭に血が上りました。
いけないの、と裸のあなたは素知らぬ顔をします。
「アレッサンドロ。あなた、自分がいくつだと思っているの? とてもではないけれど、あなたに抱かれただけで私まで老けてしまいそう。だからこれは必要なことなの。私が美しい方がよいでしょう?」
彼の説教にも耳を貸しません。言い合いが何度も繰り返されるうちに彼は言うことを聞かせるためにあなたの首に手をかけました。
「私を殺すつもり。いいわ、やってみればいいわ。このいくじなし!」
あなたが勝ち誇ったような貌で男を見返します。それが逆上のきっかけでした。
数分後には女の躯がベッドの上に打ち上げられました。
男は壊れたように高笑いをします。召使たちがやってきて、遺体に悲鳴をあげました。すると男は蒐集部屋のコレクションにあった中世の斧を壁から取り外して、次々と殺しはじめたのです。
憎き間男たちを殺しました。見張りのできない侍女を殺しました。あなたの不貞を見て見ぬふりした家令も殺しました。男を話の種にして馬鹿にした女たちも、殺人を目撃しただけの知人も殺しました。
躊躇い? そんなものはありません。戦わなければ死ぬ。それだけなのです。
館にいた全員を殺しきった男は女の遺体とともにベッドに入りました。