『幽霊館』の話
『女王に捧ぐ』。ガラス張りの廊下から臨める女性像の下部にはアルデンヌ語でこう書かれていた。頭には王冠、片手には王杖、別の手は大きな楕円の鏡を持ち、正面を照らすようにして支え、右肩には精巧な作りのメンフクロウを乗せている。
王冠と王杖は王威の象徴。メンフクロウは君主の知恵を司る。鏡は真実を見通し、悪を撥ねつけることを示した寓意に用いられる。
普段は気に留める者もない閑散とした場所で、彼は彫像を見上げていた。
「お待たせしました。どうかしましたか?」
「あ、お疲れ様っす。リディさん、この像なんすけど」
「はい」
女王の彫像はアルカイックスマイルを浮かべ、美人度五割増しで補正具合も甚だしい。特に目と胸と腰にその痕跡がある。みんな、美人でグラマーな女王の方が好きだよね。
「リディさんにちょっと似てるっすね」
「……そう?」
彼の意外な発言に戸惑ってしまう。私と彼女が似ていると直接指摘されたのは初めてのこと。彼がまさか私の本質を突くとは思わなかったのだ。
「褒めているんすよ。困った顔しないでください」
「ちょっと驚いただけ。ありがとう。行きましょう」
私は彫像張りのアルカイックスマイルを意識しながら彼を先導するように歩き出す。首都カールブルクは私のホームグラウンド。美味しいディナーを食べられる場所も彼より詳しい。
「何を食べましょうか。この辺りで食べられそうなのは……シュニッツェル、ミートボール、クロケット、トムヤムクン、サバサンドに……スシ?」
「それもいいっすけどイタリアンは好きですか? ラビオリが旨い店を知っているんすよ。場所もわかります」
「いいですよ」
「よし、決まりっすね!」
今度は彼が先導するように私の半歩先を行った。
これは後で判明したことであるが、彼の両親は現在カールブルク在住であるため、自身も頻繁にカールブルクとの間を往復しているとのこと。彼は私よりもはるかに慣れた様子で目当ての店まで案内した。
カジュアルな店内で料理が出てくるのを待つ間、情報交換をすることにした。
彼は肩掛けのバッグからプラスチック製のファイルを取り出す。
「ありがとう」
「いーえ。お役に立てたならうれしいっす」
ファイルの中身は目次と資料の種類、コピーした資料と所蔵場所、資料番号が見やすく整理されている。
ファイルを軽く眺めていると、彼が肩に力の入った様子で「ど、どうでしょう?」と尋ねてくる。
「どう、というと?」
「リディさんはプロですから。自分の成果を発表するみたいで緊張するんすよ、これでも」
「私は大学の教授ではありませんからレポート評価はしませんよ」
「いやいやいや」
レオ青年は軽く笑った。
「多かれ少なかれ気になっている人にダメな奴だとは思われたくないじゃないすか。昨日もあれこれ考えちゃって眠れなかったぐらいっすよ」
グラスのミネラルウォーターを一口飲み、彼は続ける。
「俺、リディさんみたいな人に初めて会ったんすよ。俺より年下で、でもバリバリ働いているとても優秀な女の子に。すごいと思うっすよ。俺はこの年齢になるまで目標もなく生きてきたんすよ。大学院に進んだのも、両親が両方とも教職についているからという漠然とした理由からです。……研究に情熱を燃やしているというわけではないんすよ。だから俺の行先は不透明なままです」
彼の目には私がどれだけ輝いてみえるのだろう。他人のフィルターを通した私の鏡像は一般的にはかなり恵まれているように映るのかもしれない。
しかし、そんなことはないのだ。内心は迷っているし、悩んでいる。行先が不透明なのは私も同じだ。
ファイルを手早く片付け、グラスを手に取る。
「レイマンさん。好きなことをして生きていけるのはほんの一握りの人だけです。大多数の人は好きでないことを仕事にしてお金を稼いで死んでいきます。引け目に感じなくてもいい気がします。彼らはただ単に幸運を引き当てた稀有な人であるだけ」
「その稀有な人が大学にはたまたま集まるというだけっすか」
「そういうことです。そうでなかったら大学に残り続ける選択肢は取らないでしょう?」
