嫉妬
今の職場は、路面電車に乗って二十分、さらに徒歩で五分のところにある。
法律の立案・討論・制定を担う国の中心たる国民議会場。その道を挟んで隣の敷地に職場がある。
かつてアルデンヌ王家が所有した宮殿を転用した国立国民議会図書館がそれだ。建造させた王妃の名前から、通称「ポンパドーラ」。鳥が両翼を広げたような形の建物には、主に国内を中心とする書籍、雑誌、古文書、辞書、地図等のあらゆる文字資料が収蔵された国内最大かつヨーロッパ有数の図書館だ。
私はここで三年前から図書館員として働いている。その国立国民議会図書館内のオフィス。二十を超える調査室のうちの一人に私のデスクがある。
仕事柄、紙の書類や書籍がどうしても積み上がりがちになる席に着いた途端、別のオフィスにいた上司が入り口から顔を出した。
「下院議員会館から呼び出しだ。先日君が出した調査結果の説明がほしいそうだ」
「どなたからですか?」
君がまっさきに思い浮かべた人物だよ、と上司が肩を竦めた。
「わかりました。すぐ行ってきます」
「いってらっしゃい」
白髪交じりの紳士に見送られ、オフィスを出た。下院議員会館は国民議会場から徒歩で行ける。関連書類をまとめてから外出した。会館につくと、職員証で入り口の電子ゲートを通り抜け、三階の一室をノックする。
「失礼いたします」
「どうぞ」
入ってすぐにある白いパーテーションの向こう。三つ揃えの仕立てのよさそうなスーツを纏う若い男性がマホガニーの机から顔を上げて笑顔になる。起立すると、ごく自然に握手を求めてきた。
「こんにちは。リディ女史。今日もきれいだね。今度デートしない?」
「だめですよ、マクレガン議員。議員と同じく議会期間中で忙しいので」
ちぇ、つれないなあ、と彼はさして気にしたふうでもなく、応接机に座るよう促した。
彼はマクレガン議員と言い、将来有望な野党の若手議員だ。恵まれたルックスと明晰な頭脳を持ち、歯切れのよい話し方をする彼は、スピーチをすれば画面が映える。政党でも広告塔のような扱いだ。この野党が近く政権を取ることがあれば、彼にも政権でのポストが約束されるのだろう。
世間をそつなく渡り歩いている彼だが、なぜか私にはこういう軽口を叩くことが多い。
「君のそういうさっぱりしたところは好きだよ。ところでね、今日届いた資料のことでいくつか聞きたいことがあるんだ。ここと、ここと…ここ。与党追求の肝になる情報だから詳しく知りたい」
打って変わって真剣な顔になる議員。私は議員の示した書類を確認し、自前の万年筆とメモ用紙を取り出した。
「承知しました。これぐらいならばすぐにご説明できます。議員、少しお時間をいただいてもよろしいですか?」
「構わないよ」
説明するのに十数分かかった。彼は納得した面持ちで顔を上げた。
「なるほど。君の説明はいつもわかりやすくて助かるよ。リディ女史が私のブレーンになってくれたらすごく助かるのだけれどな」
「今の仕事が気に入っているので。誘っていただけるのはありがたいですが」
「……それだけじゃないの、君もわかっているだろ?」
マクレガン氏は書類を手放し、膝の上で両手を組む。深い緑の眼が、私の視線を絡めとろうとしていた。
「君自身が望んでくれるなら、極めて親密な、プライベートな関係も築きたいと思っているよ……わかるかな」
マクレガン議員は魅力的な男性であるけれど、時折こうして私を困らせる。彼が求めているものは知っていても、差し出すわけにはいかないのだ。
「残念ながら、よくわかりません」
テーブルに散らばっていた書類を整えながら、もやもやとした気持ちをもてあました。社会人の気疲れの一番の原因は、人間関係だと思う。踏み入らず、踏み込ませずの関係でいたいのに、そうさせてくれない人がいる。
「大丈夫ですよ、私が言わないだけで、他から見れば議員は十分にすばらしい方だと思います」
「君に言われたいんだけれどな」
議員は微笑んだ。
「リディ女史は年齢の割に男のあしらい方が上手くないか? 毎回、きっちり釘を刺してくるところに痺れるよ」
「似たようなことを繰り返したら慣れますよ」
それから、と言葉を継いだ。
「奥様によろしくお伝えください。議員がお持ちの資料ですが、数枚分欠けていました」
彼の表情がかげる。
「そうだったね。うん。よく理解したよ。君が説明したところは、本来なら君がくれた資料に含まれているはずだった。……気を付けていたんだけれど、結果、君にも手間をかけさせてしまったね」
「いいえ。これも仕事ですから」
「僕もさんざん注意しているんだけれど……もう」
彼のため息のつづきは聞かなかった。
「とにかく彼女には僕から強く言っておくよ」
「ありがとうございます。……それでは」
また来てね、という言葉に見送られながら、議員のオフィスを後にした。ガラス張りの廊下の向こうから、背の高いすらりとした若い女性が歩いてくる。TPOをわきまえないエルメスオレンジの革のジャケットに、同色のミニスカート。サングラスを額にかけた金髪の彼女が、つまらなさそうに血のようなスカーレットの爪先をいじっている。
彼女と目が合うと、その顔が醜く歪む。
すれ違う際に、ぎゅっと腕をとられた。ぐぐぐ、と爪先が私の腕に食い込んで痛い。
「やめていただけますか。私は仕事をしにきただけです」
「信じない。あの人に色目を使ったでしょ。奪うつもりね。そうはさせないわ。あの人の愛はあたしだけのものなのよ!」
心底、馬鹿らしいと思った。彼女の手をむりやり振り払う。
「議員が大事なら、秘書として適切なサポートをするべきでは? 仕事の邪魔をされるのは困ります」
ぴしゃりと言い放って横をすり抜ける。彼女は追いかけてこなかった。
仕事自体は楽しいけれど、人間関係はわずらわしい。
議員の個人的なパートナーを自称する彼女は、国立国民議会図書館にとっても悩みの種のひとつだ。彼女のために、議員の担当者が何度も替わった。私は五人目だ。
世の中には驚くほど非常識な人がいるものだけれど、ここまで強烈な人は昨今なかなかお目にかかれない。
秘書の彼女の嫉妬心はいずれ自分の身を滅ぼすだろうが、その時には関わり合いにならないことを祈るほかない。