預言者
国民議会場の厳めしい門を出たところで、フェラーリレッドのスーツを纏った美人が佇んでいる。大きなサングラスを外した彼女は私の身体を頭頂部から足の先まで舐めるように見分して、「ごきげんよう。彼に迷惑をかけたそうね。早くやめたらどうかしら」と言ってくる。初っ端から挑発的な態度なのが彼女の常なのだが、この時ばかりは私も言いたいことがある。
「何度も申し上げているとおり、私は仕事をやっているだけです。誰のせいで迷惑がかかったのかは、ご自身で自覚なさった方がよろしいです。あなたの振舞いはあまりにも傲慢すぎる」
今回の件の犯人は、ハン、と鼻で笑った。
「傲慢なのはあなたの方。今までの女はそこまで口出ししてこなかった。あの人に気に入られているからって調子に乗らないで」
「『今までの女』ではありません。全員が真面目に働いていた職員です」
「いいえ。みんなあの人に色目を使っていたわよ。フロベール、あなたもね」
「仕事をしているだけです。いつになったらご理解いただけるのでしょうか」
「一生無理ね」
にべもない返事だ。
「そうですか。では秘書を辞められた方がいいですよ。書類を渡すというささやかな仕事もできない秘書なら、いない方がマシです」
普段から私はできるだけ議員に直接書類を渡すようにしている。今回はたまたま議員が不在時だったため、彼女に託す形になった。保険として電子メールにも添付した。だが彼女はご丁寧にも私の邪魔をしたいがために議員に書類が届かないようにしていたらしい。
「法律の立案には膨大な時間と審議が必要になってきます。そのためには情報も正確でなければなりません。私のしている仕事はそういう仕事です。私よりも長く生きているのなら、そういう常識はご存知でしょう?」
すると彼女の口角が醜く吊り上がる。
「ふうん、そう。そんな口を利いてもいいものかしら。パパに言いつければあなたの首は飛ぶわ。今まで実際に何度もそうしてきたもの」
彼女の父親は大臣を歴任した大物政治家である。彼女自身も相当の名家のご令嬢だ。
「それならとっくにそうしているのでは?」
これまで議員の担当についた職員は彼女を前にして自主的に担当を外れただけだ。
「今はSNSが発達していますよね。つまり国民全員が情報を発信できる立場です。たとえば私が今まで記録してきたあなたの暴言や行動の数々だってSNSに上げれば、お父様にも迷惑がかかりますよ」
彼女の父親は政財界に広い人脈を持っているらしいが、娘の育て方はどう見ても間違ったらしい。
マクレガン議員は娘の押し付け先なのだ。彼自身も彼女の父が持つ強力なコネクションは涎が出るほど欲しいだろう。いわば、利害が一致したから議員の傍に彼女がいる。
ちなみに、記録したなどと言うのは真っ赤な嘘だ。これ以上やるようならそれも辞さないけれど。
彼女と話すと不快になる。自分自身の尊厳を踏みにじられたような気になるから。
彼女は私の忠告を鼻で笑い、プラチナブロンドの髪を掻き揚げた。
「ふうん、脅してくるのね。ああ、そうよね。だって何をしても負け犬の遠吠えだものね? 何があってもあの人はわたしの元に戻ってくるの。ずっと、ずっと、ずうっとそうだったように」
私には彼女と彼の関係性を推し量るつもりはなかった。だが彼女のような人間を近くに置いておくだけ、彼という人間がわかるのではないだろうか? 口出しする立場でもないが、彼女を通して彼には落胆する。だがそもそも世の中とはそういうものだったはずだ。人それぞれにほのぐらい打算があり、ふとした瞬間に見え隠れする時が。それがたまらなく息苦しくなることもある。
心底、気持ち悪いと思った。彼女と、彼女の父と、彼を取り巻く関係性が。
「ねえ、あなた。今何しているの?」
彼女はおもむろに携帯端末を耳に当て、電話を始める。
「今晩も食事に出かけましょうよ。ついでにロメンダのバッグの新作が出たから見に行きたくて。ええ、いつものところね。今、面倒な女に絡まれていてうざくてたまらないから。付き合ってくれるでしょ?」
彼女は、何度も鷹揚に頷きの仕草を繰り返す。目だけがぐるんとこちらを向き、唇が弧を描く。
「誰のことかって? それは内緒。それよりもパパがあなたのことを褒めていたのよ。この間のスピーチが良かったみたいね……」
私は腕時計を見た。午後三時過ぎだ。さて、彼女の通話相手は誰なのだろう。
