死者の宝
カチ、カチ、カチ……。柱時計の針が深夜の時を刻む。雨の音がまだかすかに聞こえてくるサロンにミュラー夫人、レオ青年、私の三人が普段着に着替え、移動した。私もミュラー夫人も深夜の取っ組み合いで寝間着がかなり破けてしまい、使い物にならなくなったからだ。彼にしても異常事態が起きているのにのんきに寝間着でいられるわけがない。
「なんといったらいいのかわからないわ……」
憔悴しきった老婦人がぽつりと言った。
「フロベールさん、信じてほしいのだけれど、わたくし、本当にそんなつもりでなかったのよ」
夫人の白い頬を涙が伝う。拭うためのハンカチを使うことも忘れ、掌に握りこんでいた。手の甲や腕には包帯が巻かれている。彼女は私が投げたスタンドライトのガラス片で怪我をしていた。それもあってしおれかけた花のように気の毒な姿になっている。
「どうして、どうしてあんなにおそろしいことができたのかわからない。悪魔がそうさせたとしか思えなくて」
「おばちゃん……」
レオ青年は老女の背中をさすってやりながらも困惑した表情を隠さなかった。
私の部屋で目覚めた夫人は何も覚えていなかったらしい。だが時間が経つにつれ、ぼんやりと記憶が蘇ってきたという。
変なのよ、と彼女は陰鬱な調子で訴える。
「あの時はフロベールさんが憎くてたまらなかったの。でも今になってはどうしてかわからない……。初めて会った方なのに殺したいと思ったのが、理解できないの」
本人でさえ把握できない殺意があったという。話している本人にも、私にも不可解な理由だ。
「言い訳じみているわね。信じられないでしょうね」
いいえ、と私は首を振る。
「会ってまもないミュラーさんが私に殺意を覚えるとも思えません。明らかにそれは不自然ですから。だから私たちの及びもつかない何かが起こっているようにも思います」
「幽霊かな……」
レオ青年がついにそのことについて触れた。
「今日、いやもう昨日っすね。昨日から妙なことが立て続けに起きているんすよ。手記の頁がいきなり剥がれた件、リディさんが妙な声を聴いた件、犬が一時行方不明になりかけた件に、今回の件。この館には、何かがいるのかもしれないっす。俺たちに害を為した何者かがいるとしか……」
「怖いことを言わないでちょうだい!」
夫人が急に叫びながら立ち上がった。
「わたくしは! こんなところに来たくなかったのよ! 主人の趣味で仕方なく引っ越してきてきただけよ、わたくしが望んだことなんてこれっぽっちもなかったわよ! ああ、もう何もかも気に入らないわ! どうしてここにアルベールはいないのかしら。勝手に死ぬからわたくしがこんな目に遭うのよ。……どうして」
膨れ上がった怒りは言葉とともに尻すぼみになる。夫人はソファーに腰かけると俯いて、しくしくと泣き出した。
レオ青年はその肩に優しく手を置き、
「少し落ち着こう。血圧が上がっちゃうよ。ほら、深呼吸して。すぅ、はぁ」
「レオ。申し訳ないのだけれど、少しの間、手を握っていてもらえる?」
「いいよ」
レオ青年は柔らかな声音で告げ、老女の手を握る。今度は向かいの私を見た。
「リディさんは大丈夫すか?」
「平気です」
私はテーブルに置かれた紅茶のポットに手を伸ばした。まだ温かいダージリンティーをカップに注ぎ入れる。取っ手を掴む手が小刻みに震えているのを気にしないように口に付けた。
「リディさんは落ち着いていますね。それとも隠しているだけ?」
彼の率直な質問に私は困惑した。どうしてそんなことを。
昔いたんすよ、と彼は言う。
「心の内を全部隠したまま俺の前から消えた人が。結局、俺はその人のことを何も知らないままだったんです。そのことをずっと後悔しているんすよ。……だからリディさん、辛かったらいつでも言ってください。助けに行くと言って助けられなかったんすから、それくらいさせてください。そうじゃないと俺がしんどいんすよ」
セットしていない青い髪はぼさぼさで重力に逆らわないでへたれている。それが大型犬の毛並みみたいだ。可哀そうだと情をかけたくなる。彼という人間の本質は善だ。未熟だろうけれども、誠実なのは伝わってくる。きっと彼は好ましい異性に対してもいい加減に接してこなかったのだろう。
私ははじめてこの青年に対して好ましさを感じた。
