デート
【マリー=テレーズ人生劇場・第二幕】
養父による教育の中で一番苦労したのは語学でした。礼儀作法は身体に覚えさせれば何とかなります。ですが、アルデンヌ語の読み書きさえ満足にできなかった『あなた』がいきなりドイツ語やフランス語、ラテン語を習得できるわけもありません。
「アルデンヌ語は野蛮な言葉です。フランス語をきちんとやりなさい。王宮ではフランス語が使われているから」
養父は書き文字には大変厳しい人でした。お手本を見せられて、同じように書けと何度も何度も書き取りの練習をさせられます。できなかったら手の甲を笞で打たれ、食事が減らされました。教師は『あなた』に付きっ切りで、自分が下した罰を自分も受けていました。そのたびに痛がる養父の顔に、あなたは申し訳なさが募ります。
ダンスと音楽の授業は好きでした。いつもやってくるピアニストが伴奏を始めると、自然と鼻歌が出て踊り出します。はじめこそ大変でしたが、今では慣れたもの。パートナーを務める養父をたじろがせるほど軽やかなワルツのステップを踏みます。
「王宮にいるどんな貴婦人よりも殿下はダンスがお上手です」と褒められると、あなたは鼻高々でした。
「あなたのおかげだわ」
「はっ……」
こうした教養の勉強と並行して、あなたのためにはるばる都から仕立屋を呼び、たくさんの衣装が作られました。孤児院ではつぎはぎだらけの服を着てぶすくれていたあなたが、たっぷりのレースのつけたドレスや、真珠のピアス、ガーネットの首飾り、大粒のエメラルドの指輪を身に着けているのです。昔のあなたを知る人は、今のあなたを見て同一人物とは思わないでしょう。
三年ほど経つと、あなたは誰の目にも素晴らしい貴婦人へと変貌していました。養父は日々、美しさを増していくあなたを見て、「そろそろ大人になるころです」と告げました。養父の瞳には狂おしいほどの熱がありました。けれど、あなたはそれを「養父が王宮に連れていく時期に来たのだ」と思い込んでいました。なぜなら、あなたは女王になる人だから。
その頃、あなたは頭のおかしな人に会いました。館に訪れた白髪の老人が、偶然客間の前を通りかかったあなたを見るなり叫びだしたのです。
老人はあなたには聞き取れないほど早口のラテン語でまくしたてながらその腕を掴んで揺さぶりました。止めたのは養父でした。あなたの肩を抱きよせながらきっぱりと、「お引き取りを」と怖い顔で言い放ちます。
あなたは老人の目が血走っていることが不可解でなりません。彼にはきっと不幸なことがあったに違いありません。だからあんなに泣いているのです。
「旅の方、あなたの人生に幸福があることを祈っておりますわ」
老人は薄笑いを浮かべました。何かを言おうとした口が使用人の手で塞がれ、どこかへ連れていかれます。養父はあなたを心配して自室に戻らせました。表情が見たことがないほど強張っています。
「どうしたの?」
「いいえ、何でも……」
養父は言葉を濁しながらさきほどよりも強く肩を抱き寄せました。いっそう密着する気配にあなたは思わず大きく身体をのけぞっていました。
「やめてちょうだい。まるで恋人同士の距離感だわ」
冗談交じりで告げた言葉でした。本当に何気ない気持ちだったのです。
けれど、後になってあなたはあの時こそが転機であったと思い知らされました。下り坂を転げ落ちていくきっかけは、ちょっとした出来事の中に潜んでいるのです。
忌まわしい事件が館で起きることとなりました。嵐が来て、あなたの大切にしていた庭園の花を無残に踏み散らしていったのです。
もうあなたは養父を信じない。
イーズ駅に朝早く着いた。時間潰しに駅前のカフェの窓際にあるハイカウンター席で角砂糖を二個入れた紅茶を飲んでいると、ガラス越しに「リディさん」と口の形が動いている彼と目が合った。
返事の代わりに小さく手を挙げて応じる。店内に入った彼は黒いサングラスを外し、隣席に腰かけた。
「イーズに来たから迎えに来てと連絡が入ってびっくりしたっすよ。何かありました?」
「そういうわけではないの。前回来た時はゆっくり観光もできなかったから。レイマンさんはここに住んでいる分、たくさん楽しいところを知っているでしょう?」
「え。それはまあ、そうっすね」
