ドゥルルン君
ふと実家に顔を出そうと思い立ち、父に連絡を取った。
実家の玄関ドアを開けた先で、イカ墨パスタを作る父がいた。鼻歌混じりで、機嫌がよさそうだ。
イカ墨は、イカのエラの間にある墨袋という部分から排出される粘性の高い黒褐色の液体のこと。この色はメラニン色素によるものだ。アミノ酸が含まれているので食材として有用だが、古くは絵の具やインクにも使用されていた。セピア色とは、このイカ墨のような色を指す。本を扱う者にとっては縁のあるものと言えるのかもしれない。
母が仕事に出かけていると話しながら、父はフライパンをゆする。
休日は自ら料理をする父の手つきは淀みない。オリーブオイルを入れる手際の良さはほぼプロみたいだ。
「料理は魔法みたいだよね」
父の後ろ姿を眺めながら、しみじみと言う。
「原料に手を加えてあら不思議、まったく違う見た目のものを作りました、という感じ。化学反応もこういうところがあるのかも」
「変なことを言うなあ。リディだって料理ぐらいするだろう?」
「するけど。他人の手が動いているとそう思うのかもね。……いい香りがしてきたね。あともう少しで完成?」
「まあな。ほら、皿もってこい」
「うん」
ダイニングテーブルに平皿が二つ。グラスには炭酸水を注ぐ。スプーンとフォークを用意しているうちに、父は素早くパスタを盛りつけた。二人で食卓につく。
「イーズはどうだった?」
「うん、いいところだったよ。イーズ大学に行ってきたけれど、歴史ある大学なだけに、面白かった」
「そうか。後悔はしていないか? もう少し通えただろう?」
父が指しているのは、私が以前、当時通っていた大学を急ぎ足で卒業し、二十歳で国立国民議会図書館に就職したことだろう。
「しないよ。学生時代が人生でもっとも輝かしい瞬間だというのは幻想だから。今が一番楽しい」
同じ年の子どもたちと机を並べ、勉強することが私には苦痛だった。私の知識は同じ年の子どもと比べても明らかにずば抜けており、何かにつけて浮いていた。合わせられるほど器用でもなかったので、とにかく早く自立したかった。そのために飛び級もしたし、両親も安心する理想の就職先を手に入れた。
「ならいいがな。父さんはリディが生き急いでいるようで心配な時がある。あまり心配させるんじゃない」
父が困り顔をする。昔から何度でも見て来た顔だった。
「そうだ、カモミールティーを持って帰ってもいい? 今年の分はもう作ってあるよね」
気まずくて別の話題を振った。
「ああそれは母さんがおまえの分を瓶に詰めてあるから持って帰れ」
「ありがとう」
ほとんど同時に食べ終わったところで、父は携帯端末の画面上にある写真を表示させて見せて来た。
若い男性が緊張した様子でこちらに視線を投げかけている。
「だれ?」
ええとな、と父は少し気まずそうな面持ちで話し始めた。
「父さんの取引先にいる設計士の人なんだが、俺のデスクに貼ってあるリディの写真を見て気に入ったらしいんだ。それで、まあ、ちょっと会ってみないか」
「お父さん、私の写真を飾ってあるの? はじめて聞いた」
そんなことをする人とは思っていなかったのだ。
「当たり前だ。俺は職場で娘バカだと言われてる。昔は恥ずかしかったがもう開き直ったさ」
「それなのに男性を紹介するんだね」
父はそうだとも、と重々しく頷いた。
「父親は娘の幸せを願うものだ。どうしたリディ、妙な顔をして。父さんの愛情を疑っているのか?」
「ううん。うれしいよ」
本当だ。私は両親に恵まれている。
「今は仕事が忙しいから、目途がついたら連絡する。紹介の件はそれからでもいい?」
「わかったよ」
――今、あなたはとっても幸せなのね。
みんなに愛されているのね。ええ、羨ましいわ。だから壊したくなるの。失ったら耐えられるかしら。
数日後。信じがたい話を耳にした。思わず上司に二度聞き返した。
「調査資料が届いていないんですか? どなたですか?」
