襲撃
宿泊する部屋に向かう途中、廊下の窓に透明な筋が何本も斜めに流れていた。さきほど玄関扉が開いた時にも思ったが、激しい嵐が到来している。
この調子ではカールブルク行きの鉄道も運行を取りやめているだろうし、イーズまで戻るのにも難儀していただろう。
割り当てられた部屋は蝋燭の火が似合いそうな雰囲気のある部屋だ。バスとトイレ付きで、皺ひとつないシーツが張られたベッドもある。照明は入口付近の壁際のスイッチで点いた。枕元にはエミール・ガレ風のキノコ型スタンドライトが置いてある。とても気に入った。
書き物机に借りてきた手記を置いた。ガラスの照明スタンドも脇に置き、点灯すれば作業に支障がない程度の光量を確保できた。
持参してきた革のカバンから書誌カードを取り出す。今夜中にできるところまで空欄を埋めるつもりだった。
書誌カードとは本などの資料の情報をまとめたカードのことだ。正式な規格などはないが、一般的には資料の大きさ、分類、作者、成立年代などの書誌情報が書き込まれる。こうした書誌情報の集積こそが図書館という巨大な情報集積体には欠かせない基本的な作業だ。
私の使う書誌カードは最近、国立国民議会図書館の規格として認められたもので、ひな形は私が作った。自分で考えただけであってとても使いやすい。
本を傷つけないよう白い手袋をつけ、丁寧に手記をめくる。メジャーやルーペなどで細かい部分を確認していき、時々、カードに鉛筆で記入をしていく。
ボーン、ボーン、ボーン……。
鼓膜に届いた低い音にはっと耳を澄ませて時間を確かめれば、部屋の掛け時計の短針はちょうど頂上を指している。
凝り固まった身体を背伸びしてほぐす。軽くシャワーを浴びてから寝ることにしたが、その間も手記のことが頭から離れなかった。
本来ならあの手記をこんな夜に開きたくないが、私がここに来られる時間にも限度がある。調査が許されるうちはできるだけ情報を集めていたいからそうしたのだが、ベッドで目を瞑っているうちに、自分の行動に違和感を覚える。
どうして今まで平然と作業できていたのだろう。『死にたくない』という言葉が耳から離れないのに。
激しい雨と狼のうなりにも似た風の音が頭に侵食していくように感じながら意識が遠のいていった。
――みつけた。
姿形は変わっていてもわかる。あなたはこちらに近しい。本当の姿を隠していても無駄よ。さっきあなたも見たでしょ? 無視しないで! さあ、その目で見なさい!
ぼんやりと気配を感じた。鍵をかけた扉が開き、誰かが入ってくる。ベッドの上で眠っている私を静かに見下ろしている。
ぎし、とベッドが軋む。何者かがベッドに乗り上げてきた。
息。息が、できなくなった。
「ぐっ……」
急速に意識が結びついた。目を開けなくては。抵抗しなくては。
馬乗りの人影が首を絞めている。寝室は真っ暗だ。暗くて何も見えない。首に絡みつく手を押さえようとしてもびくともしない。
まずい。まずいまずいまずい……!
とっさに枕元に呼び出し用のベルがあったことを思い出した。引っ掴んでめちゃくちゃに鳴らそうとした。ぶんぶん振り回した。
しかし、鳴らない。何も聞こえない。――ポンコツじゃん!
渾身の力でベルをぶん投げる。壁に当たって派手に鳴ればいいものを、うんともすんとも言わない。音が出なければ助けも求められない。
「う、あ、ああ……!」
口を開いても空気を取り込めない。だめだ、頭が痛い。脳の酸素が足りなくなってくる。
だめ、だめ。死ぬのはだめ。
とうとう幻聴が聞こえて来た。ふふふ、と嗤う女の声が。人が苦しんでいる様を嘲笑っている性悪な声だ。
それだけでもう、カッと頭に血が上った。
どこのだれかは知らないけれど、リディ・フロベールは死なない。運命に翻弄されたあの女王ではないのだ。自分の生き方は自分で決められる。そのために、こんなところで殺されてなるものか!
死にたくない!(・・・・・・・)
その時とっさに掴み取ったものを大きく振り回した。相手の身体に当たり、ガシャン、と音を立ててそれが軽くなる。ベッドの上で蹲った相手の身体の下からどうにか這い出した。
手探りで壁を伝って、内鍵を開け、廊下へと続く扉を開けた。
「あっ」
レオ青年と鉢合わせた。彼は驚いたように息を詰めると、黙って私を廊下側に押し出し、中の照明を点ける。
そのまま動かなくなった。
「……レイマンさん?」
私は彼の背後から内部を覗き見た。カーペットには私が投げたスタンドライトのガラス片が散乱している。あのガレ風のキノコ型照明の残骸だ。ベッドの上には寝間着姿でうつ伏せになっている人影がある。白髪を振り乱した女性だった。
「おばちゃん……? おばちゃん!」
レオ青年が慌ててベッドに駆け寄ってぐったりした老女を抱き起した。彼女は顔面蒼白で意識も失っているようだ。が、生きている。
私はいまだにひりひりと痛む首に顔をしかめ、乱れた息を整えていた。
この首を絞めた犯人の正体はハンナ・ミュラー夫人だったのだ。