フクロウの誘い
「うわお。……マジっすか」
彼は目を見張って上ずった声を出した。
「冗談ではなく? ブラックユーモアでもなく? リディさんの双子のマリーさんですか?」
「双子ではないわよ?」
否定しながらくすくす笑う。
「リディ・フロベールが『マリー』という役柄を演じているわけでもない。『マリー』がリディ・フロベールを演じることはあってもね。レオが今日会ったリディ・フロベールはこのあたし。でも大したことではないのよ? ちょっと中身が変わっただけだから。今まで通りに接してくれて構わないわ」
「それは無理です」
「どうして?」
「どうしてって……当たり前ですよ。変です。普通じゃないっすよ」
「感覚で物を言うのね。そういう男性は嫌いよ?」
あたしは静かに炭酸水の入ったグラスで唇を潤した。舌が冷たさを感じている。温度を感じられるということは、生きているということだ。肉体があたしにあらゆる五感を与えてくれている。そのたびに新鮮な驚きと発見があたしの中に流れ込んでくる。これが幸せというものだろう。このまま、手に入れてみせる。
「レオは魂の不滅を信じている?」
「え?」
「カトリックでもプロテスタントでも東方正教会でもいいわ。聖書の教えに対して敬虔であるのかしら?」
「いやうちは学者気質の家なのでミサに行くことはありますがそこまで熱心ではないっすよ」
「そう。実はね、こんな話があるのよ」
――むかしむかし、あるところにかわいそうな女の子がいました。女の子は悪い男に騙されて、ずうっと閉じ込められていたのです。死んだ後も女の子の魂はそこにずうっと閉じ込められていました。なぜならば女の子の前には彼女を天国に導いてくれる神様も天使様も現れなかったからです。
長い時間が経ちました。女の子はやっと外に出られました。女の子は思いました。『今度こそは幸せになりたい』と。だから彼女はこうしてこの場にいるのです。
「幸せになりたいと思うことは、悪いこと?」
「悪くはないっすけど。本当の話なんでしょうか」
ええ、とあたしは肯定した。
「残念ながら人間は死んでも魂はそこにある。どこにもいかずに生前に犯した罪を繰り返し続けるの。生者は誰も気づかないまま。だから死んだら終わり。二度と救われないの。この世は地獄で、天国はない。これが世界の真理。救世主は現れない」
「もしそれが真実なら救いようのない話っすね」
青年は反応に困ったように耳のピアスをいじっている。
「事実よ。あたし自身のことだから」
「……本当に?」
押し殺した声音が彼の疑念を伝えてくる。うたぐりぶかい人だ。
「金糸雀館と呼ばれる館の奥で手記とともにずっといたのがこのあたしよ。あたしの名を聞いたらレオはきっと驚くわよ?」
「……マリー、と先ほど名乗りましたよね」
彼はある種の確信を抱いていた。彼が今思い描いた名前は、あたしの答えと一致している。
「私の名前はマリー=テレーズ・リエージュ。アルデンヌの女王よ」
折よくウエイターが食事を運んできた。グラーシュ、パン、カクテルグラス。赤スグリのカクテルの入ったグラスを掲げた。
「乾杯しましょう。私(マリー=テレーズ)の二度目の誕生に。乾杯!」
彼はぽかんと口を開けていた。
「いやいやいや。わけわかんないっすよ! 急に女王とか言われても! 第一、本物のリディさんは一体どこに」
「慌てないで。料理が冷めてしまうわ」
銀のスプーンで深皿のスープを掬って口に運べば、温かくて幸せな味がする。死んでいるより生きている方が何千倍も楽しい。
「レオも食べたら? はい、あーん」
「やめてください」
彼に一口差し出せば、彼はそのスプーンを押しのけて嫌がった。少し傷つく。
「つまり、あなたがいいたいのはこういうことっすか。自分自身は幽霊で、リディさんの体を乗っ取った。乗っ取ったあなたは、あの女王マリー=テレーズだと」
「そうよ」
「……ありえない」
レオは頭を抱える素振りを見せる。料理にはほとんど手を付けていなかった。そこまで深刻に考える必要はないのにと思う。
彼は唐突に立ち上がった。
「病院に行きましょう。多少なりとも症状が改善されるかもしれません」
「やめて。レオは私を病院に閉じ込めたいの?」
「あ……」
彼は力が抜けたように座り込んだ。
「俺のせいですか。俺がリディさんをあそこに連れて行ったからこんなことになってしまったんすか?」
「そうね。あなたのおかげであたしはここにいられる。レオには感謝しているわ。ありがとう、レオ。解放する手伝いをしてくれて。そして、だからこそレオはあたしのために協力しなくちゃいけないわ」
「何を……言っているんです? 協力? どうして俺が」
うちのめされた彼に、私はさらに打撃を与える。
「あなたのせいでリディ・フロベールは頭がおかしくなってしまったのよ? レオ・レイマンは一生かけてその責任を負うべきだと思うわ。そうね……差し迫って取り繕うべきは、あたし自身の知識量かしら。携帯端末を少しいじってみたけれど、なかなか難しかったもの。ああいうものについていくのも大変でしょ?
私たちは一緒にいると都合がいいのよ。ひとまず一緒にいても自然な理由が必要ね。
レオとあたしは恋人同士ということにしましょう」
青年は顔をひきつらせた。
『会えない日々、夜にはあなたのことを思い出す。きっと手を触れ合せることすら許されないのに。あなたが手の甲を取れば、その手から私の気持ちは溢れ出てしまい、この恋は人に知られるものになってしまうのでしょう』
『多くの宝石よりも、あなたの方がきらめいている。あなたの愛の言葉で今日も生きていられるのです』
『秋が深まり、冷えてくると、あなたのぬくもりが欲しくなります。幾重もの壁を乗り越えて、私に会いに来て』
無心で手記を繰っていると、遠くの木でフクロウが啼いていた。あれも寂しいから啼いているのだろう。
おいで、と叫んだら、フクロウは窓をすり抜けて入ってきた。
真っ白なメンフクロウは、女王の部屋に飾ってあった剥製のフクロウとよく似ている。もしかして、女王の銅像にいたフクロウ? 確かめようはないけれど。
フクロウは私の足元までとたとたと寄ってきた。不思議と人懐こいフクロウは、嫌がらずに触らせてくれた。
さて、と気合を入れた。
昔から、何度か不可解な現象に遭遇してきたけれど、異界に迷いこんだのは初めてのことだ。しかし、私にも味方らしき相棒がいるのは心強い。
撫でられていたフクロウが、急にギィ、と啼く。飛び上がって、私のいるベッドに上がる。例の手記を踏みつけた彼は、そのまま何かを吐き出した。白い紙きれのようなそれを拾い上げると、こう書いてある。
――『マリー=テレーズ人生劇場 招待券 リディ・フロベール様専用 幕間は外でお待ちください』。
目の前に、いかめしい鉄の扉があった。この狭い牢獄には場違いなほどに大きな扉が開いている。中は暗闇で、何も見えなかった。
ただ、フクロウが私を誘うように扉の向こうまで行くものだから、意を決し、入ることにしたのだった。