「ありがとうございます。私一人でいるわけではないのでさびしさは感じていないんですよ、本当に」
長い夜が明けた。家政婦二人が館にやってくるのと入れ替わるように私とレオ青年は例の車に乗り込んだ。幸いにも黒いビートルは軽快に走り出す。道の両脇の木の葉には朝露が溜まり、朝日に照らされて頭上できらきら真珠のようなきらめきを放つ。
窓から入る風は清々しく、館での陰鬱な気分を吹き飛ばしてくれるようだ。
「カールブルクに帰る前に寄り道していきましょう。イーズでお勧めの朝食を出すカフェを知っているんです」
「今回はやめておきます」
「じゃ、じゃあ今日やっている市場に行きませんか? 買いたいものがあるんすよ」
「買いたいもの?」
「……スカーフです。その首だと誰かに言われてしまうかも」
言いにくそうに告げた彼は私の頸の痣のことを気遣っているようだ。
「やっぱり目立つ?」
「はい」
氷で冷やしておいたのだが、触るとまだひりひりと痛む。少し思案すると、後頭部で一つに結っていた髪をほどいた。チョコレートブラウンに染めた髪がそのまま風を浴びてなびく。顔にかかる分をよけて、肩の周りにまとわりつかせた。これなら少しは目立たないだろう。
「これなら?」
「それなら……でも」
「ごめんなさい。今日は早く帰りたい気分だから。スカーフなら私の家にもあるし、何も問題ないから」
「そうっすか」
彼は運転しながら片手で耳のピアスをいじっている。
「俺、情けない姿ばっか見られている気がします。助けに行くって大口を叩いて、肝心な時に役立たずでした」
「レイマンさんに落ち度はありませんよ。あんなことは誰も予想できるわけありません」
「それでも、っす。俺、ちゃんと口にしたことは守るようにしていたのに。できなかったんす。あー、俺、情けねー……」
彼がまたも落ち込んでいる様子だったのでこう言っておいた。
「それなら次に何かあった時は助けてください。こういう約束はどうですか?」
「え……」
彼は鳩が豆鉄砲を食ったような横顔をしていた。頬がみるみると上気していく。
「お……お、お任せくださいっす!」
なぜか下僕根性丸出しの台詞を吐かれてしまったのだが、彼の機嫌がよくなったのでよしとする。同乗させてもらっている身である以上、彼の精神衛生が正常であることは私の生命維持にも繋がるのだから。
さよなら、金糸雀館。もう二度と行くこともあるまい。
車が駅前に到着すると、レオ青年がドアを開けてくれた。
「リディさん、また連絡します。国立国民議会図書館なら、俺もたまに行きますから」
「ぜひどうぞ。歓迎しますよ」
彼はサングラスを外しながらもの言いたげに私を見つめる。
「その時はまた食事でもしましょう。誘われてくれませんか?」
彼の顔を見ていられない。どう返事をしたらいいのか、考えあぐねるうちに、「まだ時間は間に合いますか?」と声が落ちてくる。
腕時計の時刻を確認すれば、八時十分。発車時刻は八時二十分だ。
「もう行きます」
一泊用の荷物を詰めた小さなスーツケースを引きながら歩き始める。
「リディさん」
名前を呼ばれて振り返れば、子どもじみた動作で手を振るレオがいて、遠慮がちに振り返す。
彼は手を振って見送っていた。
イーズ駅はすでに大勢の人が行き交っている。昨日ぶりに携帯端末を起動し、首都への切符を買った。あの館では携帯端末の調子がすこぶる悪く、ほとんど使えなかったのだ。
列車の指定席にはまだ空きがある。早めに開いていたキオスクでサンドイッチを買ってから高速列車に乗り込んだ。
列車が駅を出発する。イーズの景色が車窓の後方へ流れていく。窓際の席でようやく人心地ついた。
何もかもが変な旅だったように思う。謎はいくつも残ったまま置いてきたが、ミステリー小説のように全部がすっきりと解決できるものばかりでもあるまい。私たちは現実に生きているのだから。
首都までの暇つぶしにカバンの奥から読みかけの本を取り出そうと革のカバンを探る。だがそれは思っていたペーパーバックではなく。
「どうして……」
入れた覚えのないものがある。赤く染色された革表紙。マリー=テレーズの手記だ。
もしかしたら本当に『死者の宝』なのかもしれない。……死者の宝を得た者は、代償に自分の命を差し出すことになる。
まだ何も終わっていないと告げられているようだった。