きょとんとする青年に頬杖をしながら微笑む。彼の顔にうっすらと朱が上る。……わかりやすい。
「デート、っすね」
「そうよ。だめ?」
「全然ダメじゃないっすよ。でもいいんすか、期待しても」
「期待?」
「いろいろと。少しは俺のこと好きになってくれたのかなあと思うでしょ?」
「自分で考えて?」
「そのうち答え合わせをお願いしてもいいっすか?」
「いいわ」
「ならそのうちに。今日は楽しみましょう。どこか行きたいところはありますか?」
「レイマンさんが連れていってくれるならどこでもいいわよ」
「なかなか責任重大っすよ、それ。女の子は『どこにでも』と言っておきながら男側のセンスを試してません? でしょ? やだなあ」
そう言いながらもレオの顔は笑んでいる。
「頑張りますよ。ではさっそくしゅっぱつ~!」
路面電車を乗り継ぎ、イーズの中心部へ。イーズ市庁舎前の広場で降りれば市場が開かれている。
「イーズの市場はほぼ毎日、あの大聖堂の鐘が午後を告げるまで続きます。授業の合間に俺みたいな学生が何か買いにくるんすよ」
市場には日用品や土産、食事に至るまで幅広い品揃えの屋台がまがりくねった通路を形成するように連なっている。
「俺のおすすめはあそこのパンです。焼きたてですし、ほんと旨いんすよ」
「そうなの? 食べてみたい」
「買ってくるっすよ。ちょっと待ってて」
レオは屋台に走る。広場周りの建物の壁際で待っていると、紙袋を持った彼が戻ってくる。
「ついでにチーズと野菜を売っている屋台に寄ってきたっす」
堅めのパンの切れ込みに薄いチーズと野菜が挟まっている。量が多いので半分ずつに分ける。建物の壁に寄りかかったまま食べるパンはまだほんのりと温かく、噛みしめるほどに香ばしさが口の中に広がる。
「おいしい!」
「でしょ? ここにはよく来るんです。あとはですね、あそこのジャムの店! 種類が多くてどれも甘くておいしいんすよ。アプリコットジャムは特に絶品です。日持ちはしないんで、同じ寮に住んでる友人たちとシェアして食べてます」
「レイマンさんは寮にいるの? 寮生活は楽しい?」
「もちろん。色んなやつがいますよ。よくみんなとパーティーをしてバカ騒ぎばかりっす。音楽好きなやつは酔うとヴァイオリンを弾きだすんです、裸で」
「裸で?」
くすくすと笑ってしまう。レオは慌てて言う。
「あ、でも勉強もしてるっすよ。先生にはいつも怒られてばっかりっす。でもこの間、また発見がありました。先生、実はああ見せて動物には赤ちゃん言葉を使ってるんすよ。大学をうろついていた白猫に『私のスイートハートちゃん、どちたんでちゅか~』って」
「そうなの?」
「リディさん信じていないんすね? 本当っすよ」
パンをお腹に納めた彼は手に残ったパンくずを払い落して、ジャムの屋台を指さした。
「たのめば試食もできるんすよ。行ってみないっすか?」
「行きたい!」
彼一押しのアプリコットジャムを一瓶買った。それからアンティーク調の懐中時計を売っているおじいさんの屋台や気のいいマダムがいる花屋などを眺めて回る。午後には市街地を歩きながらレオおすすめのアイスクリームショップのテラス席でキイチゴとチョコレートのアイスカップを食べる。
どれもこれも美味しくて楽しい。
それからふとある店のショーウインドウを覗き込んだ。反射したガラスが私自身の顔を映している。隣にレオが立った。
「どうしたっすか? そのテディベアが気になりますか」
「え? ええ、そうなの。かわいいと思って」
どきりとしながらショーウインドウにディスプレイされたおびただしい量のぬいぐるみのうちの一つを指さした。
まるでクマのぬいぐるみだけが住まうおとぎの国だ。どれもが幼子のようなつぶらな瞳を向けていた。
「あれが……」
指さしたのは何となく目に留まった枯草色のぬいぐるみだ。ふわふわの毛並みがタンポポの綿毛みたい。
「あれっすか? ……まだいけるかな。入って見てみましょう」
彼は独り言を言いながら値段を確認すると、私を連れてコバルトブルーの扉を開ける。
「すみませーん。あのテディベアをちょっと抱かせてもらってもいいっすかー?」
店員の承諾を得ると、レオは私の腕にぬいぐるみを抱えさせる。
ふわふわだ。予想以上にとてもかわいくて、見ているだけで微笑んでしまう。
