呼ばれる
廻り合わせというものがあるかもしれないと時々思う。良いことが一つあれば二つも三つも重なって起きる。悪いこともしかり。たまたま出会った人が実は自分が知らないだけで自分の知人の知人であったり、ずっと探していた古本を諦めた頃に思いも寄らないところで買うことができたりもする。まるで神様が用意した奇跡的なタイミングで物事が動くことは確かにある。人によってはそれを「運命」と呼ぶかもしれない。
その日、次の議会審議の相談のために下院議員会館までやってきたのだが、オフィスのドアを前にしてノックするのを躊躇った。中から女性の怒鳴り声がする。しかし、内容までは聞き取れない。困った。中に入っていいものか。
女性の話し相手は男性のようだ。順当に考えてマクレガン議員だろうが、それにしては荒々しい。
茶封筒の中身を確認する。うん、これは早めに渡した方がいい。
修羅場に入るのを承知でノックしようとした時、前触れもなくドアが開いた。外開きだったから、木製の板が額に直撃した。
「いった……」
よろけたところで中から出てきた人影にぶつかった。額を押さえて立ち上がると、いかにも強そうなエリス・フーガーが仁王立ちになっている。
あら、と彼女はにやりと笑ってみせた。
「いいところに来たわね。今、あなたの話をしていたの」
「やめろ、エリス・フーガー」
強い口調とともにマクレガン議員が姿を現す。私はその姿を見て息が止まった。髪が乱れ、ワイシャツのボタンも外れ、首筋には唇の形のルージュがくっきりとついている。見ていけないものを見てしまった気持ちでいっぱいになって、目を逸らした。
「ああ、やっぱりショックなのね。そうよ、さっきまでそういうことをしていたのよ。ふふふ」
「未遂だよ」
議員は間髪入れずに告げる。
「僕はここの鍵を替えてもらって彼女が入り込まないようにしていたのに、どこからか合い鍵を手に入れてきたんだ。誤解しないでくれ。僕は君が来るオフィスでただれた行為を行うつもりはないからね」
議員は珍しく苛ついた様子で外れかかったネクタイを取り去った。
「議員、私は後で出直した方がよいようですね」
「いや。話を聞くよ。元々そのつもりだったから。場所は一階のカフェスペースに変えよう。着替えしてから行くよ。五分間だけ待っていてもらえるかな」
「構いません。一階でお待ちしています」
「悪いね。コーヒー一杯分おごるよ。美味しさは保証できないが」
にこっと私に微笑みかけた議員は、打って変わって、もうひとりの女性に向く。
「……エリス、君との縁はここまでだ。まもなく父親が迎えに来る。それに乗って帰れ。二度と僕の前に現われないでくれ。守れなければ裁判沙汰にさせてもらう」
後半の言葉は彼女に向けられている。だが彼女はせせら笑った。
「あなたにそんなことできるはずない。パパもあなたが逆らうことを許してないわよ」
「そのパパが君を見限るとは考えもしないのか。君は何人不幸にした。僕が知っているだけで君のために三人が自殺未遂、十二人が精神科のカウンセリングを受けている。普通の人間が生きているだけでこんなに周囲を不幸にすることができるのか? 僕は長年理解しようと努めてきたつもりだが、限界だ。他人の不幸を己の幸せだと思っている人は嫌いだ」
「わたしは好きよ、愛しているわ」
彼の腕にぎらついたネイルを施した手がまとわりつこうとするのを、彼ははねのけた。その顔は怒りを通り越してむしろ悲しげにも見える。
議員は周囲をすばやく一瞥し、野次馬が廊下に集まってきているのを確かめれば、何も言わないで私の腕を引っ張ってドアの内側に入れた。ドアが閉まる。外側でドンドンドンッ、と激しく叩かれる。彼は落ち着いた様子で警備員に連絡した。
エリス嬢が警備員に抵抗する物音がだんだんと遠ざかっていく。そこで議員はようやく私の腕を解放した。
「ごめん」
「何に謝っているのですか」
自分でも硬い声になっているのがわかる。どうしてだか怒りが湧いてきた。
「私の腕を引っ張ったことですか、それとも修羅場に私を巻き込んだことですか。もしくは、自分の恥ずかしいところを見られたからですか」
