19、大切な人たちを捨てる覚悟
正一は、元の時代に一人戻るとの決断はしたものの、そうなると別の問題が頭をよぎった
まずオタたちにどう説明するかであった。オタの家族は正一や益男のことを
本当の家族のように接してくれたので現状の生活に全く不満はない。
だから別れる話をするのはつらかった。
さらに娘のナットがあまりにも正一になついてくれていたし、
正一もそういうナットの事が可愛くて仕方がなく、これでもう会えなくなると考えると
急激に寂しさを通り越して悲しささえ感じてしまう。
また、その決断の日から2日ほどでタクが一家そろって戻ってくるという。
この時代に転送されたとき、訳もわからない2人に住む場所を与えてくれただけでなく、
この時代で生きていけるよう仕事も教えてくれた。そんな大変お世話になったタクに
別れの挨拶もできない。それに今からこっちに向かってくるというタクの家族とも会えないのは非常にさびしい。
しかし、それ以上にやはり益男との別れが最も辛かった。
ベアーから事情を聴いたとはいえ、これは明らかに益男を裏切ることになるのだろうかと。
益男は桜という妹ができてその面倒を見るのを生きがいにしているようであるが、
たとえそうであっても、ここまで2人実の兄弟のように助け合って生きてきた。
自分一人だけ、こっそり元の時代に戻るということは、心が張り裂けるほど痛く苦しくて仕方がなかった。「やはり帰るのをやめた方が良いのだろうか?」
正一はその日の夜一睡できなかった。これからのことを考えながらそして皆との別れのことを思いながら。
決断する日の前日のお昼ご飯のとき。いつものように食事を終えた正一は
そろっている一堂に告げる決心をした。「オタさん、ヌットさん、ナットちゃん。そして益男。
実は大事なことを伝えないといけないのです」
といいながら、普段胡坐をかいて座っているのをこの時は正座に座りなおして頭を下げる
「どうしたんだ。この前の体調が悪くて寝込んでいたことなら別に気にしなくてもいいぞ」
「いえ、オタさんそうではなく。本当に急な話ですが、俺は、明日からしばらく旅に出ることにしたのです」
「え???」一瞬みんなの表情が固まる。
「兄ちゃんどうして・・・」悲しそうなナット「何があったの?」心配そうなヌット。
益男の表情も硬い。
「2日ほど前に寝込んでいたのは体調が悪いわけでなかったのです。実はこれからのことで悩んでいました。
このままここで皆さんと一緒に働きながら生きていくのが本当は良いのでしょう。
でも若い今だからこそ旅をしたいのです。オタさんがいたというアユタヤとかもっと遠くの国々を
この目で見ていきたいのです」
正一の予想もつかない言葉に静まり返る一同。
「僕は今20歳です。これから年を重ねると旅をするのはどんどん難しくなるでしょう。
だから一度の人生でやりたいことをやりたいのです。
オタさんたちには非常にお世話になっているのにこんなことを言うのは
失礼だけど、どうぞお許しください」
というと正一は深々と頭を上げる。
「ショウイチ君、私もたしかにアユタヤの国にあった小さな村から抜け出してこの地に来た人間だから
君の気持ちもわかるけど、なぜ明日から?あと2・3日すればタクさんが戻ってくる。だったらそれからでも」
「父ちゃんの言うとおり。どうして急に一人で旅に出るの?ショウイチ兄ちゃん。
ナットそんなの厭!今まで通りもっといろんなこと教えてよ!!どうしても行きたいならナットも連れて行って!!」
ナットはついに泣き出した。「そうよ。タクさんが戻ってからもう一度話をしましょう。
あなたの弟マスオ君や妹サクラちゃんを置いていくの?」
とヌットも説得するが正一は首を横に振る。
「それは全部わかっています。だからずっと悩みました。でも決めたんです。
タクさんにも大変失礼だとわかっています。でもタクさんが戻ってからでは、
この気持ちが揺れる気がします。だから先に行きたいのです。お願いします。
明日の夕方旅ださせてください」と再度頭を下げる正一。
正一の形相があまりにも怖くなったのか、オタの表情も硬い。
「うーん、そこまで言うなら仕方がない。君の好きなようにしたらいい。でもあまりにも急すぎる!」と
普段感情を出さないオタがこの時ばかりは怒りがこもった感情をあらわに言い放つと、
そのまま立ち上がって部屋を出て行った。ヌットも泣きじゃくっているナットを抱きかかえるようにして
オタの後ついていく。
非常にバツの悪いまま正一が益男の方を向くが、益男は無表情のまま。逃げるように桜のほうに行ってしまった。