「どうっすか?」
「……かわいい」
「そうっすよねー。水兵服着ているのもまたイイ。こいつは男の子ですね」
「そうね」
口調のそっけなさとは裏腹に、内心ではひどく気に入ってしまい、ふわふわの毛並みをいつまでも撫でていた。そのうち、彼が「借りますね」とぬいぐるみを取り上げる。そしてそのまま店員へ会計を済ませてしまった。
「どうぞ」
「いいの?」
正真正銘の我が子になったぬいぐるみを抱きながら尋ねる。
「いいっすよ、これぐらい。それで次はどうします? 実は近くに植物園があるんすよ。イーズでは定番のデートスポットなんすけど行ってみますか」
「……いくわ」
植物園はイーズの路面電車の路線の終点にあった。親子連れが遊ぶ草原の中、ガラス張りの植物園の建物がある。大きな鳥かごの形にも似ていた。
連れられて入った内部は温かい。南国のカラフルな花々が咲き乱れ、頭上では名前の知らない鮮やかな体色の鳥が飛んでいる。
大きな赤い花、濃い緑色をした大きな葉っぱが生い茂る中、蛇行する通路を歩いていく。夕方に近いこの時間には人も閑散としていて歩きやすかった。
「カップルが多いのね」
「雰囲気がありますからね。いいところでしょ?」
「うん、好き。でも他の女の子と一緒に来ていたら嫌だと思うわ」
くまのぬいぐるみを抱えたまま振り返れば、彼は目を丸くして立ち止まった。
「今日のリディさん、いつもと違いますね。雰囲気が柔らかいというか……可愛い。俺に心を許してくれている?」
「しらない」
ぬいぐるみを盾にして表情を隠す。
「しらないと言うのはずるいなあ。好意を持っているのは俺だけってことすか? あー、残念」
「だってわからないもの、本当に。そんなに経験だってない」
レオを一瞥する。彼は首筋を赤くしながら耳元のピアスをいじっていた。後ろにいた老夫婦がこちらを微笑みながら追い越した。
「参ったなあ。調子が狂う。そうだリディさん、食事っす。夕食を食べましょう!」
彼はノスタルジックな雰囲気のする素敵なレストランに案内してくれた。メニューを持ってきた初老のウエイターに注文する。
「この店のおすすめは何ですか?」
「はい?」
男性は私とレオを見比べると一瞬訝しげになるがすぐに「グラーシュですよ」と答えた。
「ではそれでお願い」
彼が店内の奥に消える。うきうきしながらレオに身体を向ける。
「楽しみね」
「美味しいかしら」
「リディさんははじめてっすか? ここのグラーシュは」
「ええ、そのはずよ」
レオは深くため息をついた。かなり深刻な表情をしている。
「……この店に来たのは二度目っすよ」
「え? そ、そうだったかしら。ずいぶん前だったから忘れてしまったのね」
「忘れるほど前だったでしょうか。リディさんはとてもおいしそうに食べていました。俺は覚えています。リディさんは俺と食べたことを忘れてしまいましたか? ここは、俺たちが初めて話をした場所です。金糸雀館に行きたいと頼まれました。リディさんがあの手記に興味を持ったから」
「そうだったわね。ごめんなさい、うっかり忘れてしまっていたの。許して」
しどろもどろに弁解するごとにレオの雰囲気がだんだんと悲しげになる。
「違和感はあったんす。リディさんとは短い付き合いでしかないんすけど、人となりがわかるぐらいには話しましたから。俺の知るリディさんはきっと俺のことはそんなに好きじゃないし、仮に好きだったとしてもわかりやすく態度に示す人ではないだろうと思うんすよ。それに俺自身、今まで好かれるようなことはできていません。何も」
炭酸水のグラスをぐいと飲み干した。きつく結ばれた口から堅い声がした。
「俺にはあなたがリディさんと別人に見えます。俺はもう一度、ここで同じ質問をしなければいけないんです。……『あなたは誰っすか』」
……彼は薄皮の下に潜む《あたし》に気付いていた。うまく化けられていたと思っていたのに。気づかれたことは辛くもあり、嬉しくも思う。彼は《あたし》を見つけ出したのだから。
テーブルの上にぬいぐるみを横たわらせ、頬杖をついた。少し首を傾げて上目遣いにして、唇を小さく開く。とっておきのポーズだ。これで、彼を誘惑してみせる。
「《あたし》? 《あたし》は『マリー』よ」