「はぁあああ。納得しました。たしかにそうだ」
「人生に迷えるだけ幸せなことです」
今はそんな時代になったのだ。ただ流されるだけでなく、生き方を選び取る自由を得た。
メインディッシュのラビオリが来る前に、彼は自分のことをたくさん話してくれた。カールブルクのどこで生まれ育ったか、全寮制の高校にあった不思議な習慣の数々に戸惑った日々、イーズ大学での楽しい学生生活のことも。
「レイマンさんはガールフレンドがたくさんいそう」
すると、彼は力説した。
「そんなこともないっすよ。俺は運転手要員として体よく使われているんすよ。大概、いい人ねと思われるだけで終わる!」
「レイマンさんはとてもいい人だと思いますよ」
「ほらね! リディさんもやっぱりそう言うんだ!」
彼との会話はテンポがよくてつい笑ってしまう。嫌いじゃない。
「でも今日の俺は一味違うんすよ」
「どこが違うんですか?」
「次の約束を取り付けるために来ました。前、リディさんを助けると約束したでしょ。あれは今回頼みを聞いたことで果たされたとか思われていそうだから」
次の約束が必要なんすよ、とレオ青年は言葉を噛みしめるように告げる。私は握っていたフォークの手を止めた。
「……次の約束をするとしたらそれは何になりますか」
「定番ですがデートはどうっすか。二人で」
「考えさせてください」
とっさにそう答えていた。どうしても躊躇いが先行して、きっぱり断ることができなかった。
「いいっすよ。その気になったら連絡ください」
とても優しい声で彼は言い、右耳をいじる。そこにはいつものトレードマークのシルバーピアスが嵌っている。席の向かい側に座っているから初めて気づいたのだが、リング状のピアスにはびっしりと何かの模様が彫り込まれていた。
「そのピアス、綺麗な形をしていますね」
「え……」
彼はなぜか惚けたような顔をする。
「あ、これは馬蹄を組み合わせた模様で、お守りにもらったんですよ。昔の友人に。しょうもないやつでしたよ」
彼とは店の前で別れることにした。彼の両親が住んでいる家がこの近所にあり、歩いていくらしい。
「あれから特に何も起きていないっすか。以前聞いた時は手記が自分のところに来ていたと慌てていましたよね」
「ミュラーさんには伝えたけれど、興味がないようでした。返すのはいつでも構わないと」
電話越しで彼女は「あれはわたくしの手には余る物だったのね。あの手記は自分の持ち主を決めたのかもしれない」と話していた。泥棒と思われなかったのは幸いだが、判然としない気持ちが残る。
「そうだ。これ」
彼がブリーフケースからA4の紙一枚を取り出した。
「さきほど渡したファイルに入れようかどうか迷っていたやつっす。面白い話ではあるんですけれど、扱いに困って」
「これは?」
「今から百年前に刊行された『イーズ見聞誌』という本の抜粋です。うちの大学図書館に所蔵されていたもので、イーズ近辺で当時流れていた噂話を収集した本です。その中に昔から伝わる怪談話も収録されていたんすよ。読んでみてください」
タイトルは《幽霊館》となっている。
――曰く、ある若い女性が古い館に宿泊した。深夜、ベッド横に見知らぬ男が現われて叫んだ。
『おまえは××ではない!』
女性が飛び起きると男は消えていた。翌朝、館の主人にこの不思議な出来事を伝えると、顔色が蒼白となり、女性の無事に安堵した。
家の恥だから内緒にしてくれと前置きした彼が言うには、
「あれは我が祖先の一人です。飼っていた愛鳥を死なせてしまい、狂い死にしたのです。あれが現われると不吉な出来事が起こるのです」
今でもその館に宿泊する若い女性は男の幽霊を目撃するという。そのうちの一人は素晴らしい花園に誘われたところで『違う!』と叫ばれ、首を絞められたと話している。
また、名もなき若い女性の遺体がその館の井戸跡に埋まっているという噂もある。
「もしあなたが××だったらどこかに連れていかれたかもしれない」というのが主人の談である。この主人の一族は由緒正しい貴族の家柄であるが、今に至っても祖先が彷徨っていることを確かめるために若い女性を泊めることがあるとのこと。未婚女性は特に注意されたし。