「全部だ、全部だよ」
彼がどういう気持ちで言っているのかわからない。
「議員、思わせぶりな態度は好きではありません。散々振り回しておいてその気になった途端、突き放されそうな気がしますよ。それだったら初めから距離を取っていた方がいい。はじめからそうすべきでした。パースが狂っていたんですね」
僕は思わないよ。議員は苦しげに言う。
「人間なら話しているうちに親しくなっていくのは自然の摂理だ。君が担当についてから僕の仕事の効率は上がった。君の訪問はいつも刺激的で僕を楽しませてくれた。どれもが大事な時間だ。それだけは、君にも否定してほしくない」
彼は苛立った口調でそう返す。
「君は、エリスがいなかったらもっと違う態度を取っていた。そうだろう?」
いいえ、と首を振る。
「それは詮無い仮定の話ですよ。私が議員とごく普通にデートして、付き合って、抱き合いながらキスをしますか。ちっとも現実的ではありません。議員の隣にはいつも彼女がいましたから。想像できるはずもないでしょう!」
「その発言は想像したことのない人間がするものじゃないね。賢い君ならわかっているだろう?」
腕を軽く取られたところで、自分が感情的な発言をしていたことに気付いた。知られたくなかった本心さえ本人の前で露わにされた。無性に泣きたい気持ちになる。
反射的に彼の手を振りほどき、「昔の話です」と端的に述べる。
「一般的に考えてみてください。『君は二番目に大切なんだ』と言われて感激する恋人はどこにいると思いますか。そんな不毛なことに時間を割くより重要なことは他にもあるはずです」
「もういい。口を閉じて」
おのずと私の口が重くなる。
「ほら、傷ついている」
額が、と彼が小さく呟く。棚の奥から救急箱を持ち出した。私がドアにぶつかってできた額の擦り傷を消毒するつもりらしい。消毒液の沁み込んだ脱脂綿を通して丁寧な指が額に触れた。その頃には私もいつもの平静さを取り戻し、バツの悪い思いで応接用のソファーに座っていた。
救急箱を元の場所に戻しながら、彼はこんなことを言う。
「人間というものは生きているだけで縛られるものだね。こういう時はいつも痛感するよ。心だけは、どこへ傾こうが自由だ。それが救いなんだ。その自由さえも奪おうとしないでくれ」
「……不思議なことを言いますね」
「こういう時しか言えないからね。次に会う時にはいつも通りの僕だ。今日のこともすぐに忘れたふりをするんだよ」
それ以上、私は何も言えなかった。
「彼女には彼女の愛があるかもしれない。だが、僕にもね、僕なりの愛がある。大事な人を選び取る権利があると思っている。僕はそのために戦う時が来たのかもね」
私の顔を見ながら、彼は優しく笑んだ。
「……名前を呼んでほしいな。君の声で。それだけで本当に僕は幸せになれる気がするんだ」
国立国民議会図書館に戻った。手持ちで抱えていた調査案件はほとんどまとめるだけになっていたので、集中して片付けること数時間。オープンスペースのオフィスには人がいなくなり、外は夜になっていた。
「……帰ろう」
鬱々とした気持ちが抜けきらないが、ゆっくりと作業机周りを整理整頓してからオフィスを出る。
国立国民議会図書館の周囲はほとんど官庁や議会場関連の建物で、夜は街灯ばかりが煌々と道を照らして閑散としている。人気のない道や広場の脇を通り過ぎて、路面電車の駅に歩いていく。
そこで携帯端末が着信を知らせた。画面に表示された名は『マクレガン議員』。仕事の用件かと思いながら出る。
「はい」
『今、どこにいる?』
通話向こうの彼は取り乱しているようだった。
「今は帰り道ですが……どうかしましたか?」
『国立国民議会図書館から出たところ? 駅には着いた?』
「いえ、まだです。ところでなぜそんなことを?」
『聞かれていたんだよ。盗聴器を仕掛けていて、どこかで聞いていたんだよ! 彼女から連絡があったんだ。明らかに普通の状態じゃなかった。君のところに行くかもしれない』