マクレガン議員だよ、と上司は言う。上司の表情は読めなかった。元々読みにくい人だったが、今日は輪をかけてわからない。
「あちら方はかんかんに怒っている。君、あちらで殺されるかもしれないけど、強く生きるんだよ」
「脅さないでください。ところでその資料が必要な審議はいつ始まりますか?」
「今日の午後三時からだよ。例のデータは持っているね?」
「もちろんバックアップはとってあります」
あと二時間ほどで始まってしまうと聞いて、焦りを覚えた。
「そうかい。なら行っておいで。今後の防止策は後で考えよう」
「わかりました。行ってきます」
書類を紙の封筒に入れ込んで、駆け足で職場を後にする。行先は国立国民議会図書館とは道を挟んで向かい側、国民議会場だ。慌てて駆け込んだ大理石の廊下で、運よく探し人の背中を見つけた。
「マクレガン議員!」
「ああ、君か。資料持ってきてくれたんだよね。ありがとう」
振り返った彼は意外にもにこやかに応じた。
「いいえ。手元に届いていなかったようで申し訳ありませんでした。時間は間に合いますか?」
「うん。問題ないよ。ただ少し読んで質問したいところが出てくるかもしれないから、その間だけ付き合ってもらおうかな」
「構いません」
敷地内にある屋外のベンチに座り、彼は無言で資料をめくる。十分ほどで読み終えると、彼が資料の疑問点を尋ね、私がそれに答えを出す作業をする。
「うん、わかった。十分だ」
彼は膝の上で軽く資料をそろえると封筒の中に仕舞う。
「よかったです。……今回は申し訳ありませんでした。それではお仕事頑張ってください」
「ちょっと待った」
彼はふいにスーツのポケットから愛用の万年筆を出すと、自分の指の腹に何かを書いている。そしてそれを封筒の影からひょっこりと出して、
『元気出して、子羊ちゃん。彼は君を心配しているんだ』
甲高い声で言った。指の腹にあったのは、インクで描かれた目と鼻と口。不細工な指人形だった。
なんですか、それ、とは言うまい。この人はたまにおふざけをしてくる時があるのだ。前は戸惑うだけだったが、今の私は成長した。
負けじとボールペンを出して、人差し指に目と口を描く。鞄を立ててその上からひょっこり二体目の指人形を登場させる。
『そうかしら、ダーリン。はじめて会った頃、彼はとても冷たい人だったわ。何も知らない新人の子に対して『期待以下の出来だね』とか『若さを振りかざせるのも今だけじゃないか。にこにこ笑うだけ笑ってやるべきことができない若い女の子が僕は嫌いだ』とか言っていたでしょ。自分だって若いのに』
乗ってきた私に議員の頬が緩む。
『彼は彼女に期待していたんだよ、うさぎちゃん。『君ならもっと上手くできる』と信じていたからだ。結果、期待以上に素晴らしい仕事をしてきたじゃないか。一度の不手際があったぐらいで評価を変えたりしない。それよりも心配なのは、彼女が落ち込んでいることなんだよ。がんばれ、がんばれー』
ひょこひょこと動く指人形は「ドゥルルンッ!」と不思議な鳴き声のようなものとともに消えた。
「その『ドゥルルンッ!』って何ですか」
自分の指人形をひっこめながら尋ねると「これが彼の持つ特技なんだ。さながらニンジャのごとく消え失せる。彼のアイデンティティーだね」と返ってきた。
「さしずめ、彼はドゥルルン君という名前ですね」
「そこはダーリンと呼んでくれ。もしくは『私の宝物』か『クマさん』でもいいよ、蜂蜜ちゃん」
うさぎちゃん。ダーリン。私の宝物。クマさん。
よくもまあすらすらと恋人同士で使う愛称を言えるものだ。砂糖吐きすぎて虫歯にならないか心配だ。
「……議員。そろそろ二時五十分ですよ」
「それはいけない。いってくるよ、すずめちゃん」
呼び方に統一性はないらしい。呆れた心持ちで彼と別れた後に自分の人差し指の腹を見れば、人形の目と口がはっきりと残っている。これまた不細工な出来栄えだ。ドゥルルン君と蜂蜜ちゃんの寸劇と同じぐらいひどい。仕方のない人だ。親指の腹で人差し指のそれを擦れば簡単にインクが滲む。