これから彼が来るの、と嬉しそうに言う女の横を無言ですり抜ける。何もかもがばかばかしくて空しかった。
「さて、何を話したものかね。相変わらずエリス嬢が破滅的な生き方をしているのはわかったが」
遠回しにマクレガン議員の担当を代わりたいと告げると、上司は電子端末を操る手を止めて、窓辺の筒型アロマディフューザーを卓上に置いた。すぐにユーカリのすっきりとした香りがオフィスに漂い、彼の机に山のように積まれた書類の圧迫感を一時忘れさせてくれる。
「君には理解できないだろう。人としての在り方そのものが違う。それは相手が由緒正しい名家の御令嬢だからだとか、君がごく一般的な家庭で育ったからだということではない。たとえば言語系統がまったく違う言葉でそれぞれ話しかけるのと似ている。それも、相手が自分の知っている言語を使用していると思い込んだ状態でね。互いが互いに通じていると認識しているので、自然と諍いの種になる。でも本当は違う文脈の、違う言語なんだよね」
「どういうことでしょう?」
上司はこちらへ視線を向けながら、説明した。
「私と君がここでこうやって話していて、君が私の話の趣旨を理解できているのは、同じ言語を共有できているからだ。今までの仕事ぶりでは、マクレガン議員ともそうだろう。では、エリス嬢とマクレガン議員は言語を共有できているだろうか?」
私は首を横に振る。
「さあ。私にも二人の関係性はわかりかねます」
「エリス嬢はかわいそうだね」
唐突に上司が言う。
「私は今、比喩的に『言語』と言ったが、本質は人間としての『思考』で、その中には『想像』と『理解』も含まれる。相手がこう思っているだろうという『想像』、相手の言葉を受け止める『理解』。彼女にはどちらも欠けているか、あるいは私たちの思うそれと異なっている。エリス嬢と本当の意味で対話できるのは彼女の血筋にいるフーガー家の女だけかもしれないね」
彼の言い方には含みがあった。
フーガー家。彼女の名もエリス・フーガーという。
「フーガー家の女たちは獣の心を持って生まれてくる。そういう話だ」
彼は大真面目にこんな話をした。不思議でオカルトじみた理不尽な話を。
古くはアルデンヌの王室にも繋がるフーガー家は、アルデンヌを代表する名家だ。
現在の当主のフーガー議員は最大野党の党首を務めたほどの重鎮として有名だ。
「彼の家に伝わる家系図はさぞや立派なものだと聞くが、生まれた女性はことごとくダメになる。男系は聡明で強く、名声を得られるが、女ならばどこかで狂ってしまう。呪われているんだよ、あの家は。ここ数十年の話で言えば、エリス嬢の母が自殺している」
「理由は?」
答える代わりに上司は肩を竦めた。
「今なら、遺伝子欠陥の検査などで判明するかもしれないがね。そんなことはしないだろうさ。それに、本来の人間の在り方なんて誰にもわからないだろう。常識とはその時代と文化でそれぞれ異なる。古代ギリシャの神話をみてごらん、騎士道をうたわれた中世をみてごらん、神秘的な東洋の思想は?」
上司は思いがけないほど優しい眼になる。
「歴史とは、記録と証拠があってこそ成り立つもの。彼女たちの獣の心が本来の人間の姿で、フーガー家に残った古代ゲルマン人の遺伝子の欠片がそうさせているのかもしれない。でもそれはこの世の中では誰にも理解されないんだよ」
だからかわいそうなんだよ。
彼はオリエンタルな青い扇を取り出してアロマディフューザーの煙を仰いだ。私の鼻にまで煙が充満する。くしゃみが出た。
上司はエリス嬢に同情的だが、彼だって議員の担当の件で苦労しているはずだ。物の見方が変わっている。
ですが、と私は食い下がった。
「巻き込まれた方はたまったものではありません」
「そうだね。あれは嵐だよ。自分も周囲も顧みていない。激情的な生き方だよね。だから気をつけなさい。嵐に巻き込まれないように」
ふと声を潜める上司。
「君からひどい血の臭いがするよ。フーガー家の人びとと関わり合いになりすぎたか?」
さて、私の所属する調査室の室長にあたるこの上司は、特殊な人間が集まる国立国民議会図書館内でも変人の部類に入る。彼のあだ名がそれをわかりやすく示している。
曰く、彼は「国立国民議会図書館の預言者」である。彼が意味深長に発した言葉は、十中八九当たるのだと。