聞かれていた、というのが昼間の二人のやりとりだとすぐに察した。彼のオフィスに盗聴器まで付けていたとは思わず、「嘘でしょう?」と呟いていた。
『まずは人気のないところは避けるんだ。今から君のいるところまで走っていくから。彼女の父親や警察にも連絡はつけたから見つかったら連絡が行くと思う。その携帯端末は僕が行くまで通話中のままにするんだ。わかったね?』
「あら、おおげさね。まるで犯罪者みたい」
ふふふ。
その笑い声は私のものではなかった。五メートル先の暗がりに彼女がいる。シャンパンゴールドのショルダーバッグから大ぶりのサバイバルナイフを突きつけながら。
たとえばあのナイフが私のお腹に突き刺さったらたまったものではないだろう。
そこまで。そこまでの恨みを彼女は抱いているのか。
「通話を切ってちょうだい」
彼女の声には逆らわせない何かがあった。切るな、と画面向こうで叫んだ議員に対し、私は一言「ごめんなさい」と告げて、通話画面を消した。
「やっぱりこれが一番だわ。これを見せればみんなだまるから」
彼女は軽くナイフを振って見せた。
「昔は自分の手首を切ってみせたりもしたけれど、たまには違う使い方も試してみたくなったの。ねえ、リディ・フロベール。質問してもいいかしら?」
とんと名前を呼ばれたことのなかった人に名前を呼ばれる。これほど不穏な気配を感じたことはなかった。
「わたし、彼に話したわ。許してやってもいいって」
「はい?」
「彼があなたとの間に子どもを作ること。その子どもをわたしが育てて、ママになるわ。そのために彼と寝るのを許してあげる」
「ふざけていますか?」
「あら、はじめからまじめよ?」
「議員はなんとおっしゃいました?」
彼は承知したりしないだろうと思いながら尋ねれば、案の定、
「怒られたわ。理由はよくわからないけれど」
そう言った。
「あまりにもひどかったからでしょう。普通の感覚ではそんなことを言えません」
「わたしからすればみんなの方がヘンよ。純粋に彼を愛しているだけ。何もいけないことはないわ」
「相手の思いを尊重すること」が彼女に欠落している感覚だった。いや、人の話に耳を傾けられたのなら彼女はここに来なかった。彼女にはわからない。理解しようとすらしない。
「わたしとの子どもは先天的な障害を持って生まれてくる可能性があるらしいの。家族を作るには協力者が必要だから、フロベールを推薦してやってもいいわ」
「お断りします」
「なぜ?」
彼女は幼子のように首を傾げている。それがまたとぼけているのかと人を煽り立てる。いけない、こういう人にとって、逆上こそが大好物なのに。
「理由が必要ですか? 私にも議員にも失礼な提案だからです。あなたはご自分の都合しか考えられないのですね」
「でも夫が好きでしょう?」
勝利者の笑みをひらめかせ、彼女は高らかに言い放つ。実際には夫ではないでしょう、と訂正したところで無意味そうだ。
彼女がそう思えば、彼女にはかっこたる真実となるのだろう。
彼女には人の気持ちがわからないのだ。泥にまみれた手で人の心の傷口を抉り出すような真似を平然とできるのだから。
「最低。人の男に手を出すなんて」
彼女は私が口にもできないほど卑猥な罵詈雑言を浴びせかける。その中には私自身ばかりでなく、私の両親に対する侮辱も含まれていた。
今の今まで我慢してきた色んなものがこらえきれなくなった。
「わかりました、エリス・フーガー。これまでことなかれ主義であなたにも当たり障りのないようにやり過ごしてきましたがやめます」
「どういう意味かしら?」
彼女は私よりも背が高い。すらりとした肢体にローズグレイの分厚い唇や高い頬骨と鼻梁、ストレートの金髪をなびかせて、まるで自身が世界の主役とでもいうように自信に満ち溢れている。それに加えて私には威圧的に接し、あまつさえナイフまで手にしている。
彼女は生まれながらの誇り高き女王なのだ。ギリシャの嫉妬深い妃ヘラや自分を捨てた夫の復讐のため自分の子を殺した魔女メディア、夫ジークフリートの仇を取るためフン族に嫁したクリームヒルトのような古い神話に出てくる烈しい女性たち。エリス・フーガーという女は彼女たちと生き方がよく似ている気がする。
