表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
18/51

鏡に映るその顔は

 朝一番の列車に飛び乗った。首都からイーズへ。イーズ駅からはタクシーを捕まえた。向かうは金糸雀館(カナリアハウス)。バロック様式のいかめしい館は薄暗い雲の下で不気味な佇まいを見せていた。

 玄関扉のノッカーを叩こうとしたところで、ゆっくりと扉が開いた。

「フロベールさん?」

 白兎の毛並みのような肩掛けを羽織った老婦人が扉の隙間から不思議そうな顔を見せる。一見して彼女は不安や恐怖に怯えている様子もなく、ただ単に突然の訪問者に戸惑っているようだ。

「まあ。ひどい顔をしているわ。どうなさったの?」

「あ……」

 言葉に詰まった。もう二度と来ないと思っていた金糸雀館(カナリアハウス)。わざわざ休みを取り、朝早くから列車とタクシーを乗り継いでやってきた。「助けて」の一言だけを疑うことなく即決していたのだ。普通なら、レオに連絡して、確認した後で動けばよかったはずだ。

頭でくすぶっていた熱がすっと引いた。

「押しかけるような形になってしまい、申し訳ありません。実は少し気になったことがありまして。よろしければ図書室をもう一度見せていただけませんか?」

「図書室を?」

 春の陽気そのものだった彼女の表情が曇る。

「どうしてそんなことを?」

「もちろん……この手記の調査の一環です」

 苦し紛れの言い訳だ。

 ややあってから硬い声で「どうぞ」と言われ、中に誘われた。

 老婦人の歩きは氷上のように滑らかだ。健康体そのものだ。

「昨晩ですが私に電話をされましたよね?」

「なんのことかしら? わたくしは覚えがないのだけれど……」

 申し訳なさそうに見える口ぶりに嘘は混じっていなかった。

 館の二階に上がる。

「あの子のいるところでは言いにくかったのだけれど、金糸雀館(ここ)が嫌いよ。あの子は古いものが好きだから何でもかんでも尊いと持ち上げたがる。でも古いものが良いものとは限らないでしょう?」

「わかります」

「いいえ」

夫人はきっぱりと言い、不愉快なものを見たかのように目を細めた。

「フロベールさんはあの子と同じ『あちら側』の人間だわ。古い本をたくさん相手にしていらっしゃるのでしょ? 物言わぬ化石と終わらないダンスを踊っているよう。むしろ骸骨とかしら?」

 老婦人はまるで叙事詩を朗読するかのごとく語る。

「古いものには価値がある。古いからこそ恐ろしい。気づかないうちにわたくしたちの心を絡めとって離さない物語があるの。そういうことは思われない?」

「……いいえ」

「だとしたらあなたも囚われているのね」

 図書室の頭上では相変わらず素晴らしいフレスコ画にお目にかかれた。天井画の鳥の中にフクロウがある。奇しくも女王の彫像の肩にいたフクロウと同じメンフクロウだ。白い仮面を張り付けたような顔はなんともミステリアスだ。

 こほ、と彼女は咳き込む。折れ曲がった背中をさすりながら咳の波が収まるのを待つ。

「大丈夫ですか?」

「平気ではないわ」

「え?」

「この手記! ああ、やっと見つけた(・・・・・・・)!」

 夫人は私の手から手記を奪い取って胸に抱きしめる。……やっと見つけた? 戸惑う私に、婦人は焦点の合わない目を向ける。

「フロベールさん。わたくしの夫はひどい人間だったの。外見こそ立派に繕っていたけれど、わたくしのことはほったらかし。他に女を作っていてね。そのくせ辺鄙な土地に立つ館を買って、わたくしに押し付けたまま死んでしまった。あんまりでしょ。殺そうとしたの。あの人の首に手をかけて。できなかったけれど」

「……はい」

「あの人が死んだ時、腹いせに遺体を火葬にしてやったの。彼は敬虔なカトリックだった。でも死後の復活をさせてたまるものですか。彼を燃やした灰は海に捨てたからこの世のどこにも残さなかったわ」

「その話は、私が聞くには重すぎると思うのですが」

「そうかしら?」

 ほほほ、と嗤う老婦人。その話し方や雰囲気はあのエリス・フーガーを思わせた。

「あ、そうそう。思い出したのだけれど、この図書室は元々、図書室として作られていなかったの。この世の珍奇なものをより集めた蒐集部屋だった。ここにあったものはすべて彼のコレクションなのよ。教えてくれたの。彼はとても美しい金糸雀(カナリア)を飼っていたけれど逃がしてしまったんですって。かわいそう。でもあなたが来てくれたからもう安心だわ。愛する二人を引き裂いてしまったのを後悔していたの。ああ、もう決して離れまい(・・・・・・・・・・・・)……」

 背後に何かの気配を感じて振り返る。

 金縁の大きな姿見がある。あんなものはあっただろうか。

 鏡の向こうには私を見返す女がいた。白いドレス姿でぺたりと座り込む女。驚愕のあまり息が止まる。

 その顔は、私の知る人にあまりにも似ている。

 それは例えば、前世の私が鏡に映り込んだ時に出会う人。現代でも肖像画や国立国民議会図書館(ポンパドーラ)に立つ彫像で当時の姿を知ることのできる人。

 ()

 女王マリー=テレーズ。

 女の顔は私の前世マリー=テレーズ女王のものだった。


――ああ、マリー。やっと帰ってきた。愉しい時間を取り戻そう。二人の時間は永遠だ。もう二度と離れまい……。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
cont_access.php?citi_cont_id=264194388&s
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