レオがこの話を持ってきた理由は容易に想像できる。鳥の名を持った館と幽霊に共通性が見いだせるのだ。ただし、幽霊の性別が違う。だからこそ彼はファイルに入れるか迷ったのだろう。
「もしこの話に出てくる館の主人が金糸雀館を所有したド・ワロキエ家の人だとしたら、幽霊となってしまった男は誰でしょうか?」
見当はついています、とレオは言う。
「実はさきほどのファイルの中にも名前が入っています。ド・ワロキエ家の当主は代々あの付近を治めた領主でした。だから治めていた村の人、まあ館に来ていた家政婦さんたちに聞いてみたら二人の名前が出てきました。フリードリヒとアレッサンドロ。ちょうど女王在位中に領主をしていた親子っす。おそらく年齢から言えば父親のフリードリヒが女王と関わっていたと考えるのが普通でしょう」
レオは少し迷う様子を見せながら、こう続けた。
「……ただ、この名前が出た時に家政婦さんの一人がこっそり後で教えてくれたんすよ。その人のひいおばあさんがその人が子どもの頃に話したことですが、二人のうちのどちらかの時代、館で忌まわしい事件が起きたんだそうです。その事件で館にいた使用人のほぼ全員が殺害されたって……」
どうして。私の疑問に、レオ青年は気の毒そうな顔になる。
「そこはわかりません。でも、その犯人は領主であったため世間にひた隠しにされ、ほとんど忘れ去られたそうです。フリードリヒ、アレッサンドロ。この二人のうち、どちらかが殺人鬼だった。ぞっとしない話っすよね」
「そうね」
身体を吹き付ける風が急に体温を根こそぎ奪っていったかのようだった。掘れば掘るほど不穏な話が浮かびあがってくる。
「フリードリヒはわかるけれど、アレッサンドロはイタリア名なんですね。アルデンヌ語ならアレクサンダーなのに」
「ああ、それはこだわりだったみたいで。もちろん元の名前はアレクサンダーで、フランス語でもアレクサンドルと呼ばれていたようすけど、若い頃にヴェネツィアやらフィレンツェやらに遊学していた関係で自主的にそう名乗っていたようです」
「変な人ね」
「いや、この人はまだマシっすよ。父親の方がさらに輪をかけた変人です。この人、晩年に全財産はたいて巨大地球儀を制作しようとしています。イーズ大学に設計図が残っていたので見せてもらいましたけど、ドイツのゴットルフ城にある巨大地球儀よりさらに大きいものを作ろうとしていたようです。直径はおよそ五メートル」
「五メートル!?」
当時にしたら奇抜を通り過ぎて奇怪すぎる代物だ。
「あとはマルコ・ポーロの『東方見聞録』を愛するがゆえにひそかに東洋へ旅行に行く方法を探していたりとか、流れの錬金術師を招いて不死になるための講義を受けたりしているみたいっすよ。人物エピソードに関しては父親の方が圧倒的に豊富です。この人は筆まめな人だったみたいで、こういったことは全部書簡の形で残っていました。これも役に立ちましたか?」
「はい、すごく……」
ファイルの中身に断然興味が出てきた。こんな人を輩出したド・ワロキエ家は、どんな一族なのだろう。
「楽しそうっすね。リディさん?」
ふとレオが言う。
「そうですか?」
「だって目がキラキラしてるから」
店前で冷たい風に当たっているにも関わらず、頬が一瞬でカッと赤くなるのが自分でもわかった。不意打ちだった。ずれてしまった肩掛けを直しながら二、三分軽く言葉を交わし、今度こそ別れた。
都会はどこかしこも街灯だらけ。女一人で人気のある場所を歩く分には何も危険がない。第一、まだ夜中じゃない。最寄り駅から路面電車に乗り継ぎ、帰路に着く。さして人もいない車内で座席の背もたれによりかかる。
想像という名の化け物が心の中で肥大している。我ながら面倒であるし、厄介なものなのだが、これがいるせいで簡単に身動きがとれなくなるし、私の本心も束縛しようとしてくる。
人との距離の取り方がいつもへたくそだった。こりないぐらいに失敗を繰り返しているから何が正しいのかもわからない。そこばかりは前世も今も変わりなく。いつものことだと一人で笑った。