しかし、彼女たちの感性は今の時代にそぐわない。私自身でさえ、今の常識と感覚を受け入れて生活している。彼女の頑さは被害者の存在がなければいっそ清々しいものかもしれない。だが彼女の攻撃が降りかかる身になればたまったものじゃない。
「あなたと戦います。でも勝利するのは私です。賭けてもいい。私は正々堂々とあなたから勝ち取る。絶対に、負けない。そして彼自身も良識のある人と信じます。彼自身にふさわしい人を自ら選び取る強さが彼にはあるはずです」
「ほらね! とうとう本音が出た、女狐! 交渉決裂ね!」
あはははは! 彼女は甲高い笑い声もそのままに突進する。まるでスローモーションのように、胸元で構えたサバイバルナイフの切っ先が迫る。その時の彼女の目が忘れられない。彼女の目に映っていたのは、おそらく私の知るこの世界でなかった。脈々と受け継がれたゲルマンの猛々しい血が彼女の中で沸騰し、目の前は血まみれの戦場にでも見えているのではないか。彼女の持つ論理は私のそれとは重ならない。恐怖という感情の根源があの目に集約されていることを刹那に悟り、体中の毛穴が開いた。
――奪ってやるの、何もかも。すべてをうばったあなた。でもあなたはあたしを知らず、あたしばかりがあなたを知っている。気づかないからこうなった。仕方がないわね、あなたが悪いの。早く死んでよ、今度こそ。
一瞬、幻影が重なった。突進する彼女の背後に女がいて、私を睨みつけている。白いドレス姿で、髪の色は金。懐かしい色味をしている。
喧嘩を売るようなことを言わなければよかったのかもしれないと後悔した。そうすればもっと時間を稼げたのかもしれないのに、ついつい挑発した。こうなるとわかっていれば言わなかっただろうか? それこそ詮無いことだった。言わずにはいられなかった。
「わたしは勝つ、勝つ、勝つ! 殺して、勝つわ!」
痛みは襲ってこなかった。ぎゅっと瞑っていた目を開くと、誰かと誰かが格闘している。スーツの背中が私を守っていた。
男女は獣のように取っ組み合いになる。
やがて彼が女を制圧し、アスファルトの地面にうつ伏せにさせる。息も絶え絶えに彼は私を振り向き、この場には不釣り合いなほど穏やかな声で、「警察を呼んでくれる? ほら、僕は今手が空いていないから」と告げる。額には擦り傷が出来ていた。
「マクレガン議員……」
「早く頼むよ」
恐ろしいほど冷静に警察に連絡できた。まだ現実感が戻ってこない。女はまだ暴れているが、彼は的確にすべての抵抗を受け流していた。
「怪我はない?」
「ないです」
「よかった。君が怪我をしてしまったらそれこそ申し訳が立たない。せっかく国立国民議会図書館から手伝いに来てくれている人なんだからさ」
ほのかな街灯に照らされた端正な顔は少し投げやりにも見えて、安易な慰めの言葉は必要としていないようだった。
「どうして来られたんですか」
「廻り合わせがよかったからかな。……悪いが、今日はちょっと離れていてくれる? 危ないから」
すぐに警察が到着した。エリス・フーガーが手錠をはめられて連行される。直後、マクレガン議員は緊張が解けたせいもあって、目の前で失神。倒れた後で、腕から大量の出血を発見され、そのまま救急車で運ばれた病院で手術を受けた。
私は事件の関係者として警察に事情を聴かれた後、朝方に帰宅。欠勤の連絡だけして、半日以上死んだように眠り続けた。もちろん夢は全部悪夢。内容は忘れたけれど。
起きたら夜だ。ストックしてあった買い置きのベーグルをもそもそ食べていると、携帯端末に留守電が入っていた。あのミュラーさんだ。
『ザッ……ザッザッ……助け、助けて……フロベールさん。今すぐ来て。待っているわ』
雑音が多い留守電メッセージ。どういうことだろうと思って、折り返し電話をするも繋がらない。レオ青年にも連絡がつかない。
不吉な予感がした。今、金糸雀館で何かが起こっている。